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Face To Face No.20「あたってくだけろ(後篇)」
中22回生 高榎 堯(たかぎたかし)
京都大学 工学部
電気工学科卒

毎日新聞社論説委員
日本記者クラブ会員
日本エッセイストクラブ会員

―オケに熱中した大学時代―
 「図書館大学」で浪人中に、ガード下のヤミ市で買ったバイオリン。独学で弾き方を勉強していたが、京都大学在学中は、故朝比奈隆氏が育てた大学オーケストラの活動に熱中した。

 「モーツアルトのピアノ協奏曲を演奏した時ほど感動したことはありません。不世出の天才の悲しみを象徴するような響きの中で、熱い涙が溢れてとまらず、楽器がびしょぬれになってしまいました。あんな風に泣けたのはそれ一度きりです」。

 京都のお寺に下宿し、毎日、学食で一杯10円の素うどんを食べ、勉強そっちのけでオケに熱中して大学時代を終えた。

―新聞社で迎えた転機―
 「新聞社がだす時事問題なら、電機会社の入社試験に役立つはずだ」とほんのひやかしで受けた毎日新聞社に合格、電気通信技術者として入社した。無線機などのメンテナンスをする日々が4年ほど続いた後、第一の大きな転機が訪れる。

 ソ連(当時)が突如として人工衛星スプートニクを打ち上げたのだ。米ソの宇宙開発競争の始まりだった。当時は科学の分かる記者がほとんどいなかった。そこで、技術者の高榎さんに白羽の矢が立てられ、人工衛星やミサイルの解説を担当することになった。技術者から記者へ。技術者仲間のだれもが「無理だろう、潰される」と思ったようだが、高榎さんはひるまなかった。


科学評論家の故相島敏夫さんと人工衛星について語る高榎さん。
1960
年代初めのテレビはまだ白黒だった。


フォン・ブラウン博士との会見。
博士は大戦中はドイツでV2
号の開発に当たり、戦後は米国の宇宙センターでロケットや宇宙開発を指導したことで世界的に知られていた。


 第二の転機は国際報道の外信部に移ったことだった。引き抜いたのは大森実部長。当時の南ベトナムの政治的混乱にいちはやく着目し、『泥と炎のインドシナ』という続きものを連載して、ベトナム戦争報道の口火を切ったことで広く知られる。

 「大森さんはいつも『主観を交えて、どんどん書け』と言っておられました。私は社の内外で『ずけずけ書きすぎる』とよく批判されていましたが、大森さんは逆にそんなところが気に入ったのかもしれません。いずれにせよ大森さんとの出会いがなければ、新聞記者としての私のその後もなかったでしょう」。

―論説記者ー
 46歳で論説委員になった高榎さんは、そこで記者として正念場を迎える。高榎さんにはずっと大事にしてきた言葉があった。アインシュタイン、バートランド・ラッセル、湯川秀樹氏らがビキニ環礁での水爆実験後に核戦争の危機を訴えた『ラッセル・アインシュタイン宣言』だ。

 『全体的破滅を避けるという目標は、他のあらゆる目標に優位されなければならない・・・・』。  

 核戦争と原発。核をめぐるこの二つの問題に、高榎さんは関わり続けた。だれもが敬遠しがちな厄介な問題だった。

 論説委員は社としての見解を書かねばならない。だが個人的に原発推進に賛成ではなかった高榎さん。みんなと一緒に「安全神話のみこしをかつぐことはできなかった」と言う。「反対」という言葉こそ使わなかったが、その論旨は反対に近かった。

 「社の意向に沿わない社説を書き、あわや首になりかけた時に起こったのが、スリーマイル島原発事故でした」。この事故は高榎さんの論旨に正当性を与える出来事でもあった。

 震災後の福島原発事故は、高榎さんが退職したずっと後でのできごとだ。だが高榎さんは、あまりにも微力で、この事故を防ぐために何も出来なかったことを今も無念に思っている。
 
 1980年代に入って東西冷戦の末期には核ミサイルによる戦争の危機が深まり、高榎さんも米国に飛んで取材し、新聞の紙面や多くの著作の中で声を大にして核戦争の危機を訴え続けた。だが、核兵器の廃絶という人類の大目標は、実現にはまだほど遠い。

―故郷・神戸―
 三中を卒業して以来、神戸を離れて久しいが、今も神戸弁は「すぐに聴き分けられる」。大森記者も神戸弁だったようだ。だが彼が三中の8年先輩だったことを知ったのは、退職したずっと後のことだった。神撫台の名簿で彼の名を見つけたのだ。その彼も4年前に滞在先のカリフォルニアで亡くなられた。

 「『あたってくだけろ』とは94才で他界した母の口癖でした。でもそれが私の座右の銘だったのかもしれません。人からは無茶だと思われることを後先考えずにやってきました。まさに『あたってくだけろ』の人生ではなかったのでしょうか」。

 84歳の今、60余年ぶりのバイオリンの合奏を楽しんでいる。

((取材・文・写真 田中直美 2014年1月10日)

国立国会図書館にある高榎さんの著書一覧

http://iss.ndl.go.jp/books?any=%E9%AB%98%E6%A6%8E&mediatype=1&op_id=1&ar=4e1f

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