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Face To Face No.11「戦後の復興期を先頭集団で走りきった」 
 中22回 梶 光雄

池田小学校
神戸三中
三高
東京工業大学
朝日新聞技術開発本部長
日本電気エンジニアリング
千葉大学印刷工学科講師
東京工芸大学教授
知財高裁専門委員
―南極海へー
 まだ婚約中だった妻は、ランチに乗り込み手を振って見送ってくれた。昭和30年12月。梶さんは、神戸港からタンカー千種丸に同乗させてもらい、捕鯨船団のいる南極海に向け出港する。朝日新聞が全面支援を表明していた南極大陸観測のための予備調査だった。氷上調査に派遣された記者が撮影した写真を、南極海の船上から新聞社に電送することが梶さんの使命。朝日新聞社に入社して3年、27歳の時だった。「失敗しても海に飛び込まないでくれよな」。そう耳元でささやいた今は亡き上司の心配そうな顔を忘れることができない。

 キムタクが主演したドラマ「南極大陸」。まさにあれの第一回と申し上げればイメージできる人も多いかもしれない。写真電送の命を受けてから出港までの準備期間はわずか一カ月半。無線局の免許申請、利用できそうな装置の借り受け交渉、便乗する船の無線機改造の交渉、電源の手配・・寝る時間もおしみ、寮に帰ったかどうかの記憶も定かでないほど同僚と共に働いた。

 「千種丸は、空になった燃料タンクを蒸気で洗い鯨油で満たし、それを積んで東へ行きます。鯨肉は仲積船に積んで日本へ運ぶので、その仲積船に同乗させてもらい帰国の途につきましたが、わずか1000トン、時速9ノットでしか走れない船ですよ。途中、後ろからサイクロンに追いつかれた時の、覆いかぶさるような大波の恐怖は忘れられません」一カ月の船旅の後やっと築地に帰りついたが、翌日は盲腸で入院するはめとなった。

 「大仕事でしたが、帰国後は『あいつが、南極に行った梶だ』と先輩たちからも一目置いてもらえ、上司にも可愛がってもらいました。」
写真を電送試験する若き梶さん

南極海で撮った写真








 
―誰もやっていないことへの挑戦ー
「小生意気な若造だったと思いますよ」と自己分析する梶さん。
昭和34年、世界で初の活字のない新聞発行所を札幌に建設した時のことだ。新聞社が輸入した最新のファクシミリ機にイギリス人技師が同行してきた。「『温泉にでも行ってもらえ』と追っ払い(笑)、その間に機械の中の電子回路を勝手に改造しました。帰ってきた技師に出力したフィルムを見せたら、改造後の方が一目瞭然にきれい。痛快でしたねえ。もっともそれ以降、そのイギリスのメーカーは商品に技師が同行してこなくなりましたが」

 梶さんの朝日新聞社における37年間の技師生活は、「日本の新聞製作の電子化の中での右往左往だった」と言う。「社主の命で、同業他社のどこよりも早く紙面の電算化を推し進めていた朝日新聞社で働けたことは幸運でした。『まだだれもやっていないこと』を実現する技術の先頭ランナーで定年まで走ることができたのですから」

―送る言葉―
 新聞社で働きながら、千葉大学で「印刷画像工学」の非常勤講師を勤める。新聞社を57歳で退職、その後は日本電気の工場で技師長を務め、物づくりの現場を経験することができた。65才からは東京工芸大学の教授として研究室で学生の指導にあたり、第4の職業は「知財高裁専門委員」(非常勤公務員)。2012年3月に83歳で退職したばかりだ。「長距離を走りきったという感じですね」

「自分の能力の80%で給料に見合う仕事をし、残りの20%は人生の先行投資に使いなさい。そのためにもボーナスは惜しげなく自己研さんに使うこと」。学生たちにはよくそう話した。ご自身も、運転免許を持ちながらもついに車を購入することはなかったとか・・。その代わり、ご自宅2階の書斎は、家が傾きそうなほどの本で床から天井まで埋め尽くされている。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」。大きな集団の中で尻にいて使われるよりも、小さな集団であっても長となるほうがよい。働き方は徹底して平凡に。」梶さんから私たち後輩へのメッセージだ。

―友人たち、そして妻―
 終戦時、中学4年生だった三中22回生は、8月の敗戦と同時に勤労動員から解放され、旋盤の並ぶ学校工場から学舎に戻った。梶さんは、母の入れてくれたタドンの炬燵を足元にいれながら、度々起こる停電時にはろうそくを立て、手元の照度を上げるためにそのろうそくの背後に鏡を立てて受験勉強をしたと言う。
 アサヒビール社長を勤めた瀬戸雄三さん、川鉄副社長の小榑敏夫さん、兼松江商副社長の田中雄二さん、横浜医師会副会長橋本禎夫さん、ベセール(婦人服)の近藤悌一郎さん、ブリヂストンリビング社長の横山昭さん、新幹線の保線で活躍した上田隆三さん、等々、戦後の日本を駆け抜けた三中時代の友人たちとは、今も年に2回顔を合わせる。「それぞれの人生には苦労も多かったはずですが、話しの落ち着く先は、亡き友との交遊、中学時代のゴンタの告白、通学路の思い出など懐かしい神戸での光景です」

 英語教師をめざして、校長を務めていた梶さんの父を訪ねた女学生は、英語教師にならずに梶さんの妻となった。「未だに文学少女的で、こんな発想をするのかと驚かされることも多々ある」と梶さん。日常生活の中で一番幸せを感じるのは?の質問に、「一日を終え、熟睡する家内の隣に寝て、眠りに落ちる瞬間」そう答えて下さった。
(取材・文・写真 田中直美 2013年5月10日)


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| comments(3)|
梶 光雄 (2013/05/14 1:28 AM)
田中直美様

作間敏夫の書いた雑文があります。
これを添付しますから、森田さんに転送してあげて下さい。

西堀栄三郎は三の出身で、小生の先輩、「森よ岩よわれらが宿り・・」
という山岳部の寮歌の作詞者として名を残しましたね。
本当は工程管理か何かの権威だったし、息子が小生と同じ頃工芸大学に
勤めていました。

梶 光雄
森田 千晴 高18回 (2013/05/13 7:27 PM)
小生の叔父、渡辺 兵力、 友人の祖父 西堀 栄三郎 も第1回南極観測隊に参加しておりました。
二人とも既に故人になっております。梶さんにお会いしてぜひとももっと詳しいお話をお伺いしたいものです。
大前考一 (2013/05/11 3:52 PM)
素晴らしい大先輩方に感謝と万歳!









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