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Face To Face No.82「変化が成長させてくれる」

 高46回生 高橋万紀

 (旧姓 横山)

 櫨谷中学卒(はぜたに)

 軟式テニス部

 筑波大学 人間学類

 日本総合研究所

 

 日本総研に入社して20年。2年前に部長となり社員30名とベンダー約150名を率いる高橋さん(旧姓:横山さん)。結婚後、二人の子どもの子育てと仕事の両立を果たしてきた。多くの人の力を借りながら、ストレスを貯め込まない自分なりの方法を模索。社内では子育て経験者の女性管理職として、女性社員向けにセミナーも行う。そんな高橋さんにお話を伺ってきました。

 

 ―就活では苦労するー

  就職では苦労した。大学では社会心理学を専攻していたので「顧客ニーズを掴むマーケティングに携わりたい」と考え、主に広告代理店やメーカーを回っていたが、30社以上応募しても決まらない。バブル崩壊後、徐々に就職事情が上向きはじめた時期だったが、厳しい現実に直面した。

 

 高橋さんが就職を決めた日本総研はシンクタンクのイメージが強いが、実際にはシステム構築部門が8割を占める。高橋さんは「ユーザーの声を聞いて、ニーズにあったモノ作りをする」という意味ではシステム作りにもマーケティングの要素があると視点を転換、就職を決めた。心理学を学んだ人がシステム?と少し疑問に思う人もいるかもしれないが、高橋さんが研究していたのは「対人印象形成」という分野で、仮説を立てて実験し、得られたデーターを分析する際に分析ツールを自分でプログラミングしていたので、ハードルは決して高くはなかったそうだ。

 

―転換期ー

 26歳から29歳にかけての3年間は、高橋さんにとって、第一の転換期だった。三井住友銀行の法人向けインターネットバンキングシステムの新規構築プロジェクトの主要メンバーに抜擢されたのだ。

 

 既存の法人向けバンキングシステムは、銀行員がお客様の会社に出向いてアプリケーションをインストールし、その後のケアも全て出向いてするという形だった。それをネット上で簡単に使えるアプリケーションに進化させるというものだった。このシステムは現在約10万社の顧客を持つ三井住友銀行の主要サービスに成長している。

 

 「要件調整では、顧客(銀行)からの要件はどんどん膨らむ。サンプルアプリケーションを作ってもなかなか承認してもらえない。予算も期限もはみ出す一方。今では考えられませんが労働時間は月300時間、帰宅はいつも最終電車かタクシー。土・日のどちらかは必ず出勤というのが常態でした」

 

 このような中、27歳の5月に結婚。11月には日本総研が三井住友フィナンシャルグループとなり、三井住友銀行の600人のシステム部員と合流。企業文化が大きく変わる中、翌年2月にシステムをリリースした。

 

 「今のままでは、結婚後に仕事を続けるのはとても無理なのではないかと考え、もっと楽な部署への転部を願いでるか、いっそ転職しようかと悩んだのがこの頃です」

 

 フェーズ1のリリースが終わるまでは、と上司に説得され踏みとどまったものの、次に始まるフェーズ2の要件調整担当を上司がなかなか指名しないのを見かねて「手を挙げてしまった(笑)」高橋さん。転部・転職をしないままに第一子を妊娠。妊娠中も夜の10時、11時まで仕事しながら産休に入った。

 

―仕事と子育てー

 子育てをしながら働くのはいつも大変だが、一番大変だったのは、やはり復帰直後だ。

 

「私は時短を選びませんでした。時短だとおもしろい仕事がアサインされなくなるのではないかと考えたのです」。

 

実母の協力が得られるようにと、産休中に実家から車で30分ほどの場所にマンションの購入を決めた。通勤は一時間半かかるが、保育園が併設されることも決め手だった。完成・入居までに一年ほどのタイムラグがあったが、それまでは、保育料は高くなるが、駅近くの最大20時まで預かってくれる保育園を選択した。

 

出産後は、別システムのプロジェクトにアサインされた。合併により社風の変化も加わっていた。そんな中、もっとも変わったのが仕事へのスタンスだった。

 

「多少残業したとしても、私だけが先に帰宅することになります。プロジェクトメンバはその後も何時間も仕事を続ける。毎朝、浦島太郎状態です。午前中にやっとキャッチアップしても、また後をお願いして帰宅しなければなりません」

 

その中で、できるだけ「人に頼らない」スタンスから、自分でなくてもいいものは「人に頼る」スタンスに切り替えた。また、日頃から自分の考えを「見える化」し、不在時にも思う方向に仕事が進むよう努めた。この時の経験が、管理職となった現在の仕事にとても役立っているという。

 

「実母、ファミリーサポート(市区町村の援助で行われている事業。近隣でサポートを登録している人が、保育園へのお迎えに行き、自身の自宅で子どもたちに夕食を食べさせてくれ、親が迎えに行くまで遊ばせてくれる・・など、いろいろなサービスが受けられる)、ベビーシッター、そして保育園で親しくなったママ友など、沢山の方々の手助けを受けて切り抜けてきました」

 

妊娠中に先輩から受けたアドバイス、「子どもが小さい時は自分のお給料を全部、保育のために使ってもいいのよ。キャリアを中断させないことが大事」がいつも頭の隅にあったかも、と言う。

 

仕事のストレスは子どもと触れ合う時間で忘れ、子育てのストレスは仕事に没頭することで忘れる。この切り替えがトータルでストレスを軽減する妙薬、と高橋さん。子ども時代、父の転勤に伴って小学校を3度転校した。その時に身に着けた社交性と天性の明るさに助けられてきたと思う。「仕事も子育ても遊びも諦めない女」と社内ではもっぱらの噂とか。

 

「一見、自分にとっては苦境になると思えるようなことー出産、会社の合併―も、振り返れば、あれが成長のきっかけになったと気付きます。環境が変わることで辛いことがあったけれど、それによって様々な立場の人の気持ちが分かるようになり、自分が成長する契機となります。変化や失敗をおそれず何事にもチャレンジして欲しい。失敗しない人生の方がむしろつまらないですよ!」高橋さんから、現役長田生へのアドバイスだ。(20192月 取材・文・写真 田中直美)

 

 

「子どもと一緒にのんびりすごしている時が最高にハッピー」

 

編集後記

 高橋さんとは、「Face to FaceNo76でご紹介した栗田直樹さんhttp://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=183 の朝活で初めてお会いしました。朝の7時半スタートの朝活に出席するために私は朝5時半起きして、会場に少し早く着いたので会場前のベンチで待っていたのですが、その時に現れたのが高橋さん。なんとなく、話し始めたら長田の後輩と分かり、しかも彼女は4時半に起きて、子どものお弁当まで作って出て来たと伺いびっくりした次第です。「社交的で明るくオープンマインドの頑張り屋さん」私の第一印象は、インタビューを終えた後も変わりませんでした。

 

 

前の記事はこちらから

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=192

 

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61回生 中野瞳さん アジア選手権 走り幅跳び日本代表に選出されました!

走り幅跳びでのオリンピック出場を目指す
61回生中野瞳さんが、2019年アジア選手権の日本代表選手に選ばれました。

https://www.jaaf.or.jp/competition/detail/1345/

https://readyfor.jp/projects/gogohitomin/announcements/94669

 

走り幅跳びで出場できる女子選手は2名だけ。 中野瞳さんにとっては、12年ぶりの出場となります。

アジア選手権は4月21日〜24日 カタール・ドーハで行われ、主な出場選手には、桐生選手や山縣選手なども名を連ねます。

 

この冬は跳躍の強豪国ドイツで3ヶ月間トレーニングを行った中野さん。 帰国してすぐの嬉しいニュースに、中野さんからコメントが届いています。

https://readyfor.jp/projects/gogohitomin/announcements

カタール・ドーハへは、なかなか応援に駆け付けられませんが
もし、応援する気持ちを表したい!という方がいらしたら
下記のサイトより、1000円から募金に参加でき、応援メッセージも届けることができます。
https://readyfor.jp/projects/gogohitomin?fbclid=IwAR2lKa7v-pvTjnExjJ4iC3suC8u4VEWaJiwmsovlmkKRiFrDp5D4ogAY3sw

 

 

過去の応援メッセージはここから
https://readyfor.jp/projects/gogohitomin/comments

 

Face to Face No.59 中野瞳
「うまくいかないからこそ面白い」

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=156

4月に中野さん大活躍のニュースが届く事が楽しみですね!

(文責 41回生 井川千穂)

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49回生 春本雄二郎さん、高崎映画祭で新進監督グランプリを受賞!

長田生には多彩な才能がある・・と日々感じていましたが、何と映画監督さんまでいらっしゃいました。

49回生春本さんが初監督された「かぞくへ」で、高崎映画祭・新進監督グランプリを受賞の快挙です。

http://takasakifilmfes.jp 

https://www.facebook.com/yujiro.harumoto/posts/1228735300601061

「かぞくへ」は日本の片隅に生きる若者たちの息遣いを、骨太に描き出した人間ドラマ。

既に海外の数々の映画祭でも高い評価を得ています。

http://kazokue-movie.com/

 

そして高崎映画祭といえば、今年で33回目を迎えるとても歴史ある映画祭。

これまでの素晴らしい受賞作品と並ぶ事は、大変な事なのです。

 

春本さんが目指している映画は、商業映画ではなく、「社会の窓」であり「人の心」を描くもの。「映画教育」として日本に根付かせたい、と強く思っていらっしゃいます。

それを実現させるために立ちあげたのが「映画工房春組」。

今は次回作「由宇子の天秤(仮)」の撮影の為に日々奔走しているそうです。

https://haru-gumi.amebaownd.com/

そんな春本さんは須磨区北落合・白川台中学校のご出身。

長田の想い出をお伺いしたら、やはり・・・

「体育の時間の最初に走る、周回走2,400メートルです。これが大変で。

雨の日になると、なぜか倍の4,800メートルを走る通称『ロング』。これも地獄でした。今となってはいい思い出ですが。」

 

「かぞくへ」の劇場公開は終了してしまいましたが、今は鑑賞希望者3人以上で、無料でDVDを貸し出してくれます。

(湊川公園のパルシネマでも同様のサービスあり)

https://haru-gumi.amebaownd.com/pages/2196423/page_201808191645 

元町映画館公開時の様子

 

また映画館がない街にも映画を届けよう、という取り組みもされています。

“商店街でお買い物して映画も見られちゃう”なんて斬新な発想ですよね。

「山口街中映画祭」

http://www.yamaguchi-machinaka.com/event0074/?fbclid=IwAR1iQdWizbcEhNZno12-G7AgpkeKvlrz5dLtX8Dx-tLBO3_oFMHHz_be2ww

 

これからも春本監督から目が離せません。次回作品が楽しみです!

https://haru-gumi.amebaownd.com/pages/2212967/page_201808261019

▼春本雄二郎 プロフィール
1978
年生まれ。兵庫県神戸市出身。日本大学芸術学部映画学科卒業後、松竹京都撮影所の演出部となり、井上昭、石原興らに師事。『鬼平犯科帳』『必殺仕事人』など時代劇を多数経験。
初監督長編映画『かぞくへ』は、第29
回東京国際映画祭に公式出品され、第23
回フランス・ヴズール国際アジア映画祭では、NETPAC賞(最優秀アジア映画賞)を含む3冠受賞。
第17回ドイツ・ニッポンコネクションでは審査員スペシャルメンション授与。オランダ、韓国でも上映され、日本では2018年に公開。
2019年1月に『かぞくへ』で、第33回高崎映画祭『新進監督グランプリ』を受賞。
今年、次回作『由宇子の天秤(仮)』を撮影予定。

 

(文責 41回生 井川千穂)

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Face To Face No.81「やんちゃと生真面目」

 河合伸一

 三中25回生 高3回生

 京都大学法学部

 弁護士

 最高裁判所判事

 

 河合さんは、裁判官、弁護士、最高裁判所判事、そして再び弁護士、という人生を歩んできた。それは、河合さんの「真面目で細かいところまで気になる」性格と、「やんちゃ」な性格が表裏一体となりながら、それぞれの仕事に邁進させたと、妻でもあり弁護士でもある徹子さんは言う。今は閑静な住宅街で奥様と二人で暮らす河合先輩にお話を伺ってきました。

 

―歩んできた道ー

 「小学生時代は本当にやんちゃでしたね。先生にも怒られてばかり。それも教室の後ろとかじゃなくて、机の上に立たされちゃう。あれは恥ずかしかったなあ。級友たちはともかく、他の組の連中にも廊下から見えちゃうからね」と愉快そうに笑う河合さん。

 

 三中に入学前後は戦争だった。妹をオンブした河合さんは、機銃掃射で後ろから撃たれながら神戸電鉄のトンネルをめざした。走る河合さんの背中を、弾があたって跳ねる線路の敷石の音が追いかける。神戸の大空襲では、火の中をたった一人で裏山まで走った。どうしょうもない空腹とともに残る戦争の記憶だ。

 

 河合さんたち三中25回生は、最後の三中での入学生。卒業するときは高3回だった。

 

 「家が貧乏だったからね、地元の国立大学である神戸大学に行くつもりだった。京都大学なんて考えたこともなかった。でも、学年主任の先生が『京都大学を受けてみたら』と勧めてくれたんだよ」

 

 進学した京都大学法学部の友人が「司法試験」なるものを受けると言う。お前も一緒に頑張ろうやと誘われ、「司法試験っていったいなんや?」と雑誌で調べた河合さん。じゃあ、俺もやってみるかと、5人グループで勉強を始めたが、仲間は次々と脱落。「みんなに司法試験を受けると宣言していたからね。全員が辞めてしまったらカッコワルイと思って僕だけがんばったんですよ」。そして三回生で司法試験に合格。

 

 だが、その段階でも法律家の道に進むつもりはまだなかった。とにかく安定したサラリーマンの職に就いて稼ぎたい。超就職難の時代だった。

 

 「その頃、京大のゼミの先生で大隅健一郎という先生がいらした。一流の商法学者で、とにかくその先生の推薦がもらえると一流企業に就職できる。お願いに行ったら激怒された。『司法試験に通っているんだろう?推薦をもらってからどこの会社に行くか考えます、なんて言うやつに推薦はやれない!』。恥ずかしかったですね。そして司法修習生になりました」

 

 司法研修所で徹子さんと出会い結婚。裁判官となってすぐにハーバード大学へ留学。氷川丸で一ヶ月近くかけて渡った。一年間の留学生活の後、帰国。司法研修所付判事補となる。

 

 「この頃生まれた次女が、心臓が生まれつき悪くてね。大きな病院で治療を受けさせたかったが、裁判官には地方勤務がある。それで裁判官を辞めて弁護士になりました」

 

 河合さんの扱った案件ではイトマン事件が有名だが、阪神で活躍したランディ・バースとの契約に関わったのも河合さんだ。

 

 「バースの件でアメリカに行った時は、ファーストクラスの席だった。タイガースが用意してくれていたんだが、あの時は驚いたね。なんせ、その前にアメリカに行った時は氷川丸で一ヶ月の航海だからね。アメリカ人向けのシートは大きくて、僕が座ると体が埋もれてしまうぐらいだったよ。当時はキャビンアテンダントではなくスチュワーデスさんだけどね、これが女性なのに、みんな薄っすらと髭が生えていたのにびっくりしたね」

と昔を懐かしむ。

 

 経済通として知られた弁護士として活躍していたが、62歳の時に、最高裁判所判事に任命される。妻と4人の娘に「承けてもいいか」と尋ねたら、すぐに次女と末娘から葉書で返事が来た。

 

 心臓が悪かった次女は裁判官になっていた。来た葉書に書いてあったのはたった二言。「いやだ。困る」。劇作家になっていた末娘の葉書には「たとえお父さんが殺人を犯しても、父であることに変わりはありません。お好きな道を」。妻はあわてて長女と三女に電話して「当たり障りのない返事を書くように」とお願いしたと笑う。

 

―靴ー

「裁判官である時は、とにかく『公平中立』であることが第一。私生活であってもそのことは常に意識していました」

 

 ある日、靴を磨いていた妻が驚いて言ったという。

「裁判官の時は靴のかかともまっすぐにすり減っていたけど、弁護士になってからはかかとが傾いて減っているわ!」

 

「夫の本質は裁判官に合っていると思います。でも、子どもの時はかなりのやんちゃだったようで、それが弁護士時代には役に立ちました。たくさん喧嘩もしてたくさん仲直りした子ども時代。その経験が依頼者の役にたったと思います」

 

 2002年に最高裁判所判事を退官、東京弁護士会の弁護士となる。2004年旭日大綬章を叙勲。2017年に弁護士資格を返上。

 

 引退後の生活はいかがですか?とお尋ねすると、「楽だねえ」とニッコリ。毎日、妻の手料理を楽しむのが最高に幸せとのこと。

 

 「学生時代は、力一杯、好奇心を持ってできることはなんでもやってください。早くから進路を決めすぎないで。君たちはものすごい広い可能性を持っている。無限ですよ」

河合先輩から現役長田生へのアドバイスだ。(2019年1月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 河合さんを推薦くださった中25回生のみなさんは、今も有楽町にある「東京六甲倶楽部」で二ヶ月に一回、集まられるそうです。最初はただ集まっていましたが、仲間の一人が「孫や健康の話に終わるのはやめよう。毎回、何かテーマをもって勉強しよう」と言い出し、言い出しっぺの福留さんが、毎回、資料も用意してミニ勉強会を開催されているとのこと。そして、お仲間の尽力で、河合さんの旭日大綬章も母校に寄贈され、他の運動部や文化部の優勝旗などと共に飾られているとのことです。

 大先輩のインタビューに最初はちょっと緊張しましたが、河合先輩のチャーミングな、そして時々いたずらっこのような笑顔と、今も明晰なそのお話しぶりに楽しくお話を伺うことができました。「妻の方がうんと記憶力がいいからね」と奥様にもご同席いただきました。ありがとうございました

 

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Face To Face No.80「継続は力なり」

 高54回生 桑田寛之

 高倉中学卒

 サッカー部(キャプテン)

 広島大学工学部

 富士通

 


 

 みなさんは「フットゴルフ」というスポーツをご存じだろうか?簡単に言えば、サッカーボールでゴルフするスポーツである。2009年にオランダで始まり世界に広がった。日本では2014年に日本フットゴルフ協会が発足。2015年、初代日本代表選手として選出されたのが桑田寛之さんだ。

 

―サッカー一筋ー

 父の転勤に伴って、小学校6年生で中野から世田谷に引っ越し、更に神戸に越したのは中学3年生を目前に控えた春休みだった。

 

 「未だに関西弁が話せません(笑)。転校当初、関東弁をいじられたけど、反対にそれが親しみを増すきっかけになったりもしました。『通学には白靴がマスト』、とか、『神戸体操』っていったい何?って戸惑うこともありましたが、ずっとサッカーをやっていた僕は、3年生の新学期が始まる前からサッカー部で練習をさせてもらいました。そこで既に仲間が出来ていたので、神戸での学校生活に馴染むのも早かったと思います」

 

 そして長田に進学。高校でもサッカー部に入部した。

 

入部して最初の試合からレギュラーで出場させてもらった。ポジションはフォワード。

「当時、各学年に20名ほどの部員がいました。60名の中から試合に出られるのは11名、補欠も入れて20名ほど。その中で、一年生からメンバーに入れてもらったのは2人で、試合に出られる11名の中に入れてもらったのは僕一人でした。三年生にとっては引退試合です。僕が出ることによって試合に出られなくなる三年生がいる。出してもらった限りはチームに何がなんでも貢献せねば!と強く思っていました」

 

 県予選を勝ち進み、ここで勝てばベスト4というところまで進んだ。だが、そこで敗退。この時の試合で、桑田さんは点を入れることができなかった。

 

 「司令塔を務めていたキャプテンの三年生の先輩が、試合前日の体育の水泳の飛び込みでまさかの肩の脱臼。試合当日、ウオーミングアップで再び脱臼。病院に駆け込み肩を入れてもらって試合には途中出場でした。それまでの試合ではいい感じで勝っていただけに、メンバーが変わったことによって、自分自身のメンタルの弱さが出てしまった!と悔しかった。僕はどちらかというと人に合わせるタイプ。もっと自分からいかなければダメだと思いました」

 

 3年生でキャプテンになったが、監督の林先生からは「前代未聞の優しいキャプテン」と称されたとか。「人を怒ることができない」優しい桑田さんだが、仲間からは「勝負への拘りは人一倍強い」と言われているそうだ。

 

 進学した広島大学でも体育会のサッカー部に入部した。入部してから知ったのだが、広大サッカー部にはサッカーでの推薦入学枠があり、地元サンフレッチエのユースや全国大会出場校から進学してくる選手など、サッカーエリートがたくさんいた。部員は約80名。

 

 その中で、桑田さんは副キャプテンを務める。「今度はチームのつなぎ役だったので、適任だったと思います(笑)」

 

―フットゴルフとの出会いー

 サッカー漬けの子ども時代・青春時代を経て富士通に入社、システムエンジニアとして働きだした。商社のサッカーチームに入れてもらいサッカーを続けていた桑田さんが、初めてフットゴルフを見たのは2015年のテレビ番組でのこと。木梨憲武さんとジーコさんがトライしていた。

 

「観て、すぐにやってみたいと思いました。調べたら宇都宮で大会があるとのこと。出場してみたら60名中4位。そして次の大会では優勝。そして気付いたら2015年には初代日本代表になっていたのです」

 

 自信満々で臨んだオランダでの世界選手権。「入賞したら、インタビューではなんと答えようか」とまで考えていたが結果は惨敗。150人中100位ぐらいだった。

 

「日本ではカップはグリーンではなくラフに切ってありますが、海外ではグリーン上にあります。ものすごくボールが転がり止まりませんでした」

 

 練習を積んで、「今度はいける!」と臨んだアルゼンチンでの大会では、1ホール目で、パー4のホールを16(+12)の大たたきをしてしまった。

「両側をバンカーに挟まれたグリーンで、バンカーとバンカーの間を行ったり来たり。ミスを引きずって自分自身をコントロールできず、予選敗退という非常に悔しい大会となりました。」

 

 二つの世界大会に出場して気付いたのは「決して、サッカーボールを蹴るフォームが綺麗な人が上手いというわけではない。どこまで飛ばすかではなく、どこで止まるかが大事という、ゴルフでは当たり前の理論でした。」

 

 河川敷にボールを7つも8つも並べて、思った場所で止められるようにする練習を黙々と続けた。

「時々、親切にも飛んでるボールを途中で蹴り返してくれる人がいて。止まる場所が見たいんですが(笑)」

 

 そして、2016年のアジア大会では個人・団体戦共に優勝することができた。

 

―仕事とプライベートの両立ー

 現在、「働き方改革」の最前線にいることもあり、テレワーク等を利用しながら家族との時間、練習の時間、遠征の時間をやりくりしている。6歳の一人息子と遊ぶ時間が今、一番幸せな時。お父さんはこんなにアウトドアスポーツ大好きなのに、「息子はなぜかインドア派で(笑)。家の中での戦隊ごっこに付き合ってます」

 

 「フットゴルフは多くのゴルフ場ではゴルフの空いた午後からの空き時間を使って練習させてもらっています。サッカー経験者が多いので、初めてされる方はジャージでやってきてゴルフ場のメンバーさんにひんしゅくを買ってしまうこともあります。もっともっとマナーも整備して、ゴルフ場、ゴルフ場の会員様、そしてフットゴルフを楽しむ人たちがお互いにウインウインの関係になれるようなしくみを考えることも僕の一つの役割だと思っています。」

 

 フットゴルフの技術を磨くと共に、現在は、広報活動にも力を入れている。2024年のパリオリンピックで正式種目に認めてもらうことも当面の目標だ。

 

「勉強以外にも、全力で取り組めるものがあると楽しいですよ。何がきっかけになるか分かりません。いろんなことにチャレンジしてください!」桑田さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2018年12月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

試合でパターを決める桑田さん

 

桑田さんの動画、ハイライトシーンはこちらから

動画

 

編集後記

 桑田さんはとても穏やかに話します。それはいつも全く変わらずで、「反抗期さえなかったかも」とご本人も笑っていました。アルゼンチンやモロッコなど、かなり遠い国で開催されるフットゴルフですが、奥様は「優勝してきてね」といつも明るく送り出してくれる陽気な沖縄出身の女性とか。現在もフットゴルフ日本代表チームのキャプテンとして、メンバーのつなぎ役を自認する桑田さん。ゴルフを始めたばかりの私にも通じる「ゴルフ理論」もとても楽しいインタビューでした。

 

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Face To Face No.79「コミュニケーションが基本」

高28回生上門一裕(うえかどかずひろ)

 垂水中学

 神戸大学工学部土木工学科卒

 山陽電気鉄道株式会社

 代表取締役社長

 阪神電気鉄道取締役

 神姫バス取締役

 

長田生にとって馴染み深い山陽電鉄。そこで既に10年間代表取締役社長を務めている上門一裕さんは、「自分の生まれ育ったこの大好きな地で、どこにも負けない鉄道、魅力的な沿線を作っていきたい」という想いを追いかけてきた。昨年、還暦を迎えた上門さんに、お話を伺ってきました。

 

―登山ー

 中学と大学時代に登山部に所属していた上門さんは、「ひたすら頂上を目指して一歩一歩登っていくしかない」登山に魅了されていた。自然の中に溶け込み、時には高山植物の可憐な姿に癒されながらも、急峻な崖や山道では、ただひたすら忍耐を必要とする登山。

 

「そこになにがあるのかと思われる方もおられるでしょうが、達成したときの喜びやすがすがしさは何にも代えられません」

 

 大学では土木工学を専攻。専門は耐震工学だった。自然を相手にしながら、生活の基盤を担う仕事につきたいと考えるようになる。そして最終的に決めた勤め先が、自分が大好きだった舞子や垂水、須磨を走る山陽電鉄だった。

 

―阪神淡路大震災ー

 上門さんにとっての一番の大きな転機は「阪神淡路大震災」だ。恐ろしい程の地鳴りの後に襲ってきた大きな揺れ。それぞれの部屋で寝ていた子どもたちの無事を確認した上門さんは、単車で西代にある本社を目指した。西代に至る道は、最も被害の大きかった地域の一つ。火事があちこちで起こり、本社の周りの建物は全てペシャンコ。いつも通っていた本社前にあった焼き鳥屋のおばさんも亡くなった。

 

 「耐震工学を学んできた私は、そのような事例の調査や研究ばかりしていたのに、心のどこかで他人事のように感じていました。それが、我が身に降りかかって、改めて人間の無力さと自然の怖さを痛いほどに感じたのです」

 

 土木課長だった上門さんは、24時間不眠不休で復旧のための設計や工事、国や自治体との折衝に関わった。そしてその後、全線開通には半年、完全復旧には一年もの時間が必要だった。

「阪神淡路大震災以降、地震だけにかかわらず、あらゆる災害や事故を見聞するたびに『今、これが自分の身に起こったらどうするか?鉄道会社としてどうすべきか?』と考えるようになりました」

 

―コミュニケーションー

 上門さんが最も大切にしているものの一つがコミュニケーションだ。鉄道会社にはありとあらゆる種類の苦情が寄せられる。とりわけ上門さんが若い時に取り組んだ土木部門では、駅の改築や線路の保守工事など夜の仕事ばかりで、近隣からは苦情の嵐だった。

 

「謝ってばかりでしたね。だから、今も怒られることは苦にならないですよ(笑)でも、その時に学んだのは、苦情に対応するのも、最終的には人と人とのコミュニケーションだということでした」

 

 現場第一主義の上門さんは、今も機会があれば電車の運転台に添乗するし、各職場巡りをかかさない。ある時、クレームの現場にたまたま居合わせ、お客様が「社長を出せ!」と怒鳴っていたので、隣にいた上門さんが、「私が社長です」と答えた。一瞬、とまどったお客様だったが、誠実な態度で接することで、その顔には照れ笑いが浮かび納得していただいた。

 

―台湾ー

 クレームやお客さまからの要望への対応は、個々の社員が臨機応変に誠意をもって対応することが大切と考えている。ある時、台湾からのお客様が電車の中に携帯電話を忘れたが、駅員の計らいであっという間に手元に戻った。とても感激したお客様は、台湾に帰国後、その感謝の旨を大阪にある台湾領事館に手紙で伝えた。そのことを台湾領事館から連絡を受けたという報告を、社員から聞いた上門さんは、「せっかくの機会だ。直接、領事館に行ってこちらからもコミュニケーションをとっていらっしゃい」とアドバイスする。

 

 そして、この出来事がきっかけとなり、台湾の交通部(日本の国交省に相当)台湾鉄路管理局との姉妹鉄道協定がなされた。4年前のことだ。姫路城など山陽電鉄沿線の宣伝が台湾でなされ、今では姫路城にくるインバウンド観光客のなんと四分の一が台湾からのお客様だ。

 

「人口減少が進む中、地方の山陽電鉄だけでは生き残っていけません。『世界にはばたく』山陽電鉄を目指しています。その第一歩となった台湾との姉妹鉄道協定です。韓国、中国ほか東南アジア各国ともっとインバウンドの市場を広げていく努力の最中です」

 

―すぐやる!ー

「とにかく、何事もすぐに解決しないと気がすまない。気が短いんですかね(笑)。問題を後送りにするのが一番嫌で、とにかくその場で解決したい。『検討します』という答えはありえません」と、上門さんは言う。

 鉄道は365日、一日も休みがない。しかも朝から夜遅くまで電車が走り、電車が止まった後は、安全のための保守点検がなされる。あれほど好きだった登山も、社長に就任以来すっかりご無沙汰している。すぐに連絡のとれる場所にいるためだ。今はゴルフが最大の息抜き。長田の旧友たちと行くゴルフは最高だ。

 

「人生は長いようであっという間に過ぎてしまいます。今、やりたいことを全力で取り組んでほしいと思います。問題に直面しても、言い訳したり諦めるのではなく、常に『いま、どうすればできるか、何をできるか』を自問してほしいと思います」上門さんから、現役長田生へのアドバイスだ。(2018年11月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 「何事もすぐやる」。お言葉通り、インタビューを申し込んだ時も、その後、事前の質問でメールをやり取りした時も、驚くほどのスピードでお返事が返ってきました。社長業でお忙しいだろうにと驚いていたのですが、お話を伺って納得した次第です。山陽電鉄には、私自身も毎日乗って長田に通いました。長田の同期でもある上門さんが、その社長になり神戸の街を、播磨の国を、もっと活気のある地域にと活躍しているのは誇らしい限りです。

 

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今年はクルーズ日和! チャリティバザー:東京湾クルーズ2018

10月6日、本年度の東京総会のチャリティバザーの目玉のひとつである、南山支部長さんのヨットでのクルーズとバーベキューツアーに参加して来ました!

 

天気図とみんなのスケジュール表をにらむこと数週間、やっと決行されたクルーズ当日は、西日本に台風25号がいるとは思えないほどの、穏やかな海♪

 

さわやかな海風と、船上でのすばらしいバーベキューを楽しめる一日となりました。

 

実は、わたしは去年も参加させていただいたのですが、風とうねりの中、スリルとスピードを味わった前回とは全く違うコンディション。

「それもヨット、これもまた別のヨットの楽しみ方なんですよ」とおっしゃっていた、インストラクターさんの言葉通り、また、いつか違った海を体験できたら…と思ってます!

 

来年、次は是非皆さんが落札して、この素晴らしい体験をしてみて下さい。


(41回生 松田)

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Face To Face No.78「宇宙全託」

 高31回生 寺門孝之

 垂水東中学卒

 映画研究部

 大阪大学文学部美学科卒

 神戸芸術工科大学教授

 

 

 

大阪大学工学部に入学しながらも、現在は神戸芸術工科大学教授を務め、画家として数々の作品を発表し続ける寺門さん。そのモットーとする言葉は「宇宙全託」。この聞きなれない言葉は寺門さんがかつて仕事上、お付き合いのあった某会社の社長の座右の銘であったとのこと。その言葉が自らの人生の指針となるに至った、不思議なお話を伺いました。

 

―学生時代ー

 イラストレーターの宇野亜喜良の絵が大好きで、一生懸命トレースしていた小学生の寺門さん。いつかは自分の絵で世に出てみたいと思っていた。長田時代は映画の自主制作に没頭した。大森一樹監督や石井岳龍監督が活動し始めていた頃で、寺門さんは8ミリフィルムでの撮影、脚本執筆、編集、チラシ制作など表現活動に没頭した。

 

 大学入試直前になって美術系大学を受験したいと打ち明けたが、担任教員にも両親にも「そんな話は聞いていない、今からでは絶対に無理」と反対され、ならば一年浪人して美大を受けようと心密かに決めていたところ、現役で大阪大学の工学部に合格してしまった。入学はしたがやはりしっくりこず、3年進級時に文学部美学科に転部転科。だが、そこでも美術史を研究するだけで「描く」わけではない。東京に出て絵の実制作を学びたい! そのためにも、一人息子である自分は、まずは大学をきちんと卒業して両親を安心させねば。

 

 「ちょっとした『めくらまし』ですよね(笑)」。卒業が遅れそうだった寺門さんは、信頼を得るため猛勉強してなんとか4年で大学を卒業。両親の許しも得て上京した。

 

―セツ・モードセミナーー

 上京した寺門さんは、数々の美術学校を見学する。生活費は自分で稼がなくてはいけないので夜に授業を受けることにしていた。

 ある夕暮れのことだ。不思議な、とてもセンスのよいファッションに身を包み、絵の道具を抱えた人々がおしゃれな建物に吸い込まれるように入っていくのを見た。そこは日本のファッションイラストレーションの草分けであり、水彩画家としても独特の繊細でファッショナブルな画風で知られる長沢節が主宰するセツ・モードセミナーだった。

 

 引き寄せられるように建物に入った寺門さん。受付には、今までに見たこともないような美青年が座っていた。「資料が欲しいのですが」と言うと「ちょっと待って下さい」と言われた。

 

 「そして彼は、いきなり半ダースほどの鉛筆を取り出して、それをカッターで美しく削りだしたんです。そして削り終わった鉛筆をトントンと揃えて、『で?』と言ったんです。なんなんだ!この特別な雰囲気、美意識は?」こうして寺門さんはセツ・モードセミナーの夜間部に週三回通いながら、昼間はアルバイトする生活に入った。

 

―声ー

 長沢先生は細かいことは一切教えない。生徒たちが描いた絵を見て講評だけをする。初めての講評会で寺門さんの絵を観た先生は「君は写真か、映画をやっていたのか?うん、そんな感じだな。だが、絵の構図は写真とは違う。絵では水平線は傾けてはだめだぞ」と言われた。なんだかまだ分からないがこの先生はすごい!そう直感した。「この先生について行こう。」 だが、その後、寺門さんの絵はなかなか評価されることがなかった。寺門さんは落ち込んでいく。やがてアルバイトも辞めてしまい、昼間は寝て過ごすような自堕落な生活を送り始めた。

 

 アパートの万年床で昼間まで寝ていた寺門さんは、突然、耳元で声を聞いた。電話線を通したような少しカサカサした女声だったが、はっきりとこう言った。「新聞を買いに行け」。

 

 「その声に、反応しちゃったんですね。え??新聞?どこに売ってたっけ??」

 

―コンピューターグラフィックスー

 近くのコロッケ屋さんで新聞も売っていたことを思い出した寺門さんは、新聞を買いに走る。以前は求人広告を見るために新聞を購読していたが、それも止めて久しかった。自然と求人広告に目が行く。「イラストレーター募集。経験不問」の文字が目に入った。

 

 「上京当初、求人広告に掲載されているイラストレーター募集では、電話すると、必ず『経験は?』と聞かれ、『経験はない』と答えるとそれで門前払いでした。なので、すぐに電話しましたね。本当に経験不問なんですか?と尋ねると、絵はやっているんだよね?と聞かれ、その絵を持ってきてください、と言われたのです」

 

 銀座の小さなビルを訪ねた。「株式会社シフカ」は来るデジタルネットワークの時代にいち早く目をつけた若い経営者が設立したてのデジタル画像制作会社だった。

 

 画材はコンピューター。給料ももらえる。そして工学部出身の寺門さんは、ドットで描いていくコンピューターグラフィックスの創成期に馴染むのも早かった。

 

 「大手企業も、来るデジタルコミュニケーションの時代にすでに備えようとしていました。螢轡侫は大日本印刷が一大クライアントで、僕は大日本印刷の研究所のようなところで、次々を開発されてくる日進月歩の技術の最先端で思う存分画像制作をやらせてもらいました」

 

 一年が過ぎた頃だ。ある朝、寺門さんは夢を見て目覚めた。

 

―不思議な夢ー

 「そこに洞窟があるのです。おずおずと入っていく僕。そうすると前方にたくさんの人がいて『ブラボー!』と拍手喝采で僕を迎えてくれる。その先には白い3つの額縁。目覚めた時、なんとも言えない高揚感と幸福感が私を包んでいました」

 

 その日、セツ・モードセミナーに行くと「日本グラフィック展に出品するよね?」と友人に声をかけられた。「日本グラフィック展」は5000人もの人が応募するグラフィックアートの一大登竜門で、歴代、大賞は日比野克彦・谷口広樹はじめ東京藝術大学出身者が独占していた。

 

「なんだか、僕は大賞とれるんじゃないか?そんな気がしました。夢に出て来た白い額縁を散歩コースの画材屋さんで見た気がする。さっそく買いに行くと、売り切れで今はないが注文したら一週間で出来ると店主が言う。すぐに注文して、一週間不眠不休で作品を仕上げました」

 

 大賞発表当日、寺門さんはあんなに自信があったのに、怖くて発表をなかなか見に行けない。時間ぎりぎりになってタクシーを奮発して発表会場のパルコに駆け付けた。そのパルコの駐車場入り口がまるで洞窟のようだ。その奥には大勢の人がつめかけており「遅かったじゃないか!待ってたよ!」と声がかけられた。膝がガクガク震えた。大賞受賞だった。

 

 「セツ・モードセミナーが藝大旋風にストップをかけた」と新聞に紹介された。

 

第6回日本グラフィック展大賞受賞作品「潮先」1985年 水彩紙にアクリル絵の具

 

 

 

―宇宙全託ー

 大賞を受賞した寺門さんはその1年後螢轡侫を退職し、以降、フリーランスで活動している。

 

30歳で結婚した寺門さんが、生活資金に窮して銀行に記帳に行ったら、なぜか数十万円のお金が振り込まれている。何年か前の仕事で未払いになっていた賃金が振り込まれていたのだった。

 

「これはきっと、まだ絵の仕事続けていいっていう、宇宙からのお知らせよ」と妻が言った。それ以来、「宇宙全託」という言葉が寺門さんの心の中に響いている。

 

―天使ー

 2014年から、寺門さんは新しい手法で描く天使の絵のシリーズを発表し続けている。リトアニアリネンという麻布をキャンバスにし、まず表から絵を描く。次に裏返して染みた絵具の上に描く。また表に返し、そして裏に返し、その作業を納得のいくまで続け、最後に気に入った側に一筆入れて仕上げる。どうやって描いたのは分からないような、そんな絵を描き続けたい。

 

 

「FONTANA」2018年 リトアニアリネンにアクリル絵の具その他

 

「高校生の前の中学生。その前の小学生。その頃に、理由も分からずに好きになったものや人と、その後の人生で必然のように出会いました。今この時、好きなことをずっと忘れないでいると、いいことがあるかもしれませんよ!」

 これが不思議な体験の中から自分の道を見つけ出した寺門さんから現役長田生へのアドバイスだ。(201810月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

編集後記

 展覧会会場にてインタビューをさせていただきました。寺門さんの天使の絵に囲まれながら、穏やかな声で話す寺門さんのストーリーを聞いていると、不思議とその場面場面が映画のように私の頭の中で映像化されます。寺門さんを推薦してくれた同期のH君の話によると、寺門さんのオーラは長田時代から「半端なかった」とのこと。インタビューが終わるまで、辛抱強く寺門さんをお待ちになっていたファンの方もおられ、その人気の一端を見た思いでした。絵の方はちょっと手がでなかったので、テラカドオリジナル、素敵なピンバッチのセットを私も購入しました。プロフィール写真の襟元にご注目です!

 

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Face To Face No.77「楽しいは強い」

 高54回生 鈴木美央

 伊川谷中学卒

 バスケ部マネージャー 

 早稲田大学理工学部建築学科卒 

 英国 Foreigin office Architects

  慶応大学大学院理工学研究科博士後期課程 博士(工学)

  

 

 

経験は種ー

 美央さんは、整形外科関連の疾患により小学生の頃から通院を行い、中学で1回、高校で2回手術を受け、その度に三ヶ月の入院を余儀なくされた。子どもの頃は、白くて古くて研究室のような病院が怖くて足がすくんだ。だが、高校生になると疑問を感じるようになった。「本来、人を癒すためにある病院なのに、辛い人をよけい辛くさせるような建物でいいの?」

 

 小学5年生で経験した阪神淡路大震災も、美央さんに大きな影響を与えた。住居のあった西区は比較的被害の小さな地域ではあったが、それでも新幹線の橋げたが落ちているのを目撃し、家が潰れて亡くなった人のいることを見聞きした。「本来、人を守るはずの建築物が人を傷つけていいの?」

 

 この二つの経験を「負の遺産」にしたくない。この経験を生かしていきたい。人の生活に建築は大きく関わっている。私は「建築」を使い、たくさんの人が笑顔になる空間を作っていきたい。

 

 こうして、美央さんは大学の建築学科に進学した。大学在学中に、完成したばかりの「横浜の大さん橋」を観に行った美央さんは衝撃を受ける。全てが穏やかな曲線で表現された大さん橋は、見事に横浜のランドマークと調和し、人々は幸せそうに散歩していた。

「大さん橋」を設計したのがイギリスの設計会社だということを知った美央さんは、そこでインターンシップとして働かせてもらおうとイギリスに渡る。

 

―チャレンジー

 「建築業界では、学生がアルバイト的に設計事務所で働くことは『オープンデスク』と呼ばれてごく普通のことでした。だから私もアルバイトでもいいから憧れの建築家の元で働くことができればと思っていたのです」

 

 ところが美央さんの人生はここで大きく変わる。応募してみるようにと勧められた高層ビルのコンペで勝ってしまったのだ。コンペ時のプロジェクトの主要メンバーはたったの三人。30代半ばのオーストリア人とスペイン人、そしてまだ23歳の美央さんの三人のチームだった。

 

 その事務所には、その事務所で働きたい人たちが世界中から集まっていた。そして、その集まった若い人たちに全面的に仕事を任せるのが、その事務所のやり方だった。

 

 その後、美央さんは大きな仕事を次々に任される。マレーシアで建築された50階建てツインタワーの建築意匠をたった一人ですべてやっていた時期もある。外壁のデザイン、ランドスケープのデザイン、内装のデザイン、全てである。発注主は、まさかの若い小娘がやってきて驚いていたが次第に信頼を勝ち得る。

 

 「若い時に、責任を持たされてチャレンジングな仕事をする。大変だけどめちゃくちゃ楽しい。ものすごく仕事しましたが全く苦ではありませんでした」

 

レイバンズボーン ユニバーシティ ロンドンの外壁意匠

美央さんのプロジェクトチームで担当した。 

 

 だが、5年ほどがむしゃらに働いた美央さんに、また新しい疑問が浮かんできた。

「建築技術の伴わない途上国で高層ビルを建てることは、危険な作業を伴っていました。2008年にはエコノミッククライシスが起こり、多くのプロジェクトが途中で放棄されました。大きな建築物を建てることで、新しい可能性を掘り起こす可能性はもちろんある。でも、それはどの時代にでもどの都市にでもあてはまることではない。そう感じ始めたのです」

 

 顧客の要望に応えるのではなく、もう一度もっとアカデミックな場所に身をおいてみたい。永住権まで得ていたイギリスを離れた理由は、実はもう一つあった。当時、付き合っていた現在の夫が、駐在が終わり帰国することになったのだ。帰国して結婚。慶應での勤務を始め、仕事として研究を行う中で研究の楽しさに目覚めた。そんな時、当時の勤務先の先生に勧められ「働いた経験で修士課程を修了したとみなす」コースがあることを教えられ、慶応で博士コースに進学した。

 

―マーケットー

 博士コースで美央さんが選んだテーマは公共空間の研究だった。ロンドンの街で馴染みの風景だった「マーケット」。「マーケット」には二つの定義がある。一つは可変性。規模も形態もフレシキブルで、その時々の街の人口、必要な物、また目的によってその姿は容易に適応することができる。そしてもう一つが継続性。普通の道が一週間に一度マーケットになる。あるいは月に一度、場合によっては年に数度。しかしそこに「継続性」があることが必須条件である。

 

 「大きな建築物は作ってしまったら変化できない。でも、マーケットは至極簡単に姿を変えながら存在することができます。欧州ではマーケットは生活の中に根ざし、生まれた時からそこにあり、マーケットなしの生活は考えられないという文化があります。かつては日本にも露店の文化があった。でも、戦後、道路が警察の管理下に置かれるようになり日本独自の露天の文化は消滅してしまいました。私が建築を目指した原点は『建築で人幸せにする』です。マーケットは日本ではおしゃれなイベントとして認識されていますが、実は世界では都市のインフラとして機能しています。このマーケットというツールを日本でも使いこなしていき、いずれはそのツールを、開発著しい中国の街にも輸出していく。そんな夢を抱いています」

 

 今年6月に「マーケットでまちを変えるー人が集まる公共空間のつくり方―」が学芸出版社から出版された。重版も決まり、共同通信社により書評が配信され各地方紙に掲載されている。

 

「好きなことを楽しく頑張ってください。誰かが手助けしてくれ道は開けます」美央さんから現役長田生へのアドバイスだ。(20189月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 実は美央さんが大学院博士コースに進学したとき、長女は生後6ヶ月。論文研究のために10日間の研究旅行で渡英したときは生後10カ月だった。「夫は、私のことを褒めたり鼓舞したりはしませんが、私がやりたいことを自由にやらせてくれ、そしてとても淡々とサポートして私が留守中の子育てもこなしてくれます。本当に感謝しています」。右手に5歳の長女、左手に3歳の次女を抱いて眠るとき、最高に幸せを感じると言う美央さん。どうぞ、だれにも優しい公共空間をプロヂュースして、私たちに幸せな時間をプレゼントしてくださいね!

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41回生藤井浩さんスペインギターコンサートが行われました(2018/9/9代々木上原教会)

今年の東京総会で演奏してくださった藤井浩さんですが、その後体調を崩されて入院される事に。

幸い順調に回復され、今回スペインに帰国される前に、快気のお祝いと感謝の気持ちを込めてコンサートを企画させて頂きました。

 

代々木上原という閑静な高級住宅街の中に、静かにたたずむモダンな教会。

ここに「スペインからやってきたギタリストの演奏を聴こう」、という人達が礼拝堂一杯に集まりました。

長田の卒業生は勿論の事、教会関係の方から、通りがかりのご近所さんまで85人程。

壁に映し出されたスペインの映像をバックに、1時間半、たっぷりと本場のギターの世界に浸らせてもらいました。

 

藤井さんのMCは、ギターの世界やスペインの楽しい生情報が一杯。

「この曲は地元の祭りで人間ピラミッドの時に演奏するもの。てっぺんには『マリアちゃん』が乗るんですよ。」なんて小ネタに使えそう(笑)

でも「遠くスペインに渡った時は戦いに挑むような気持ちだった。同じく故郷を離れて来ている友人は戦友のようなもの。」というお話は胸にしみるものがありました。

 

後半には大音響のドルサイナ(チャルメラ)演奏が。藤井さんは「皆さんの眠気覚ましに」なんて言ってましたが・・・吹きながらどんどん真っ赤になっていく藤井さんの顔を見ていたら、こちらが心配になってきました。

 

最後は老若男女みんなで全体写真撮影です。掛け声は勿論テーマである「ア・ミ・マネーラ!!」(私の人生)。

会場全体が一体となった、素晴らしき音楽体験でした。

 

藤井さん、帰国した際にはまた東京にも遊びに来てくださいね。

ますますのご活躍を、応援しています!!

(文責41回生井川)

 

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