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Face To Face  NO84 総会 担当回生(44回生)ご紹介

ー平成の申し子、44回生ー

平成元年に長田高校に入学。平成最後の年となった2019年の神撫会東京支部総会運営を、まるで運命のように担当することになった44回生。

 

取材の317日現在での中心メンバーは6人。最高裁判所に勤務する松本さんは、昨年より「今度は僕たちが担当回生だ」と責任感をもってリード。奇しくもパナソニックに共に務める松本さん(松本さんが二人!)と中尾さんはデーターに強いということで名簿担当。紅一点の福澤さんは受付、自動的に本谷さんが会計。理論派のワインバーオーナーの松下さんがまとめ役という構成。もちろん、まだまだこれからもメンバー募集中。この記事を見て、「私も手伝いたい!」と思った44回生は、松下さんにまでメールを!

メールはこちらから!

インタビュー当日は松下さんと本谷さんが幹事会に出席されていたので、お二人にお話を伺いました。


向かって左が本谷さん。右が松下さん

撮影場所 リースリング

http://www.winebarriesling.com/access.html

最近は長田生がやたらに出没しています。

皆様もぜひ!

■■■

 

松下さんは、新宿西口でドイツワインのワインバーを経営して10年。きっかけは、長田時代の世界史の黒河先生の授業だったそう。先生の影響でヨーロッパの歴史に興味を抱くようになった松下さんは、最終的に北大の大学院でドイツ史を学び、ドイツが好き過ぎて渡独。7年間、ドイツの飲食店で働きながら暮らした。現在は、新宿西口でドイツワインのバー、「リースリング」のオーナー。自らドイツ料理にも腕をふるう。ドイツの歴史について質問したら話は止まりません!

 

松下さんとは硬式テニス部つながりの本谷さんは、「まじめなナイスガイ」。AGCに勤める技術屋さんで、高校時代はひたすらテニスに打ち込んでいた。「いじられても、大人の心でさらっと流し、場をなごませるキャラ」だとか。

 

二人とも、幹事会には緊張して臨んだそうですが、「先輩たちが元気でびっくり。やりたいようにやらせてくれるし、困った時には、すぐに頼れる前年度の先輩もいて、心丈夫です!」との嬉しい感想。

 

そんな彼らの今年のテーマは「平成の長田高校」。彼らにぴったりのこのテーマを、どう料理して私たちに味わせてくれるのか、乞うご期待です!(2019年4月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

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Face To Face No.83「やってみよ、だめなら直せ」

 高27回生 岩田直樹

 舞子中学卒

 硬式テニス部(途中退部)

 香川大学経済学部卒

 りそな銀行代表取締役社長兼執行役員

 一条工務店代表取締役社長

 

 

 2003年のりそなショックの翌年、2004年にりそな銀行の執行役員に、2008年のリーマンショック翌年、2009年にりそな銀行3代目社長に就任。その時、岩田直樹さんは53歳だった。長田時代は「成績も部活も全て中途半端な生徒でした。将来に悩むこともなく、友人たちとも適当な距離感で付き合い、可もなく不可もない毎日を送れたらそれでいい、そう考えていた思います」と語る。そんな「ごく普通の高校生」だった岩田さんが、どんな道筋で変化していったのか。お話を伺ってきました。

 

―中堅どころー

 第一志望だった神戸大学に不合格。浪人はだめ下宿が必要な私立大学もだめと両親から言われていた岩田さんは、当時の国立二期校だった香川大学に進学。寮生活が始まった。

 「とにかくバンカラで、入学式の日には、寮の門扉の柱の上にバケツを持った先輩が待ち構え、母親が付き添う新入生が来ると、バケツの水をぶっかける。そんな洗礼が待っている寮生活でした」

 

 最年長の6年生が絶大な権力を持つ寮生活で、厳しい上下関係と礼儀、そして先輩が後輩の面倒をみる伝統を身をもって体験し、社会生活での基本を叩きこまれた。

「でも、ここでも、私は寮長になるようなタイプではなく、中堅どころ、という感じでしたね」

 

 協和銀行に就職したのも、ゼミの先輩がリクルーターとして来てくれたから。たまたま3人いた同期のゼミ生のうち、残り二人は卒業できるかどうか微妙な状況で、岩田さんに決まった。決して主体的に就職活動をしたわけではなく、なんとなく流れで始まった銀行員生活だった。

 

―仕事の面白さにめざめるー

「第一の転機は、入社3年目の25歳の時に、法人取引先新規担当に配属されたことでした」。

通常は、既存企業への融資を担当し勉強したあと、30歳を過ぎて巡ってくる部署だった。25歳の若造が就く部署ではない。最初の半年は一件もお客さんがとれなかった。

 

「半年後に、なんとか初めてのお客さんと取引が出来ました。今でも覚えています。CAD(コンピューターによる設計支援)の会社で2000万円を融資しました。伸びる企業を見つけ出し、融資し、黎明期から大きく成長していく姿を見守る。仕事の面白さに目覚めました」

神戸の元町支店をスタートに心斎橋支店、38歳でロンドンに転勤したときも、ずっと法人新規開拓を担当。43歳で帰国して支店長になるまで、ずっと法人担当で「『法人取引の男』と思われていたと思います」、と岩田さん。(注:法人取引の対義としては個人取引がある)

 

帰国後は中目黒、蒲田、大阪の難波と支店長を歴任した。協和銀行と埼玉銀行と合併して、協和銀行があさひ銀行と名前を変えた直後、本部に戻って法人部部長となった岩田さん。その、一か月後に、あさひ銀行は更に大和銀行と合併し、りそなとなる。だが、合併による資金不足対策も及ばず、その二ヶ月半後に「りそなショック」が勃発した。中堅の都市銀行だったりそなの破たんは、社会的影響が大きすぎると、時の政府の判断により、注入された公的資金は合計3兆円に上った。2003年のことである。

 

「合併の後遺症で旧行の主導権争いが顕著だったのが、このりそなショックで吹っ飛びました」

 

―再生への道―

「りそなショックで常務以上は全員退任。りそな再生のためにJR東日本の副社長からりそなの会長に来てくださった故細谷英二氏に出会えたことが、私の人生の第二の大きな転機となりました」

 

細谷さんは、国鉄が民営化した際の裏方のトップ。りそなの会長就任を打診された時には、周囲の人たちが皆、「やめておけ」と口を揃えたにもかかわらず、チャレンジとして決断して来てくれた人だった。

 

細谷さんの最初の一言が「りそなの常識、世間の非常識」だった。

 

これからりそなは改革していかなくてはいけない。だが、ごく一部の意識の高い行員、改革していきたいが具体策の考えられない行員、傍観者的行員、と内部の状況は様々だった。そこへガツンと喝を入れ、改革の軸を作ったのが細谷さんだったのだ。

 

細谷さんが来て半年後、岩田さんは法人部部長から、マーケティング戦略部部長となる。ここは店舗企画、法人企画、個人企画、各種商品企画など、さまざまあった営業の全ての企画を統括する部門で、抱える部門長だけでも20人越えだった。

 

「やってみろ、だめなら直せ」という細谷さんの言葉に、岩田さんは数日後、会長室にアポイントもなしに乗り込み、5分だけ時間を下さいと食い下がって「『やってみろ、だめなら直せ』というのは本気ですか?」と質問した。

 

「いやあ、あの時、細谷さんは顔を真っ赤にして本気で怒ったね。『おれが本気でもないことを言うか!』ってね。そうなんだ。梯子ははずされないんだな。なら、こっちも本気でやってやろうじゃないか!そう発奮しました」

 

半年後、執行役員になった岩田さんは、更に4年後、細谷会長に呼ばれた。りそなの2代目社長が退任するので、3代目の社長になれと言う。

 

「私自身、自分はNO2の男だと自認していました。とりあえず、一度家族にも相談させて欲しいと話し、帰宅して妻に『大変なことになった』と言ったところ、妻の返答は『お父さん、とうとう首ですか?』でしたね(笑)」

 

3兆円の国への借金を返済しなくてはいけない。これは大変な重圧でした」

 

4年の社長の期間を経て、借金返済の目途も立ってきた。4代目社長に後を託し、引退した2年後には3兆円の借金が全て完済された。

 

「私はある意味、とても小心者です。そして、人からどう評価されるかも気になる。良い評価が欲しい。だからこそ、細心の注意を払って物凄く準備します。経営者は自信満々であってはいけないと思っています。充分ではないと思っているからこそ、様々な手を考えるのです」

 

―第二の道―

現在は、大手ハウスメーカー一条工務店の社長を務める岩田さん。社長に、と話をいただいた時、お断りするつもりでいたが「マニラにある工場を見学に来てください」という誘いに乗ってしまった。「実は、工場見学が大好きなんですね(笑)」

 

そこで、まる3日間、オーナーからの熱い想いを聴き、それを体現する大規模工場を見学し、社長を引き受けることを決心した。

 

「銀行では、一度ご融資すれば長期に亘って利息(収益)を頂けます。でも、ハウスメーカーは大げさに言えば、一棟売れてなんぼの短期決戦。その毎月毎月が勝負のような世界が面白くて、チャレンジしようと思いました」

 

「普通の高校生」だった岩田さんは、ずっと進化し続けている。(20193月取材、文 田中直美)

 

 

岩田さんが、銀行時代に夫婦のコミュニケーションとして始めた自転車。すっかりはまって「ヴェント・アッズーロ(青い風)」というチームを作るに至った。最近は忙しくてなかなか乗れていないが、一生の友と思える自転車仲間とも出会い、生涯の趣味にと思っている。二年前には妻と自転車で四国のお遍路八十八ヶ所巡りを結願した。

 

編集後記

 岩田さんは、私の長田時代の硬式テニス部の一年先輩です。当時、ブルーの布製のショルダーバックを斜め掛けしていた姿が何故か記憶に鮮明で、インタビュー時にそのお話を持ち出したら、「ああ、良く覚えていますよ。実はあれは僕が自分で作ったんです。履かなくなったジーパンのリメイクです。こう見えてお裁縫好きだったんですよ(笑)」という衝撃のお答え!岩田先輩のチャーミングな側面を発見したインタビューとなりました。

 

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Face To Face No.81「やんちゃと生真面目」

 河合伸一

 三中25回生 高3回生

 京都大学法学部

 弁護士

 最高裁判所判事

 

 河合さんは、裁判官、弁護士、最高裁判所判事、そして再び弁護士、という人生を歩んできた。それは、河合さんの「真面目で細かいところまで気になる」性格と、「やんちゃ」な性格が表裏一体となりながら、それぞれの仕事に邁進させたと、妻でもあり弁護士でもある徹子さんは言う。今は閑静な住宅街で奥様と二人で暮らす河合先輩にお話を伺ってきました。

 

―歩んできた道ー

 「小学生時代は本当にやんちゃでしたね。先生にも怒られてばかり。それも教室の後ろとかじゃなくて、机の上に立たされちゃう。あれは恥ずかしかったなあ。級友たちはともかく、他の組の連中にも廊下から見えちゃうからね」と愉快そうに笑う河合さん。

 

 三中に入学前後は戦争だった。妹をオンブした河合さんは、機銃掃射で後ろから撃たれながら神戸電鉄のトンネルをめざした。走る河合さんの背中を、弾があたって跳ねる線路の敷石の音が追いかける。神戸の大空襲では、火の中をたった一人で裏山まで走った。どうしょうもない空腹とともに残る戦争の記憶だ。

 

 河合さんたち三中25回生は、最後の三中での入学生。卒業するときは高3回だった。

 

 「家が貧乏だったからね、地元の国立大学である神戸大学に行くつもりだった。京都大学なんて考えたこともなかった。でも、学年主任の先生が『京都大学を受けてみたら』と勧めてくれたんだよ」

 

 進学した京都大学法学部の友人が「司法試験」なるものを受けると言う。お前も一緒に頑張ろうやと誘われ、「司法試験っていったいなんや?」と雑誌で調べた河合さん。じゃあ、俺もやってみるかと、5人グループで勉強を始めたが、仲間は次々と脱落。「みんなに司法試験を受けると宣言していたからね。全員が辞めてしまったらカッコワルイと思って僕だけがんばったんですよ」。そして三回生で司法試験に合格。

 

 だが、その段階でも法律家の道に進むつもりはまだなかった。とにかく安定したサラリーマンの職に就いて稼ぎたい。超就職難の時代だった。

 

 「その頃、京大のゼミの先生で大隅健一郎という先生がいらした。一流の商法学者で、とにかくその先生の推薦がもらえると一流企業に就職できる。お願いに行ったら激怒された。『司法試験に通っているんだろう?推薦をもらってからどこの会社に行くか考えます、なんて言うやつに推薦はやれない!』。恥ずかしかったですね。そして司法修習生になりました」

 

 司法研修所で徹子さんと出会い結婚。裁判官となってすぐにハーバード大学へ留学。氷川丸で一ヶ月近くかけて渡った。一年間の留学生活の後、帰国。司法研修所付判事補となる。

 

 「この頃生まれた次女が、心臓が生まれつき悪くてね。大きな病院で治療を受けさせたかったが、裁判官には地方勤務がある。それで裁判官を辞めて弁護士になりました」

 

 河合さんの扱った案件ではイトマン事件が有名だが、阪神で活躍したランディ・バースとの契約に関わったのも河合さんだ。

 

 「バースの件でアメリカに行った時は、ファーストクラスの席だった。タイガースが用意してくれていたんだが、あの時は驚いたね。なんせ、その前にアメリカに行った時は氷川丸で一ヶ月の航海だからね。アメリカ人向けのシートは大きくて、僕が座ると体が埋もれてしまうぐらいだったよ。当時はキャビンアテンダントではなくスチュワーデスさんだけどね、これが女性なのに、みんな薄っすらと髭が生えていたのにびっくりしたね」

と昔を懐かしむ。

 

 経済通として知られた弁護士として活躍していたが、62歳の時に、最高裁判所判事に任命される。妻と4人の娘に「承けてもいいか」と尋ねたら、すぐに次女と末娘から葉書で返事が来た。

 

 心臓が悪かった次女は裁判官になっていた。来た葉書に書いてあったのはたった二言。「いやだ。困る」。劇作家になっていた末娘の葉書には「たとえお父さんが殺人を犯しても、父であることに変わりはありません。お好きな道を」。妻はあわてて長女と三女に電話して「当たり障りのない返事を書くように」とお願いしたと笑う。

 

―靴ー

「裁判官である時は、とにかく『公平中立』であることが第一。私生活であってもそのことは常に意識していました」

 

 ある日、靴を磨いていた妻が驚いて言ったという。

「裁判官の時は靴のかかともまっすぐにすり減っていたけど、弁護士になってからはかかとが傾いて減っているわ!」

 

「夫の本質は裁判官に合っていると思います。でも、子どもの時はかなりのやんちゃだったようで、それが弁護士時代には役に立ちました。たくさん喧嘩もしてたくさん仲直りした子ども時代。その経験が依頼者の役にたったと思います」

 

 2002年に最高裁判所判事を退官、東京弁護士会の弁護士となる。2004年旭日大綬章を叙勲。2017年に弁護士資格を返上。

 

 引退後の生活はいかがですか?とお尋ねすると、「楽だねえ」とニッコリ。毎日、妻の手料理を楽しむのが最高に幸せとのこと。

 

 「学生時代は、力一杯、好奇心を持ってできることはなんでもやってください。早くから進路を決めすぎないで。君たちはものすごい広い可能性を持っている。無限ですよ」

河合先輩から現役長田生へのアドバイスだ。(2019年1月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 河合さんを推薦くださった中25回生のみなさんは、今も有楽町にある「東京六甲倶楽部」で二ヶ月に一回、集まられるそうです。最初はただ集まっていましたが、仲間の一人が「孫や健康の話に終わるのはやめよう。毎回、何かテーマをもって勉強しよう」と言い出し、言い出しっぺの福留さんが、毎回、資料も用意してミニ勉強会を開催されているとのこと。そして、お仲間の尽力で、河合さんの旭日大綬章も母校に寄贈され、他の運動部や文化部の優勝旗などと共に飾られているとのことです。

 大先輩のインタビューに最初はちょっと緊張しましたが、河合先輩のチャーミングな、そして時々いたずらっこのような笑顔と、今も明晰なそのお話しぶりに楽しくお話を伺うことができました。「妻の方がうんと記憶力がいいからね」と奥様にもご同席いただきました。ありがとうございました

 

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Face To Face No.80「継続は力なり」

 高54回生 桑田寛之

 高倉中学卒

 サッカー部(キャプテン)

 広島大学工学部

 富士通

 


 

 みなさんは「フットゴルフ」というスポーツをご存じだろうか?簡単に言えば、サッカーボールでゴルフするスポーツである。2009年にオランダで始まり世界に広がった。日本では2014年に日本フットゴルフ協会が発足。2015年、初代日本代表選手として選出されたのが桑田寛之さんだ。

 

―サッカー一筋ー

 父の転勤に伴って、小学校6年生で中野から世田谷に引っ越し、更に神戸に越したのは中学3年生を目前に控えた春休みだった。

 

 「未だに関西弁が話せません(笑)。転校当初、関東弁をいじられたけど、反対にそれが親しみを増すきっかけになったりもしました。『通学には白靴がマスト』、とか、『神戸体操』っていったい何?って戸惑うこともありましたが、ずっとサッカーをやっていた僕は、3年生の新学期が始まる前からサッカー部で練習をさせてもらいました。そこで既に仲間が出来ていたので、神戸での学校生活に馴染むのも早かったと思います」

 

 そして長田に進学。高校でもサッカー部に入部した。

 

入部して最初の試合からレギュラーで出場させてもらった。ポジションはフォワード。

「当時、各学年に20名ほどの部員がいました。60名の中から試合に出られるのは11名、補欠も入れて20名ほど。その中で、一年生からメンバーに入れてもらったのは2人で、試合に出られる11名の中に入れてもらったのは僕一人でした。三年生にとっては引退試合です。僕が出ることによって試合に出られなくなる三年生がいる。出してもらった限りはチームに何がなんでも貢献せねば!と強く思っていました」

 

 県予選を勝ち進み、ここで勝てばベスト4というところまで進んだ。だが、そこで敗退。この時の試合で、桑田さんは点を入れることができなかった。

 

 「司令塔を務めていたキャプテンの三年生の先輩が、試合前日の体育の水泳の飛び込みでまさかの肩の脱臼。試合当日、ウオーミングアップで再び脱臼。病院に駆け込み肩を入れてもらって試合には途中出場でした。それまでの試合ではいい感じで勝っていただけに、メンバーが変わったことによって、自分自身のメンタルの弱さが出てしまった!と悔しかった。僕はどちらかというと人に合わせるタイプ。もっと自分からいかなければダメだと思いました」

 

 3年生でキャプテンになったが、監督の林先生からは「前代未聞の優しいキャプテン」と称されたとか。「人を怒ることができない」優しい桑田さんだが、仲間からは「勝負への拘りは人一倍強い」と言われているそうだ。

 

 進学した広島大学でも体育会のサッカー部に入部した。入部してから知ったのだが、広大サッカー部にはサッカーでの推薦入学枠があり、地元サンフレッチエのユースや全国大会出場校から進学してくる選手など、サッカーエリートがたくさんいた。部員は約80名。

 

 その中で、桑田さんは副キャプテンを務める。「今度はチームのつなぎ役だったので、適任だったと思います(笑)」

 

―フットゴルフとの出会いー

 サッカー漬けの子ども時代・青春時代を経て富士通に入社、システムエンジニアとして働きだした。商社のサッカーチームに入れてもらいサッカーを続けていた桑田さんが、初めてフットゴルフを見たのは2015年のテレビ番組でのこと。木梨憲武さんとジーコさんがトライしていた。

 

「観て、すぐにやってみたいと思いました。調べたら宇都宮で大会があるとのこと。出場してみたら60名中4位。そして次の大会では優勝。そして気付いたら2015年には初代日本代表になっていたのです」

 

 自信満々で臨んだオランダでの世界選手権。「入賞したら、インタビューではなんと答えようか」とまで考えていたが結果は惨敗。150人中100位ぐらいだった。

 

「日本ではカップはグリーンではなくラフに切ってありますが、海外ではグリーン上にあります。ものすごくボールが転がり止まりませんでした」

 

 練習を積んで、「今度はいける!」と臨んだアルゼンチンでの大会では、1ホール目で、パー4のホールを16(+12)の大たたきをしてしまった。

「両側をバンカーに挟まれたグリーンで、バンカーとバンカーの間を行ったり来たり。ミスを引きずって自分自身をコントロールできず、予選敗退という非常に悔しい大会となりました。」

 

 二つの世界大会に出場して気付いたのは「決して、サッカーボールを蹴るフォームが綺麗な人が上手いというわけではない。どこまで飛ばすかではなく、どこで止まるかが大事という、ゴルフでは当たり前の理論でした。」

 

 河川敷にボールを7つも8つも並べて、思った場所で止められるようにする練習を黙々と続けた。

「時々、親切にも飛んでるボールを途中で蹴り返してくれる人がいて。止まる場所が見たいんですが(笑)」

 

 そして、2016年のアジア大会では個人・団体戦共に優勝することができた。

 

―仕事とプライベートの両立ー

 現在、「働き方改革」の最前線にいることもあり、テレワーク等を利用しながら家族との時間、練習の時間、遠征の時間をやりくりしている。6歳の一人息子と遊ぶ時間が今、一番幸せな時。お父さんはこんなにアウトドアスポーツ大好きなのに、「息子はなぜかインドア派で(笑)。家の中での戦隊ごっこに付き合ってます」

 

 「フットゴルフは多くのゴルフ場ではゴルフの空いた午後からの空き時間を使って練習させてもらっています。サッカー経験者が多いので、初めてされる方はジャージでやってきてゴルフ場のメンバーさんにひんしゅくを買ってしまうこともあります。もっともっとマナーも整備して、ゴルフ場、ゴルフ場の会員様、そしてフットゴルフを楽しむ人たちがお互いにウインウインの関係になれるようなしくみを考えることも僕の一つの役割だと思っています。」

 

 フットゴルフの技術を磨くと共に、現在は、広報活動にも力を入れている。2024年のパリオリンピックで正式種目に認めてもらうことも当面の目標だ。

 

「勉強以外にも、全力で取り組めるものがあると楽しいですよ。何がきっかけになるか分かりません。いろんなことにチャレンジしてください!」桑田さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2018年12月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

試合でパターを決める桑田さん

 

桑田さんの動画、ハイライトシーンはこちらから

動画

 

編集後記

 桑田さんはとても穏やかに話します。それはいつも全く変わらずで、「反抗期さえなかったかも」とご本人も笑っていました。アルゼンチンやモロッコなど、かなり遠い国で開催されるフットゴルフですが、奥様は「優勝してきてね」といつも明るく送り出してくれる陽気な沖縄出身の女性とか。現在もフットゴルフ日本代表チームのキャプテンとして、メンバーのつなぎ役を自認する桑田さん。ゴルフを始めたばかりの私にも通じる「ゴルフ理論」もとても楽しいインタビューでした。

 

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「Face to Face」(OB御紹介)記事一覧
長田OBの魅力と卒業後の人生の軌跡をお伝えします
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NO83 高27回生 岩田直樹
「やってみよ、だめなら直せ」
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NO82 高46回生 高橋万紀
「変化が成長させてくれる」
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NO81 中25回生 河合伸一
「やんちゃと生真面目」
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NO80 高54回生 桑田寛之
「継続は力なり」
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NO79 高28回生 上門一裕
「コミュニケーションが基本」
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NO.78 高31回生 寺門孝之
「宇宙全託」
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No.77 高54回生 鈴木美央
「楽しいは強い」
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No76 高46回生 栗田直樹
「自分をストレッチさせろ」
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No75 高35回生 水谷和郎
「災害医療に導かれて」
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No74,高30回生 谷川直子
「エッセイストから小説家へ」
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No73 高62回生 宮本千尋
「大切なものを大切に」
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NO72 番外編 担当回生43回生ご紹介
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NO71 高28回生 伊藤裕二
「次の世に花開くものを見極める」
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No70 高62回生 上杉絢郁
「誰かの役に立つ喜び」
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NO69  高19回生 竹添昇
「挫折と挑戦」
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N0.68 高54回生 竹内健太
「長田スピリットで志高く生きる」
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No,67 高44回生 村平進
「とらわれない」
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No,66 高62回生 小倉加世子
「道は未知」
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No,65 高26回生 陰山恭行(芸名 陰山泰)
「持てる個性を発揮する」
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No,64 高54回生 太田沙紀子
「一期一会」
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NO.63 高42回生永井伸哉
「全ては自分次第」
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No62 高35回生 荒木篤実
「ビジネスに命をかける」
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NO.61 高15回生 仲誠一
「為せば成る、為さねばならぬ何事も」
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番外編 NO.60  懇親会担当、42回生ご紹介
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No.59 高61回生 中野瞳
「うまくいかないからこそ面白い」
ーーーーーーーーーーーーーー
NO.58 高17回生 中野正好
「美しいものが好き」
ーーーーーーーーーーーーー
NO.57 高30回生 伊達寛
「保続」
ーーーーーーーーーーーー
NO56 38回生 金盛正樹
 「NEXT ONE」
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NO55.34回生佐藤絵里
「叩けよさらば開かれん」
ーーーーーーーーー
No.54 29回生水草修治
「生きる道を探して」
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No.53 41回生 藤井浩
「ふまれてもふまれても立ち上がれ」
ーーーーーー
 No.52
 31回生 青木稔
「教師として生きるー亡き息子の志を継いでー」
ーーーーーーーー

 No.51 番外編
 41回生奮闘記
 
No,50 高18回生 藤本隆

「我が道を行く」

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N0.49 高43回生 山田洋平

「聞こえないけど、聴き上手になる」

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No.48 高35回生 山田恭嗣

「人とつながり、自然とつながる共感」

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No.47  高19回生 石田幸司

「人生は気楽が一番!」

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No.46 高58回生 富澤美緒

「ものは考えよう。どんなこともなんとかなる!」
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No.45 高61回生 富澤由佳

「努力は素質を上回り、気力は実力を超える」
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No.44 高38回生 近藤稔和

「前へ」
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No.43 番外編「再会を果たす」
高43回生 田中英一郎
高43回生 伊藤利尋
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NO.42 高28回生 岩崎倫夫
「舞踏家として生きる」
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NO.41 高44回生 藤田咲子
「咲子が咲いた 『ブルームス』」

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NO.40 高40回生 小森伸昭
「思考し、変化し、成長し続ける男」
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NO.39 高62回生 谷山実希
「あきらめなければ夢はかなう」
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NO.38 高60回生 谷山雅美
「まず、やってみる!」
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NO.37 高23回生 瀧和男
「妥協しない。信ずるところを貫く」
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NO.36 高36回生 山中勘
「おもしろい会社」つくったる
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NO.35 番外編 40回生担当幹事ご紹介
「なんとかなるやろ!」
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NO.34 高38回生 大志万容子
「日々を営む人の美しさを伝えたい」
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NO.33 高6回生 岩間一昌
  「人生はおもしろい」
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NO.32 高33回生 南山えり
「人生の流れには逆らわない。流されながら自分のできる精一杯のことをする」
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NO.31 番外編 吉地 恵(きちじめぐみ)
「行きあたり、バッチリ!」
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Face To Face No.78「宇宙全託」

 高31回生 寺門孝之

 垂水東中学卒

 映画研究部

 大阪大学文学部美学科卒

 神戸芸術工科大学教授

 

 

 

大阪大学工学部に入学しながらも、現在は神戸芸術工科大学教授を務め、画家として数々の作品を発表し続ける寺門さん。そのモットーとする言葉は「宇宙全託」。この聞きなれない言葉は寺門さんがかつて仕事上、お付き合いのあった某会社の社長の座右の銘であったとのこと。その言葉が自らの人生の指針となるに至った、不思議なお話を伺いました。

 

―学生時代ー

 イラストレーターの宇野亜喜良の絵が大好きで、一生懸命トレースしていた小学生の寺門さん。いつかは自分の絵で世に出てみたいと思っていた。長田時代は映画の自主制作に没頭した。大森一樹監督や石井岳龍監督が活動し始めていた頃で、寺門さんは8ミリフィルムでの撮影、脚本執筆、編集、チラシ制作など表現活動に没頭した。

 

 大学入試直前になって美術系大学を受験したいと打ち明けたが、担任教員にも両親にも「そんな話は聞いていない、今からでは絶対に無理」と反対され、ならば一年浪人して美大を受けようと心密かに決めていたところ、現役で大阪大学の工学部に合格してしまった。入学はしたがやはりしっくりこず、3年進級時に文学部美学科に転部転科。だが、そこでも美術史を研究するだけで「描く」わけではない。東京に出て絵の実制作を学びたい! そのためにも、一人息子である自分は、まずは大学をきちんと卒業して両親を安心させねば。

 

 「ちょっとした『めくらまし』ですよね(笑)」。卒業が遅れそうだった寺門さんは、信頼を得るため猛勉強してなんとか4年で大学を卒業。両親の許しも得て上京した。

 

―セツ・モードセミナーー

 上京した寺門さんは、数々の美術学校を見学する。生活費は自分で稼がなくてはいけないので夜に授業を受けることにしていた。

 ある夕暮れのことだ。不思議な、とてもセンスのよいファッションに身を包み、絵の道具を抱えた人々がおしゃれな建物に吸い込まれるように入っていくのを見た。そこは日本のファッションイラストレーションの草分けであり、水彩画家としても独特の繊細でファッショナブルな画風で知られる長沢節が主宰するセツ・モードセミナーだった。

 

 引き寄せられるように建物に入った寺門さん。受付には、今までに見たこともないような美青年が座っていた。「資料が欲しいのですが」と言うと「ちょっと待って下さい」と言われた。

 

 「そして彼は、いきなり半ダースほどの鉛筆を取り出して、それをカッターで美しく削りだしたんです。そして削り終わった鉛筆をトントンと揃えて、『で?』と言ったんです。なんなんだ!この特別な雰囲気、美意識は?」こうして寺門さんはセツ・モードセミナーの夜間部に週三回通いながら、昼間はアルバイトする生活に入った。

 

―声ー

 長沢先生は細かいことは一切教えない。生徒たちが描いた絵を見て講評だけをする。初めての講評会で寺門さんの絵を観た先生は「君は写真か、映画をやっていたのか?うん、そんな感じだな。だが、絵の構図は写真とは違う。絵では水平線は傾けてはだめだぞ」と言われた。なんだかまだ分からないがこの先生はすごい!そう直感した。「この先生について行こう。」 だが、その後、寺門さんの絵はなかなか評価されることがなかった。寺門さんは落ち込んでいく。やがてアルバイトも辞めてしまい、昼間は寝て過ごすような自堕落な生活を送り始めた。

 

 アパートの万年床で昼間まで寝ていた寺門さんは、突然、耳元で声を聞いた。電話線を通したような少しカサカサした女声だったが、はっきりとこう言った。「新聞を買いに行け」。

 

 「その声に、反応しちゃったんですね。え??新聞?どこに売ってたっけ??」

 

―コンピューターグラフィックスー

 近くのコロッケ屋さんで新聞も売っていたことを思い出した寺門さんは、新聞を買いに走る。以前は求人広告を見るために新聞を購読していたが、それも止めて久しかった。自然と求人広告に目が行く。「イラストレーター募集。経験不問」の文字が目に入った。

 

 「上京当初、求人広告に掲載されているイラストレーター募集では、電話すると、必ず『経験は?』と聞かれ、『経験はない』と答えるとそれで門前払いでした。なので、すぐに電話しましたね。本当に経験不問なんですか?と尋ねると、絵はやっているんだよね?と聞かれ、その絵を持ってきてください、と言われたのです」

 

 銀座の小さなビルを訪ねた。「株式会社シフカ」は来るデジタルネットワークの時代にいち早く目をつけた若い経営者が設立したてのデジタル画像制作会社だった。

 

 画材はコンピューター。給料ももらえる。そして工学部出身の寺門さんは、ドットで描いていくコンピューターグラフィックスの創成期に馴染むのも早かった。

 

 「大手企業も、来るデジタルコミュニケーションの時代にすでに備えようとしていました。螢轡侫は大日本印刷が一大クライアントで、僕は大日本印刷の研究所のようなところで、次々を開発されてくる日進月歩の技術の最先端で思う存分画像制作をやらせてもらいました」

 

 一年が過ぎた頃だ。ある朝、寺門さんは夢を見て目覚めた。

 

―不思議な夢ー

 「そこに洞窟があるのです。おずおずと入っていく僕。そうすると前方にたくさんの人がいて『ブラボー!』と拍手喝采で僕を迎えてくれる。その先には白い3つの額縁。目覚めた時、なんとも言えない高揚感と幸福感が私を包んでいました」

 

 その日、セツ・モードセミナーに行くと「日本グラフィック展に出品するよね?」と友人に声をかけられた。「日本グラフィック展」は5000人もの人が応募するグラフィックアートの一大登竜門で、歴代、大賞は日比野克彦・谷口広樹はじめ東京藝術大学出身者が独占していた。

 

「なんだか、僕は大賞とれるんじゃないか?そんな気がしました。夢に出て来た白い額縁を散歩コースの画材屋さんで見た気がする。さっそく買いに行くと、売り切れで今はないが注文したら一週間で出来ると店主が言う。すぐに注文して、一週間不眠不休で作品を仕上げました」

 

 大賞発表当日、寺門さんはあんなに自信があったのに、怖くて発表をなかなか見に行けない。時間ぎりぎりになってタクシーを奮発して発表会場のパルコに駆け付けた。そのパルコの駐車場入り口がまるで洞窟のようだ。その奥には大勢の人がつめかけており「遅かったじゃないか!待ってたよ!」と声がかけられた。膝がガクガク震えた。大賞受賞だった。

 

 「セツ・モードセミナーが藝大旋風にストップをかけた」と新聞に紹介された。

 

第6回日本グラフィック展大賞受賞作品「潮先」1985年 水彩紙にアクリル絵の具

 

 

 

―宇宙全託ー

 大賞を受賞した寺門さんはその1年後螢轡侫を退職し、以降、フリーランスで活動している。

 

30歳で結婚した寺門さんが、生活資金に窮して銀行に記帳に行ったら、なぜか数十万円のお金が振り込まれている。何年か前の仕事で未払いになっていた賃金が振り込まれていたのだった。

 

「これはきっと、まだ絵の仕事続けていいっていう、宇宙からのお知らせよ」と妻が言った。それ以来、「宇宙全託」という言葉が寺門さんの心の中に響いている。

 

―天使ー

 2014年から、寺門さんは新しい手法で描く天使の絵のシリーズを発表し続けている。リトアニアリネンという麻布をキャンバスにし、まず表から絵を描く。次に裏返して染みた絵具の上に描く。また表に返し、そして裏に返し、その作業を納得のいくまで続け、最後に気に入った側に一筆入れて仕上げる。どうやって描いたのは分からないような、そんな絵を描き続けたい。

 

 

「FONTANA」2018年 リトアニアリネンにアクリル絵の具その他

 

「高校生の前の中学生。その前の小学生。その頃に、理由も分からずに好きになったものや人と、その後の人生で必然のように出会いました。今この時、好きなことをずっと忘れないでいると、いいことがあるかもしれませんよ!」

 これが不思議な体験の中から自分の道を見つけ出した寺門さんから現役長田生へのアドバイスだ。(201810月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

編集後記

 展覧会会場にてインタビューをさせていただきました。寺門さんの天使の絵に囲まれながら、穏やかな声で話す寺門さんのストーリーを聞いていると、不思議とその場面場面が映画のように私の頭の中で映像化されます。寺門さんを推薦してくれた同期のH君の話によると、寺門さんのオーラは長田時代から「半端なかった」とのこと。インタビューが終わるまで、辛抱強く寺門さんをお待ちになっていたファンの方もおられ、その人気の一端を見た思いでした。絵の方はちょっと手がでなかったので、テラカドオリジナル、素敵なピンバッチのセットを私も購入しました。プロフィール写真の襟元にご注目です!

 

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Face To Face No.77「楽しいは強い」

 高54回生 鈴木美央

 伊川谷中学卒

 バスケ部マネージャー 

 早稲田大学理工学部建築学科卒 

 英国 Foreigin office Architects

  慶応大学大学院理工学研究科博士後期課程 博士(工学)

  

 

 

経験は種ー

 美央さんは、整形外科関連の疾患により小学生の頃から通院を行い、中学で1回、高校で2回手術を受け、その度に三ヶ月の入院を余儀なくされた。子どもの頃は、白くて古くて研究室のような病院が怖くて足がすくんだ。だが、高校生になると疑問を感じるようになった。「本来、人を癒すためにある病院なのに、辛い人をよけい辛くさせるような建物でいいの?」

 

 小学5年生で経験した阪神淡路大震災も、美央さんに大きな影響を与えた。住居のあった西区は比較的被害の小さな地域ではあったが、それでも新幹線の橋げたが落ちているのを目撃し、家が潰れて亡くなった人のいることを見聞きした。「本来、人を守るはずの建築物が人を傷つけていいの?」

 

 この二つの経験を「負の遺産」にしたくない。この経験を生かしていきたい。人の生活に建築は大きく関わっている。私は「建築」を使い、たくさんの人が笑顔になる空間を作っていきたい。

 

 こうして、美央さんは大学の建築学科に進学した。大学在学中に、完成したばかりの「横浜の大さん橋」を観に行った美央さんは衝撃を受ける。全てが穏やかな曲線で表現された大さん橋は、見事に横浜のランドマークと調和し、人々は幸せそうに散歩していた。

「大さん橋」を設計したのがイギリスの設計会社だということを知った美央さんは、そこでインターンシップとして働かせてもらおうとイギリスに渡る。

 

―チャレンジー

 「建築業界では、学生がアルバイト的に設計事務所で働くことは『オープンデスク』と呼ばれてごく普通のことでした。だから私もアルバイトでもいいから憧れの建築家の元で働くことができればと思っていたのです」

 

 ところが美央さんの人生はここで大きく変わる。応募してみるようにと勧められた高層ビルのコンペで勝ってしまったのだ。コンペ時のプロジェクトの主要メンバーはたったの三人。30代半ばのオーストリア人とスペイン人、そしてまだ23歳の美央さんの三人のチームだった。

 

 その事務所には、その事務所で働きたい人たちが世界中から集まっていた。そして、その集まった若い人たちに全面的に仕事を任せるのが、その事務所のやり方だった。

 

 その後、美央さんは大きな仕事を次々に任される。マレーシアで建築された50階建てツインタワーの建築意匠をたった一人ですべてやっていた時期もある。外壁のデザイン、ランドスケープのデザイン、内装のデザイン、全てである。発注主は、まさかの若い小娘がやってきて驚いていたが次第に信頼を勝ち得る。

 

 「若い時に、責任を持たされてチャレンジングな仕事をする。大変だけどめちゃくちゃ楽しい。ものすごく仕事しましたが全く苦ではありませんでした」

 

レイバンズボーン ユニバーシティ ロンドンの外壁意匠

美央さんのプロジェクトチームで担当した。 

 

 だが、5年ほどがむしゃらに働いた美央さんに、また新しい疑問が浮かんできた。

「建築技術の伴わない途上国で高層ビルを建てることは、危険な作業を伴っていました。2008年にはエコノミッククライシスが起こり、多くのプロジェクトが途中で放棄されました。大きな建築物を建てることで、新しい可能性を掘り起こす可能性はもちろんある。でも、それはどの時代にでもどの都市にでもあてはまることではない。そう感じ始めたのです」

 

 顧客の要望に応えるのではなく、もう一度もっとアカデミックな場所に身をおいてみたい。永住権まで得ていたイギリスを離れた理由は、実はもう一つあった。当時、付き合っていた現在の夫が、駐在が終わり帰国することになったのだ。帰国して結婚。慶應での勤務を始め、仕事として研究を行う中で研究の楽しさに目覚めた。そんな時、当時の勤務先の先生に勧められ「働いた経験で修士課程を修了したとみなす」コースがあることを教えられ、慶応で博士コースに進学した。

 

―マーケットー

 博士コースで美央さんが選んだテーマは公共空間の研究だった。ロンドンの街で馴染みの風景だった「マーケット」。「マーケット」には二つの定義がある。一つは可変性。規模も形態もフレシキブルで、その時々の街の人口、必要な物、また目的によってその姿は容易に適応することができる。そしてもう一つが継続性。普通の道が一週間に一度マーケットになる。あるいは月に一度、場合によっては年に数度。しかしそこに「継続性」があることが必須条件である。

 

 「大きな建築物は作ってしまったら変化できない。でも、マーケットは至極簡単に姿を変えながら存在することができます。欧州ではマーケットは生活の中に根ざし、生まれた時からそこにあり、マーケットなしの生活は考えられないという文化があります。かつては日本にも露店の文化があった。でも、戦後、道路が警察の管理下に置かれるようになり日本独自の露天の文化は消滅してしまいました。私が建築を目指した原点は『建築で人幸せにする』です。マーケットは日本ではおしゃれなイベントとして認識されていますが、実は世界では都市のインフラとして機能しています。このマーケットというツールを日本でも使いこなしていき、いずれはそのツールを、開発著しい中国の街にも輸出していく。そんな夢を抱いています」

 

 今年6月に「マーケットでまちを変えるー人が集まる公共空間のつくり方―」が学芸出版社から出版された。重版も決まり、共同通信社により書評が配信され各地方紙に掲載されている。

 

「好きなことを楽しく頑張ってください。誰かが手助けしてくれ道は開けます」美央さんから現役長田生へのアドバイスだ。(20189月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 実は美央さんが大学院博士コースに進学したとき、長女は生後6ヶ月。論文研究のために10日間の研究旅行で渡英したときは生後10カ月だった。「夫は、私のことを褒めたり鼓舞したりはしませんが、私がやりたいことを自由にやらせてくれ、そしてとても淡々とサポートして私が留守中の子育てもこなしてくれます。本当に感謝しています」。右手に5歳の長女、左手に3歳の次女を抱いて眠るとき、最高に幸せを感じると言う美央さん。どうぞ、だれにも優しい公共空間をプロヂュースして、私たちに幸せな時間をプレゼントしてくださいね!

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Face To Face No.76「自分をストレッチさせろ」

 高46回生 栗田直樹

 高倉中学卒

 サッカー部

 神戸大学経済学部卒

 三井物産株式会社

 ペンシルバニア大学ウオートン経営大学院卒
 

 サッカー少年だった栗田さんは、商社に就職後、一念発起して海外MBAを取得する。その2年間の経験が栗田さんをどう変えたのか?お話を伺いました。

―学生時代ー 

幼い頃からサッカー大好き少年。小学校のサッカーククラブのCoキャプテンだったが、親の転勤のため小学三年で中断。転校先ではサッカークラブがなかったこともあり、野球、バスケットボールなど他スポーツを楽しんだ。

 

サッカーを再開できたのは長田入学時だった。ずっとサッカーを続けていた仲間たちとは、技術の差はきっとあったと思う。「それでも、持ち前の負けず嫌いな性格とがんばりでレギュラーの座をいとめました」。高校2年生の時、膝を痛めて半月板の内視鏡手術をしてからは思うように練習が出来ない時期もあったが、好きなサッカーと、仲間と過ごす時間を存分に楽しむことができたのは、監督と仲間のお陰だと思っている。

 

長田時代のサッカー仲間と。後列左から2番目が栗田さん

 

校風として文武両道をモットーにしていたこともあり、サッカー部の活動に没頭しつつも、休み時間やバス・電車の中の隙間時間で予習・復習するなどし、効率的に勉強することは意識していた。

 

怪我をして時間が出来てからの方が勉強の効率が落ちてしまったように思うが、今振り返ると、「複数の忙しいことが重なっている方が効率的に動ける性格なのかも知れません」と笑う。

 

現役で地元の国立大学に進学したあとは、学習塾の先生のバイトやサークル活動に精を出しつつ、貯めたお金で米国、欧州、アジアなどの海外旅行なども楽しんだ。

 

―ハードルを越えるー

  就職は商社を選んだ。海外への憧れもあり入った商社だったが、実際に従事した仕事では英語を使う機会はさほど多くはなく、入社7年目に米国研修員として米国で1年間生活した際に、はじめて本格的に英語を使うようになったというのが正直なところだ。

 

 社内留学制度でMBAを取得したいと考えるようになったのは何時ごろからだろう。「常に自分の一生のスケールで何をすべきか、何をしたいのかを考えよ」という先輩の言葉にも刺激を受けた。米国での研修時代に、1000人以上の社員をマネジメントするまだ30代の社長の姿を間近に見て、将来自分は、彼のようにたくさんの人の人生の一端と生活を担う責任を果たせるのだろうか、と痛感したこともある。30歳になった自分の理想と現実のギャップを埋めたい。その方法の一つが海外MBAだと栗田さんは心に決めた。

 

 海外MBAを取得するには、最初に超えなければならないハードルが二つある。一つは社内で選抜されること。もう一つは志望する大学の試験に合格することだ。大学合格のためには、一般的には1300時間の程度の準備が必要とされていた。

 

「『約一年間は週末も含めて僕はいないものと思ってくれ』と妻に伝え、平日出勤前、通勤時間、帰宅後、週末に勉強しました」

 

 一年後の受験で倍率およそ10倍の希望大学の入学試験には見事合格。だが、なんと社内選抜が最終面接で落とされてしまった。「正直、この一年をもう一度繰り返すのは無理と思いました」

 

 だが、MBA取得の先輩から、入学の権利を翌年まで留保する方法があることを教えてもらい、交渉の末、なんとか大学には一年待ってもらえることに。社内選抜も、過去には2回目のチャレンジで合格していた人もいることを知り、もう一度チャレンジすることに。そして翌年、晴れて2年間の留学に出発した。

 

―貢献するー

 80ヵ国以上、一学年850名のクラスメイトと学ぶ2年間は、想像以上の変化を栗田さんにもたらした。会社を離れ、日本を離れ、一個人として未知の世界でもがいた。

 

 勉強はもちろん睡眠時間を削って頑張った。マーケティングや財務の経営理論はもちろんのこと、リーダーシップ・チームワークや交渉・コミュニケーション能力向上のための授業も用意されていた。その中でもユニークなものが三日間氷山の中で行う、「危機的状況の中でリーダーシップを発揮する」ためのプログラムだ。

 

事前に三ヶ月に渡る身体的トレーニングを行った上でプログラムに参加。期間中は参加者が交代でチームのリーダーを担う。「他のメンバーの状況を正確に把握し的確に指示をだす」「密なコミュニケーションで互いの信頼関係を築く」「メンバーを励まし鼓舞する」。これらのことを身体的・精神的窮地の中で確実に実践できるよう学んだ。

 

大学一年生の時に阪神淡路大震災に罹災し、家が半壊した栗田さんにとって、その時に受けた大きな支援は忘れられないものだった。だからこそ、留学中に起きた東日本大震災では、今の自分が、米国で出来ることは何かと必死で考えた。留学生仲間とチャリティイベントを行い、40000ドルを集めた。「米国企業のマッチング制度を利用すれば、集めた金額と同額の寄付を企業から集めることができる」と教えてくれたのはMBA仲間だ。自らの勤務先の制度を活用して協力してくれた。街の教会に、コインで一杯になった貯金箱を届けてくれた小さな男の子のことも忘れられない。

 

この二年間で得た一番の財産は、世界中から集まった多様な価値観を持つ友人と過ごした時間だ。優秀でありながら謙虚。失敗しても挑戦し続ける姿。「Get out of Comfort zone(今に安住するな)」「How can you contribute(貢献できるか)」。互いに常に鼓舞しあった言葉がしみこんでいる。

 

 ウオートン校で一緒に学んだ仲間たち

 

―朝活ー

 2011年に帰国した栗田さんは、「一人で出来ることは限られている。互いに刺激しあって化学反応を起こす場を日本でも作りたい」と考え始める。

 

そんな中、海外MBAを経験して「海外ビジネススクールのように、様々な人々が出会い、刺激的・継続的に学べる場を作りたい」と活動を始めていた仲間と意気投合。現在、共同幹事として「MBA朝活」を主催している。月一回の開催は継続的に続けられ、すでに45回を迎えた。出勤前の早朝715分から八時半まで、虎ノ門カフェで開催している。

 

栗田さんたち共同幹事の意気に感じ、そうそうたる経営者たちが講師を無償で務める。ビジネスの側面だけではなく、講師それぞれの生きざまや価値観まで語られるのが魅力だ。

 

「自分の可能性を自分で狭めてしまってはいけない。強い想いがあれば、賛同、アドバイス、もしくは支援してくる人が必ず現れ、強いエネルギーを貰って実現への道が広がります」栗田さんから現役長田生へのアドバイスだ。(取材・文・写真 高28回生 田中直美)

 

編集後記

 「MBA朝活」に私も参加してきました。私は朝5時起きでしたが、参加者の女性の一人は4時半に起きて子どものお弁当を作ってから来られたとか。「新しい刺激を受けて勉強したくて」とのこと。参加者は20人ほど。活発な質問が飛び、講師も的確な答えを即答。投資会社経営者による金融界のお話でしたが、門外漢の私にも充分に理解でき、有意義な朝でした。みなさん、講義のあとは一目散に仕事場へ。若いエネルギーに元気になりました。商社マンとしての本業も充分すぎるほどにいそがしいであろう栗田さんが、毎月一回のこの会を開催し続けるエネルギーはその「想い」にあるのだろうと痛感した時間でした。

 

「MBA朝活」の様子

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「Face To Face」NO.75「災害医療に導かれて」

 高35回生 水谷和郎

 太田中学卒

 水泳部

 山口大学医学部

 神戸百年記念病院心臓リハビリセンター長

 (旧 鐘紡記念病院)

 

 

 阪神淡路大震災が人生の転機となったと語る人は多くいるだろう。水谷さんもその一人だ。だが、水谷さんの場合、その転換点は震災10年後に訪れた。揺り起こされる記憶が、水谷さんの医師としての仕事に、専門の循環器内科とは全く別の側面である災害医療という新たな一面を加えることになった。そしてそこから更に4年後、一冊の本との出会いで、水谷さんの災害医療は更に深化することになる。

 

1995年ー

 1995117日。水谷さんは医師になって3年目。兵庫県立淡路病院で当直の朝を迎えていた。淡路病院は淡路の救急病院で、連日、島中から救急の患者ばかりが搬送されてくる。日常から野戦病院の趣があり、毎日の医療に少し自信が出て来た頃だった。

 

 早朝5時半に目がさめポケベルをチエック。テレビをつけたその時に、遠くからゴーっという音が近づきドンと縦揺れがきた。とっさに思ったのは「東海地震がきた!名古屋が大変だ」ということ。当直室の扉を開けると非常扉が全て閉じて廊下が緑の部屋になっていた。

 

 ドアを開け開け一階に降りたがいつもと変りない。情報源はテレビのみ。京都が震度5。だが、淡路・神戸の情報は出てこない。情報を得るために淡路の広域消防に電話した。救急要請が11件あり、生き埋めが何件か出たようだ、との情報を得る。最初の患者さんが来たのが65分。軽症の患者さんがバラバラと自力で来院した。

 

 様子が変わってきたのは7時過ぎから。次々に救急外来の患者が運ばれ、あちこちで心臓マッサージが始まっていた。

 

「この時、外科部長だった松田先生が栗栖先生に『映像で記録をとれ』と命令しました。正直、なんで?と思いましたよ。一人でも多くの医師の手が欲しいのに」

だが、結果としてこの時撮られた映像が水谷さんの人生の進路を大きく変えていく。

 

この日の来院患者数68名。死亡7名。重傷20数名。混乱は午後14時ぐらいにはほぼ終息した。ライフラインが切れなかったこと、救急病院だったため、普段から科を超えて協力する体制があったこと、明石大橋開通前で、非番の医師たちも病院の近くに住む人が多く、駆けつけてきた医師が多くいたことも幸いした。

 

震災当日撮影された映像より 中央が水谷さん

 

2005年ー

 震災後3年目ぐらいから、なぜか震災の話をすると泣いてしまうようになっていた。何故そうなのかは自分でも分析できない。とにかく、自然災害によって突然命を絶たれ、亡くなった方々の時間が止まってしまった理不尽さが悔しかった。

 

 震災10年後のその日、水谷さんは兵庫県立姫路循環器病センターに勤めていた。看護詰所のテレビで10年目の黙祷が始まったその時、突然の号泣がこみあげ止められなかった。

 

 「当時、姫路の循環器病センターは地域の災害拠点病院に指定されていました。でも、指定されているだけで何も準備はされていなかった。僕はそのことに気付いていましたがそれまで気付いていないふりを自分自身にしていました。でも、その時、急にスイッチが入ったんです。震災当日、淡路病院で経験した自分だからこそできることがある」 

 

 水谷さんの災害医療活動がスタートした。

「まずは病院のスタッフにあの時の映像を見てほしかった。阪神・淡路大震災当日の病院での映像記録では、唯一のものです。現場で何が起こっていたのかを知って、そしてどう行動すべきなのか、自分事として考えてほしかった」

 

 映像を公開することには葛藤の連続が有ったと言う。「でも、現状ではだめだ。これでは亡くなった人たちが報われない」。

 

姫路循環器病センターでの初めての講演の日、水谷さんはいつもの白衣ではなくスーツを着た。淡路病院のスタッフとして今日は講演するのだという意志表示だった。

 

 病院内の反響は凄かった。災害医療に対応しなくてはという機運が一気に盛上がる。水谷さん自身も、もっと勉強をしなくてはと日本集団災害学会のセミナーを受けることにした。だが、勤務医は平日に休みをとるのが難しい。そうだ、自分が学会発表をすれば休みを貰えてセミナーを受けられる!

 

 意気揚々と出かけた学会で、まさかの肝心のビデオが動かず発表は失敗。「だがまぁ、一回だけのことで、専門外だしいいか。セミナーを受けるという目的は果たすことができた」と帰途につこうとしていた水谷さんに、長崎大学付属病院と松山赤十字病院から「映像を貸して欲しい」と声がかかった。

 

 「それなら、ぜひ私の話を聴いてください!」この時の講演が口コミで広がっていった。

 

2016年11月12日 鳥取県立厚生病院で講演する水谷さん

 

2009年ー 

 NHKのスペシャル番組「阪神・淡路大震災 秘められた決断」を観て、本、「災害エスノグラフィー;阪神・淡路大震災秘められた証言」を買う。それは鳥肌が立つほどの衝撃だった。

 エスノグラフィーとは、本来、民俗学のフィールドワーク手法の一つ。それは、京大の林先生が震災当日の神戸市役所職員のそれぞれの一日を克明に聞き取り、その話し言葉のまま時系列にどこでどんなことが起こっていたのか記録した書だった。

 

 水谷さんは、体験した人にしかわからない体験の「温度差」が気になっていた。あの映像に写っている人を全てインタビューして淡路病院での災害エスノグラフィ―を作ると決心。既に13名のインタビューを終え、後は4人だ。驚いたことには、だれもがあの20年前の一日を克明に記憶していた。

 

 あの日の映像だけでは伝えきれないこともある。映像を見た人自身のバイアスがかかるからだ。だが映像にエスノグラフィーを加えることで、その映像に写っていなかった時間にその人が何を体験し、どう考え、どう行動していたのかが克明になり、疑似体験がより深いものになる。「他人事」のあの震災の日を「自分事」として捉え、その時、医療従事者として自分に何ができるのか考え抜くこと、また現場で実際に起こっていたことを疑似体験することによって、知識を増やしておくこと。知らないことは出来ないのだから。

 

 現在、神戸の百年記念病院で心臓リハビリセンター長として勤務しながら災害医療の啓もうに力を注ぐ。正直二足のわらじは厳しい。だが、この活動を止めるつもりはない。(20187月 取材・文・写真 田中直美)

 

―編集後記―

 水谷さんが取材された災害エスノグラフィ―を拝見しました。大通りだけ巡回し、その裏道の惨状に気付かなかった消防署員の後悔、いつもとは全く違う様子を呈する医療現場では、違う動線をすぐに構築することが必要なこと、通常であれば、まだ手を尽くすはずの患者さんの治療を、より軽症で命が助かるのぞみのある人を助けるために治療を止める勇気が果たして自分に持てるかどうかなど、「習う」災害医療ではなく「自分事としてシュミレーションする」災害医療の大切さを水谷さんが啓もうする意味を痛感しました。

 「震災当日の医療現場のフィルム」。他にはないこの貴重な資料を生かさねばと奮闘する水谷さん。ありがとうございます。

 

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Face To Face No.74「エッセイストから小説家へ」

 高30回生 谷川直子

 飛松中学

 生物部

 筑波大学第二群比較文化学類卒業

 

 

 

 現在、五島列島在住の谷川直子さんは、小説家・文芸評論家として著名な高橋源一郎の元妻として、また、彼との離婚を挟んで罹患したうつ病を克服した後、第49回文藝賞を受賞、作家デビューした女性として知られています。その谷川さんの半生を五島列島福江市でお聞きしてきました。

 

―エッセイストー 

 大学生時代、谷川さんは詩人になりたかった。だが詩人で食べていくことは至難の業だ。卒業後、父の勧めで神戸の会社に就職したにもかかわらず、わずか八カ月で勝手にそこを辞め、土曜美術社「詩と思想」編集部に転職した。両親は激怒。ボストンバック一つで家出同然に上京した。少しでも詩に近い所で働きたいという一念だった。

 

 高橋源一郎と出会ったのは谷川さんが25歳の時。彼の小説をよく読みファンだった谷川さんのことを知る編集部の人が、会う場を作ってくれた。

 

 「初対面とは思えませんでした。文学の趣味が似ており話がはずみました」

 

 ほどなく結婚。だが、当時の高橋はまだ収入的には駆け出し。原稿料が振り込まれているかと、どきどきしながら銀行の記帳に通うような日々だった。

 

 この頃、競馬と出会ったのが人生の最初の転機になったと谷川さんは言う。

 

「あまりにも生活が苦しく『競馬でお金をふやせるかも』という高橋の意見で、生まれて初めて競馬場に足を運びました。私はそこで美しい馬の虜になったのです。競馬の面白さに目覚め、奥の深い競馬を徹底的に学びました。ちょうと武豊氏が活躍している時代で中央競馬会も女性客に目を向け始めていました。JRAPR誌などでエッセイを、サンケイスポーツで予想コラムを執筆するようになり、初めて文章でお金を貰うようになったのです」エッセイスト谷川直子の誕生だった。

 

―うつ病の克服―

だが、高橋源一郎との結婚生活は14年間でピリオドを打つ。離婚する3年ほど前から「寝られない。食べられない。ひきこもる」生活が続いていた。初めて診察を受け入院・治療が始まったのが発症後三年。

 

「病名がついて薬を貰えたことを、とても嬉しく感じたことを覚えています」と谷川さん。

 

 多才でいろんな新しい世界に自分を導いてくれた高橋を、谷川さんは尊敬していた。だが、結果として他の女性を選んだ高橋との離婚と、その前後の日々は想像以上のダメージを谷川さんに与えていたのだ。

 

立ち直るきっかけとなった日のことは、鮮明に記憶に残っていると言う。

 

「すばらしいカウンセラーと出会えていたことが幸いしたと思います。回数を重ねるカウンセリングの中で『自分は自意識過剰である』と気づいたのです。『人に良くみられてたい。人よりすぐれていなければいけない。捨てられた奥さんというレッテルを貼られたくない』」そんな自分の心の奥に気付きました」カウンセリングが始まって2年の時が経っていた。

 

もちろん、うつ病は気付き一つで回復するような単純な病ではない。だが、この日を契機として徐々に回復し、その後3年で全快することができた。

 

―五島列島へー

 この頃、五島列島生まれで五島列島の役所で働いていた大学時代の同級生と再会。彼との再婚を機に、谷川さんも五島列島に移り住む。

 

 「私はエッセイストではなく作家になりたいと考え始めていました。お世話になっていた編集者に相談すると『まずは何か賞をとってください』と。移住当初は、一年ぐらいで賞をとってみせると意気込んでいましたが、結果としては賞を戴くまでに7年の年月がかかりました」

 

 2012年、「おしかくさま」で文藝賞を受賞。小説家谷川直子の誕生が人生の第二のターニングポイントとなった。

 

 谷川さんの小説には「おしかくさま」「断貧サロン」のような、新興宗教をとりあつかったコミカルな作品と「四月は少し冷たくて」「世界一ありふれた答え」のようにうつ病患者の患者視点からみた、繊細で美しい文章で綴られた作品がある。

 

 「私が自身のうつについて語ると、『自分の家族もうつです』と相談の反響がすごかった。うつを克服することができた私だからこそ発信できる何かはないか?そう考えました」

 

 また、うつを契機に「宗教」を見る目も変わったのだと言う。

 「うつが克服できるなら神でもなんでも信じたいと思った時期もあったのですが、ある時、救ってくれるのは神ではなく自分自身、と気づいた時から何かが大きく変わりました」

 

 五島列島に移住し、ひきこもって小説を書いては応募・落選を繰りかえしていた七年間。まるでプライベートビーチのように誰もいな海岸に一人、引いてはうちかえす波に癒されたこともあった。

 

 移住生活十二年になる今は、映画館もない島の生活に、アートや文化の飢えを感じることもあるという谷川さん。書きたいテーマはまだたくさんある。だが、島の生活では都会のリアルは手に入らない。流行りの食べ物も洋服もネットの中でだけの出会いはもどかしい。あと二年で夫の定年を迎えるが、どこで暮らすのがベストか思案中だそうだ。

 

 「高校時代に、自分の肉体の限界に挑戦することが、後々の人生をいかに生きるかにつながってきます。限界までがんばってください」谷川さんから現役長田生へのアドバイスだ。(201712月 取材・写真・文 高28田中直美)

 

編集後記

 「五島列島に住む谷川直子さんにお話を伺ってみたい」。それも理由の一つとなって、今回、私の長田時代の友人三人で五島列島への旅が実現しました。旅人の眼に映る美しい大自然とおっとりとした島人は、生活者である谷川さんにとっては、また違う側面を持つことも知った旅でした。「移住当初、ばりばりの島言葉はイタリア語にしか聞こえなかった」そうです(笑)

 インタビュー前夜に脱稿したという「私が誰かわかりますか」が8月に朝日新聞社から発刊されます。長崎の架空の都市を舞台に、介護する長男のお嫁さんたちが登場する物語だそうです。最新刊は「ゆうべ不思議な夢をみた」文蔵ブックス、ぜひご一読を!

 

 

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