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「Face To Face」NO.75「災害医療に導かれて」

 高35回生 水谷和郎

 太田中学卒

 水泳部

 山口大学医学部

 神戸百年記念病院心臓リハビリセンター長

 (旧 鐘紡記念病院)

 

 

 阪神淡路大震災が人生の転機となったと語る人は多くいるだろう。水谷さんもその一人だ。だが、水谷さんの場合、その転換点は震災10年後に訪れた。揺り起こされる記憶が、水谷さんの医師としての仕事に、専門の循環器内科とは全く別の側面である災害医療という新たな一面を加えることになった。そしてそこから更に4年後、一冊の本との出会いで、水谷さんの災害医療は更に深化することになる。

 

1995年ー

 1995117日。水谷さんは医師になって3年目。兵庫県立淡路病院で当直の朝を迎えていた。淡路病院は淡路の救急病院で、連日、島中から救急の患者ばかりが搬送されてくる。日常から野戦病院の趣があり、毎日の医療に少し自信が出て来た頃だった。

 

 早朝5時半に目がさめポケベルをチエック。テレビをつけたその時に、遠くからゴーっという音が近づきドンと縦揺れがきた。とっさに思ったのは「東海地震がきた!名古屋が大変だ」ということ。当直室の扉を開けると非常扉が全て閉じて廊下が緑の部屋になっていた。

 

 ドアを開け開け一階に降りたがいつもと変りない。情報源はテレビのみ。京都が震度5。だが、淡路・神戸の情報は出てこない。情報を得るために淡路の広域消防に電話した。救急要請が11件あり、生き埋めが何件か出たようだ、との情報を得る。最初の患者さんが来たのが65分。軽症の患者さんがバラバラと自力で来院した。

 

 様子が変わってきたのは7時過ぎから。次々に救急外来の患者が運ばれ、あちこちで心臓マッサージが始まっていた。

 

「この時、外科部長だった松田先生が栗栖先生に『映像で記録をとれ』と命令しました。正直、なんで?と思いましたよ。一人でも多くの医師の手が欲しいのに」

だが、結果としてこの時撮られた映像が水谷さんの人生の進路を大きく変えていく。

 

この日の来院患者数68名。死亡7名。重傷20数名。混乱は午後14時ぐらいにはほぼ終息した。ライフラインが切れなかったこと、救急病院だったため、普段から科を超えて協力する体制があったこと、明石大橋開通前で、非番の医師たちも病院の近くに住む人が多く、駆けつけてきた医師が多くいたことも幸いした。

 

震災当日撮影された映像より 中央が水谷さん

 

2005年ー

 震災後3年目ぐらいから、なぜか震災の話をすると泣いてしまうようになっていた。何故そうなのかは自分でも分析できない。とにかく、自然災害によって突然命を絶たれ、亡くなった方々の時間が止まってしまった理不尽さが悔しかった。

 

 震災10年後のその日、水谷さんは兵庫県立姫路循環器病センターに勤めていた。看護詰所のテレビで10年目の黙祷が始まったその時、突然の号泣がこみあげ止められなかった。

 

 「当時、姫路の循環器病センターは地域の災害拠点病院に指定されていました。でも、指定されているだけで何も準備はされていなかった。僕はそのことに気付いていましたがそれまで気付いていないふりを自分自身にしていました。でも、その時、急にスイッチが入ったんです。震災当日、淡路病院で経験した自分だからこそできることがある」 

 

 水谷さんの災害医療活動がスタートした。

「まずは病院のスタッフにあの時の映像を見てほしかった。阪神・淡路大震災当日の病院での映像記録では、唯一のものです。現場で何が起こっていたのかを知って、そしてどう行動すべきなのか、自分事として考えてほしかった」

 

 映像を公開することには葛藤の連続が有ったと言う。「でも、現状ではだめだ。これでは亡くなった人たちが報われない」。

 

姫路循環器病センターでの初めての講演の日、水谷さんはいつもの白衣ではなくスーツを着た。淡路病院のスタッフとして今日は講演するのだという意志表示だった。

 

 病院内の反響は凄かった。災害医療に対応しなくてはという機運が一気に盛上がる。水谷さん自身も、もっと勉強をしなくてはと日本集団災害学会のセミナーを受けることにした。だが、勤務医は平日に休みをとるのが難しい。そうだ、自分が学会発表をすれば休みを貰えてセミナーを受けられる!

 

 意気揚々と出かけた学会で、まさかの肝心のビデオが動かず発表は失敗。「だがまぁ、一回だけのことで、専門外だしいいか。セミナーを受けるという目的は果たすことができた」と帰途につこうとしていた水谷さんに、長崎大学付属病院と松山赤十字病院から「映像を貸して欲しい」と声がかかった。

 

 「それなら、ぜひ私の話を聴いてください!」この時の講演が口コミで広がっていった。

 

2016年11月12日 鳥取県立厚生病院で講演する水谷さん

 

2009年ー 

 NHKのスペシャル番組「阪神・淡路大震災 秘められた決断」を観て、本、「災害エスノグラフィー;阪神・淡路大震災秘められた証言」を買う。それは鳥肌が立つほどの衝撃だった。

 エスノグラフィーとは、本来、民俗学のフィールドワーク手法の一つ。それは、京大の林先生が震災当日の神戸市役所職員のそれぞれの一日を克明に聞き取り、その話し言葉のまま時系列にどこでどんなことが起こっていたのか記録した書だった。

 

 水谷さんは、体験した人にしかわからない体験の「温度差」が気になっていた。あの映像に写っている人を全てインタビューして淡路病院での災害エスノグラフィ―を作ると決心。既に13名のインタビューを終え、後は4人だ。驚いたことには、だれもがあの20年前の一日を克明に記憶していた。

 

 あの日の映像だけでは伝えきれないこともある。映像を見た人自身のバイアスがかかるからだ。だが映像にエスノグラフィーを加えることで、その映像に写っていなかった時間にその人が何を体験し、どう考え、どう行動していたのかが克明になり、疑似体験がより深いものになる。「他人事」のあの震災の日を「自分事」として捉え、その時、医療従事者として自分に何ができるのか考え抜くこと、また現場で実際に起こっていたことを疑似体験することによって、知識を増やしておくこと。知らないことは出来ないのだから。

 

 現在、神戸の百年記念病院で心臓リハビリセンター長として勤務しながら災害医療の啓もうに力を注ぐ。正直二足のわらじは厳しい。だが、この活動を止めるつもりはない。(20187月 取材・文・写真 田中直美)

 

―編集後記―

 水谷さんが取材された災害エスノグラフィ―を拝見しました。大通りだけ巡回し、その裏道の惨状に気付かなかった消防署員の後悔、いつもとは全く違う様子を呈する医療現場では、違う動線をすぐに構築することが必要なこと、通常であれば、まだ手を尽くすはずの患者さんの治療を、より軽症で命が助かる希のある人を助けるために治療を止める勇気が果たして自分に持てるかどうかなど、「習う」災害医療ではなく「自分事としてシュミレーションする」災害医療の大切さを水谷さんが啓もうする意味を痛感しました。

 「震災当日の医療現場のフィルム」。他にはないこの貴重な資料を生かさねばと奮闘する水谷さん。ありがとうございます。

 

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| comments(1)|
誠一 仲 (2018/07/10 10:33 AM)
水谷さんのご活躍ぶり拝見して、その場にいた人しかわからない事を記録に残し、後世に伝え、その経験知を生かしていく。生かされているというのを感じます。
 田中さんの文章力に再度感服しています。
水谷さんがお忙しくなければ、是非、雑草会のアワータイムでも講演いただければと思います。
 「映像を記録でとれ」と、おっしゃった松田先生。この一言で、今までに何人のひと、これからも多くの人を救う活動につながった、繋がっていくのでしょうね。
 田中さん ありがとうございました。









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