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「Face To Face」NO.57「保続」

 高30回生 伊達寛(ゆたか)

 垂水東中学卒

 生物部・生徒会執行部(文化部長)、

 応援団・弁論部

 信州大学農学部畜産学科

 信州大学大学院農学研究科林学専攻

 グンゼグリーン(株)

 

―いなかの匂いが好きだったー 

幼少時、岡山の高梁(たかはし)がいなかだった。毎年、春と夏にはお墓参りを兼ねて遊びに行く。成羽川の清流にはあゆが上ってくる。あゆ漁の鑑札を持っていた叔父の背中を追い、川に網をかける様を観察していた。その頃の伊達さんは、まだ幼くて魚釣りは出来なかったが、川の浅瀬の石にくっついている貝のカワニナなら採ることができた。泥を吐かせてから出汁を取りお味噌汁にしてもらった。

 

なんとも言えない「いなか」の匂い。それは離れに飼っていた牛や、田んぼの草の匂いが混然となったものだったのだろう。伊達さんは、そんな「いなか」の匂いが大好きな少年だった。

 

 「昔はいなごも食べたし、用水路の水も飲めたんやけどねえ」と母が語るのを聞いたのが、「環境」というものに関心を持った最初のきっかけだったかもしれない。「農薬を使うようになって、いなごはいなくなったし、用水路の水も飲めなくなった」という母の言葉が心に残った。

 

―生物部、文化部長、応援団、そして弁論部ー

 長田時代は生物部だった。生物部には立体顕微鏡とプランクトンネットが在ったので、プランクトンを採取して観察し、水質との関連を調べるため水質調査をしたいと考えていたが、化学部の顧問の先生の管理下にあった試薬は使わせてもらえないものが多くて、それはあきらめざるを得なかった。

 

生物部以外にも、生徒会執行部の文化部長を務めていた。サッカー部が全国大会出場をかけた決勝戦に出ることになり、応援のための「授業の集団エスケープ」を生徒たちが計画。それをエスケープにならないよう、休校にしてほしいと学校側と交渉したのが当時の生徒会長。これがきっかけで、部員がいなくて休部になっていた応援団を伊達さんたちが再結成。生徒指導の広田先生がすでに社会人になっていた先輩にお願いしてくださり、応援団の振り付けを習った。サッカー部の全国大会出場時には間に合わなかったが、野球部の夏の甲子園予選では応援部デビューを果たすことができた。

 

「部活を引退した後も、放課後にどこか集まれる場所が欲しいよね」と友人たちと相談したのは2年生も終わりに近づいた頃だろう。それぞれが、生徒会執行部、バトミントン、テニスに打ち込んでいが、引退が近い。「こうなったら、部室があるのに休部になっている部を復活させよう」と仲間4人で再興させたのが弁論部。日々放課後に部室に集まって、いろいろ意見交換してメンバー同士の絆を深めた。現在、関西と首都圏での同級生の集いに、その弁論部の仲間の絆が活かされている。

 

―安曇野サイクリングー

 大学受験での第一志望は北海道大学だった。「獣医の資格をとって牧場経営をするというのが、その頃の僕の夢でした。でも、残念ながら不合格。自然に囲まれた環境で大学生活をと、二期で受験した信州大学に合格したのです」もしあの時、第一志望だった北大に合格していたら、その後の人生は大きく変わっていただろうなと、振り返って今、そう思う。

 

 大学時代はユースホステル部に所属して、登山、バックパッキング、サイクリング、スキー、キャンプ、などで信濃路のアウトドアを満喫した。その中でもとりわけ記憶に残るのが、大学に入って最初に行った安曇野へのサイクリングだ。

 

 あまりに気持ちの良い5月の天気に、「安曇野へサイクリングに行こう!」と急きょ、皆で決定。授業をさぼって出かけることになった。伊達さんはまだ自転車を持っていなかったが、その日の授業はどうしてもさぼれないという仲間がサイクリング車を貸してくれた。

 

 大糸線沿線を、豊科、穂高、大町と快適にサイクリング車を飛ばす。ところが帰り道のある場所から、突然、どうにも疲れが出たのか、こいでもこいでも自転車が前に進まない。リーダーだけが伊達さんに付き添い、他のメンバーには先に行ってもらうことになった。

 

 しばらくは必死でがんばっていたが、そのうちリーダーが「お前、ちょっと自転車を降りてみろ」と言う。自転車を降りてリーダーが車輪を回してみたら・・なんと!ブレーキが壊れて後輪がずっとブレーキがかかったままの状態になっていたことが発覚。ブレーキのかかった後輪のまま、一生懸命、走っていたのだった。「そこまで走ってきただけでもすごかった(笑)」第一回目のサイクリングでは、高校時代に鍛えられたど根性が役立った。

 

―「林学」に目覚めるー

 伊達さんが最初に入学したのは「農学部畜産学科」だ。だが、当時の信州大学農学部はゼミの門戸が広く、他学科のゼミも選択できた。伊達さんは林学に惹かれ「森林環境研究室」に入る。

「もともと僕は環境問題に関心があったのですが、開発か自然保護かと、当時論争になっていたものが林道問題でした。そんな時に出会ったのが森林環境研究室の菅原先生で、『自然を守るためには、ある程度人が手を入れることが必要。そのためにも林道は必要なものである』というお話を聴いたときに、自然か経済かという二律背反の対立軸ではないのだと、とても腑に落ちたのです」

 

 その後、院にまで進みながら「北アルプスの自然を守る会」、首都圏の学生・市民団体「グリーンドラフト」に所属しながら自然パトロールや森林作業ボランティアを続けた。作業は午前中のみで、午後はフリータイムで山村を楽しむのが会の運営方針。「森林作業はレジャーだ!」が合言葉だった。

 

―環境に関わり続けてー

 菅原先生の推薦を受けて「グンゼグリーン」に就職。都市計画における緑化に関わり続けてきた。自らの性格を「愚直」という言葉で表現する伊達さん。伊達さんのFacebookには、日々、季節に応じて小さな変化をみせてくれる多種多様な花・葉・実・樹木の写真がアップされている。それらは全て、伊達さんが通勤途上に目にしたものだ。「花の名前は知っていても、葉や実には無関心な方がほとんどです。でもどの樹木にも名前がちゃんとある。すこしでも、みなさんに関心を持ってもらえたらと思い、日々、写真をアップしています」

 

 樹木医の資格も取得した伊達さん。林学用語の「保続」―森林環境(自然)の恵みを永続的に享受するためには、樹木の長い成長期間をみこした視点を持ち続けることが基本であるーの概念をモットーとしてきた伊達さんの、地道で堅実な活動はこれからも続く。(20171月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 Facebookで日々紹介されている木・実・花が通勤途上のものであるとは驚きでした。それほど多種多様だったからです。自分の住んでいるマンションの植栽の木の名前さえ、全ては知らない私。つつじや椿が花を咲かせていれば目にとめるけど、それ以外は空気のように存在していることさえ意識していない。みなさんも伊達さんのページにアクセスしてみてください。きっと新しい発見がありますよ。

https://www.facebook.com/yutaka.date?fref=ts

伊達さんの着ていたあったかそうなセーターが、そのまま伊達さんのお人柄のように感じられたインタビューでした。

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| comments(7)|
藤野 (2017/02/22 11:15 AM)
安曇野の桜並木をTVで見ました。
モザイク模様の田畑の美しさは忘れられません。
大勢の人に見られるよう、がんばって下さい。
伊達 寛 (2017/01/22 11:17 PM)
 水草先輩、信州に22年間も生活されたとのこと、羨ましい限りです。信州で生活できれば、そのまま職を探したかったのですが、第二の故郷にしてしまったのには今でも後ろめたさを否めません。
 
Miz (2017/01/22 5:06 PM)
29回生の水草と申します。伊達さんの記事を読んで、信州を思い出しました。私は昨年3月まで信州で22年間過ごしました。信州大学で林業を学んだという友人が3人います。一人は、今、有機農業を営み、一人は家具作りをしており、一人は有機で養鶏をして卵屋さんです。
 今は北海道苫小牧におります。信州の山々、青い空、清流、もう故郷のようになってしまいました。
伊達 寛 (2017/01/21 5:45 PM)
Doi様
恐縮です。
学生時代に信濃路で自然の素晴らしさとありがたさを知りました。
自然の恩恵を食いつぶすのではなく、永続的に享受できるように後世に引き継いでいく責任があると思います。
伊達 寛 (2017/01/21 5:35 PM)
眞様
今では伯備線も便利になって、高梁から岡山に通勤できるようになりましたが、小生が小学生のころまで蒸気機関車がまだ走っていました。
高梁川、成羽川流域もかつては完全な農村地域でしたが、土地利用の多様化で農地はめっきり減りましたね。
鮎の上る川が健在なのが、救いです。
眞克人 (2017/01/21 1:20 PM)
11回生の眞(ハシゴ癲砲箸いい泙后
 田舎が備中高梁と知ってコメントします。私の大戦時の
疎開先で、オヤジが高梁生まれです。(JR駅前の市役所裏の栄町)おふくろは倉敷生まれです。
 昨秋、疎開以来70年ぶりに訪れ、備中松山城に登り、居酒屋で高梁川の鮎の塩焼きに舌鼓を打ちました。帰路紅葉の名所豪渓にも立ち寄りました。
 「幼児期疎開の地吉備路礼賛」
 豪壮備中松山城   降幽谷仰懸崖頂
 父祖地再訪七十年  雖戦去世移有情
hidenori doi (2017/01/21 11:56 AM)
伊達さんの人柄を感じます。傲慢でなく共存共栄で生かされて居るんですよ。









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