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Face To Face No.83「やってみよ、だめなら直せ」

 高27回生 岩田直樹

 舞子中学卒

 硬式テニス部(途中退部)

 香川大学経済学部卒

 りそな銀行代表取締役社長兼執行役員

 一条工務店代表取締役社長

 

 

 2003年のりそなショックの翌年、2004年にりそな銀行の執行役員に、2008年のリーマンショック翌年、2009年にりそな銀行3代目社長に就任。その時、岩田直樹さんは53歳だった。長田時代は「成績も部活も全て中途半端な生徒でした。将来に悩むこともなく、友人たちとも適当な距離感で付き合い、可もなく不可もない毎日を送れたらそれでいい、そう考えていた思います」と語る。そんな「ごく普通の高校生」だった岩田さんが、どんな道筋で変化していったのか。お話を伺ってきました。

 

―中堅どころー

 第一志望だった神戸大学に不合格。浪人はだめ下宿が必要な私立大学もだめと両親から言われていた岩田さんは、当時の国立二期校だった香川大学に進学。寮生活が始まった。

 「とにかくバンカラで、入学式の日には、寮の門扉の柱の上にバケツを持った先輩が待ち構え、母親が付き添う新入生が来ると、バケツの水をぶっかける。そんな洗礼が待っている寮生活でした」

 

 最年長の6年生が絶大な権力を持つ寮生活で、厳しい上下関係と礼儀、そして先輩が後輩の面倒をみる伝統を身をもって体験し、社会生活での基本を叩きこまれた。

「でも、ここでも、私は寮長になるようなタイプではなく、中堅どころ、という感じでしたね」

 

 協和銀行に就職したのも、ゼミの先輩がリクルーターとして来てくれたから。たまたま3人いた同期のゼミ生のうち、残り二人は卒業できるかどうか微妙な状況で、岩田さんに決まった。決して主体的に就職活動をしたわけではなく、なんとなく流れで始まった銀行員生活だった。

 

―仕事の面白さにめざめるー

「第一の転機は、入社3年目の25歳の時に、法人取引先新規担当に配属されたことでした」。

通常は、既存企業への融資を担当し勉強したあと、30歳を過ぎて巡ってくる部署だった。25歳の若造が就く部署ではない。最初の半年は一件もお客さんがとれなかった。

 

「半年後に、なんとか初めてのお客さんと取引が出来ました。今でも覚えています。CAD(コンピューターによる設計支援)の会社で2000万円を融資しました。伸びる企業を見つけ出し、融資し、黎明期から大きく成長していく姿を見守る。仕事の面白さに目覚めました」

神戸の元町支店をスタートに心斎橋支店、38歳でロンドンに転勤したときも、ずっと法人新規開拓を担当。43歳で帰国して支店長になるまで、ずっと法人担当で「『法人取引の男』と思われていたと思います」、と岩田さん。(注:法人取引の対義としては個人取引がある)

 

帰国後は中目黒、蒲田、大阪の難波と支店長を歴任した。協和銀行と埼玉銀行と合併して、協和銀行があさひ銀行と名前を変えた直後、本部に戻って法人部部長となった岩田さん。その、一か月後に、あさひ銀行は更に大和銀行と合併し、りそなとなる。だが、合併による資金不足対策も及ばず、その二ヶ月半後に「りそなショック」が勃発した。中堅の都市銀行だったりそなの破たんは、社会的影響が大きすぎると、時の政府の判断により、注入された公的資金は合計3兆円に上った。2003年のことである。

 

「合併の後遺症で旧行の主導権争いが顕著だったのが、このりそなショックで吹っ飛びました」

 

―再生への道―

「りそなショックで常務以上は全員退任。りそな再生のためにJR東日本の副社長からりそなの会長に来てくださった故細谷英二氏に出会えたことが、私の人生の第二の大きな転機となりました」

 

細谷さんは、国鉄が民営化した際の裏方のトップ。りそなの会長就任を打診された時には、周囲の人たちが皆、「やめておけ」と口を揃えたにもかかわらず、チャレンジとして決断して来てくれた人だった。

 

細谷さんの最初の一言が「りそなの常識、世間の非常識」だった。

 

これからりそなは改革していかなくてはいけない。だが、ごく一部の意識の高い行員、改革していきたいが具体策の考えられない行員、傍観者的行員、と内部の状況は様々だった。そこへガツンと喝を入れ、改革の軸を作ったのが細谷さんだったのだ。

 

細谷さんが来て半年後、岩田さんは法人部部長から、マーケティング戦略部部長となる。ここは店舗企画、法人企画、個人企画、各種商品企画など、さまざまあった営業の全ての企画を統括する部門で、抱える部門長だけでも20人越えだった。

 

「やってみろ、だめなら直せ」という細谷さんの言葉に、岩田さんは数日後、会長室にアポイントもなしに乗り込み、5分だけ時間を下さいと食い下がって「『やってみろ、だめなら直せ』というのは本気ですか?」と質問した。

 

「いやあ、あの時、細谷さんは顔を真っ赤にして本気で怒ったね。『おれが本気でもないことを言うか!』ってね。そうなんだ。梯子ははずされないんだな。なら、こっちも本気でやってやろうじゃないか!そう発奮しました」

 

半年後、執行役員になった岩田さんは、更に4年後、細谷会長に呼ばれた。りそなの2代目社長が退任するので、3代目の社長になれと言う。

 

「私自身、自分はNO2の男だと自認していました。とりあえず、一度家族にも相談させて欲しいと話し、帰宅して妻に『大変なことになった』と言ったところ、妻の返答は『お父さん、とうとう首ですか?』でしたね(笑)」

 

3兆円の国への借金を返済しなくてはいけない。これは大変な重圧でした」

 

4年の社長の期間を経て、借金返済の目途も立ってきた。4代目社長に後を託し、引退した2年後には3兆円の借金が全て完済された。

 

「私はある意味、とても小心者です。そして、人からどう評価されるかも気になる。良い評価が欲しい。だからこそ、細心の注意を払って物凄く準備します。経営者は自信満々であってはいけないと思っています。充分ではないと思っているからこそ、様々な手を考えるのです」

 

―第二の道―

現在は、大手ハウスメーカー一条工務店の社長を務める岩田さん。社長に、と話をいただいた時、お断りするつもりでいたが「マニラにある工場を見学に来てください」という誘いに乗ってしまった。「実は、工場見学が大好きなんですね(笑)」

 

そこで、まる3日間、オーナーからの熱い想いを聴き、それを体現する大規模工場を見学し、社長を引き受けることを決心した。

 

「銀行では、一度ご融資すれば長期に亘って利息(収益)を頂けます。でも、ハウスメーカーは大げさに言えば、一棟売れてなんぼの短期決戦。その毎月毎月が勝負のような世界が面白くて、チャレンジしようと思いました」

 

「普通の高校生」だった岩田さんは、ずっと進化し続けている。(20193月取材、文 田中直美)

 

 

岩田さんが、銀行時代に夫婦のコミュニケーションとして始めた自転車。すっかりはまって「ヴェント・アッズーロ(青い風)」というチームを作るに至った。最近は忙しくてなかなか乗れていないが、一生の友と思える自転車仲間とも出会い、生涯の趣味にと思っている。二年前には妻と自転車で四国のお遍路八十八ヶ所巡りを結願した。

 

編集後記

 岩田さんは、私の長田時代の硬式テニス部の一年先輩です。当時、ブルーの布製のショルダーバックを斜め掛けしていた姿が何故か記憶に鮮明で、インタビュー時にそのお話を持ち出したら、「ああ、良く覚えていますよ。実はあれは僕が自分で作ったんです。履かなくなったジーパンのリメイクです。こう見えてお裁縫好きだったんですよ(笑)」という衝撃のお答え!岩田先輩のチャーミングな側面を発見したインタビューとなりました。

 

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