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「Face To Face」NO.86「努力はいつからでも実を結ぶ」

 55回生 丸山健太郎

 井吹台中学卒

 陸上部→空手部

 同志社大学政策学部

 日本航空 パイロット

 

 

 乗り物好きだった父の影響で、自動車、電車、飛行機と、やはり乗り物が大好きになった丸山さん。いつしかパイロットになりたいと思い始める。だが、夢がかなう一歩手前で、時代に翻弄されることになった。そんな丸山さんにお話を伺ってきました。

 

―中途半端だった高校時代ー

 長田時代は最初、陸上競技部だった。一年先輩は400メートル×4リレーでインターハイで優勝した伝説の学年だ。鉄剤を注射しながらがんばるようなストイックな雰囲気の中、記録が伸び悩み、スランプに陥った丸山さんは、2年生の夏に退部。といって何も運動しないのも、と考え、当時、もう少し自由な雰囲気だった空手道部に入部、卒業まで続けた。

 

 勉強も中途半端だったと振り返る。一浪したあと京都大学を目指したが、これも夢かなわず、何かもやもやした気分を抱えたまま、同志社大学の政策学部一期生として入学した。

 

―すばらしい先輩たちとの出会いー

 「京都には『Good Samaritan Club』という、当時でもすでに30年以上の歴史のある、英語で観光案内をするボランティアサークルがありました。京都大学、同志社大学、立命館大学の三校で構成され、入部するには厳しい面接があって、僕の友人は落ちてしまったほどです」

 

 丸山さんは、たまたま手にしたビラを見て「せっかく京都に住んでいるし、英語も好きだし、ボランティアも素敵やん」という軽い気持ちで入部したとか。だが、ここで出会った同期や先輩たちに強いショックを受ける。

 

 「どの人も、何に対してもものすごく一生懸命で、かつ、自分の将来に対して明確な目標を定めていました」

 

 就職ではがむしゃらにがんばり、重工業、自動車、商社と次々に内定をとったが、自社でパイロットを養成していた日本航空に迷いなく決めた。パイロットになりたいという夢に一歩近づいた瞬間だった。

 

―長い道―

 訓練はすぐに始まる訳ではない。同期の60名弱はランダムに5つのグループに分けられ、順次、訓練がスタートする。丸山さんは第五グループだった。最初の一年四カ月は福岡でグランドスタッフを経験した。この時知り合った他社のキャビンアテンドの女性と24歳で結婚。「パイロットになったら留守がちになってしまうので、彼女の芯の強いところに惹かれました」と丸山さん。

 

 やがて訓練スタート。まずは座学で学び、いよいよアメリカの実機訓練が始まるというところで、まさかの日航の破綻となった。

 

 「第一グループと第二グループは実機訓練中で、すでに必要なライセンスの一部を取得していましたが、僕たちは、この先訓練は無いと言われてしまったのです。」

 

 だが、丸山さんは「がんばっていればいいこともある」と、決してくさることはなかったし、妻も「私は何も心配していない。あなたならなんでも出来る」と明るかった。

 

 日航のグループ子会社である運航会社に出向した丸山さんは、まずは、パイロットやCAのスケジュール調整をする部門に配属になった。日々起こるイレギュラーに対応しながらスケジュールを組む。ホテル、パイロットの食事、タクシーの手配など全てをこなす。運航を支えるためには、このような仕事をこなす人々の力もあってこそなのだと知った。

 

 どんな形であれ、大好きな飛行機を飛ばすためのスタッフの一人として働ける毎日に感謝していた。

 

 そして、入社して7年後、再び訓練が再開されることになった。訓練は座学からのやり直し。アリゾナのフェニックスでのプロペラ機、小型ジェットでの訓練を終え、ライセンスを取得したのち、日本でシミュレーターを使った訓練。そしてグアムの実機を使った訓練を終え、晴れてパイロットになったのは入社10年目だった。

 

 今は、機長昇格を目指して、日々、勉強中だ。

 

「離着陸の技術だけではなく、機を任されるリーダーとしての判断力を磨くべく日々精進しています。『ようこそ私の飛行機へ!』とお客様に、自信を持って言えるよう、決して妥協せず、最高のサービスを追求し続けます」

 

 「失敗を恐れないで。すべてがあなたのためになります」これが丸山さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2019年6月 取材・文・記事 田中直美)

 

―編集後記―

 「高校では落ちぶれて、先生方からも若干見放されていました。でも、人生は、どこかで取り返せることもある、ということを後輩に伝えたくて」と、神撫会東京支部に連絡をくださり、取材を受けてくださった丸山さん。

 お話を伺う中で「後輩たちの役に立ちたい」という気落ちがひしひしと伝わりました。

「素直」であることが、おそらく自分自身の長所、とお話くださった丸山さん。何年か先には、乗り合わせた飛行機での「機長挨拶」で丸山さんの声を聞く長田OBも出現しそうですね!

 

 

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Face To Face NO85「1%のひらめきと99%の努力」 

 49回生 春本雄二郎

 白川台中学卒

 日大芸術学部卒

 松竹京都撮影所

 映画監督

 

 

「映画監督」。誰もが知っている職業だけれど、いったいどうやったら成れるのか?実際にはどんなことするのか?ぼやっとしたイメージでしかない。実際に「映画監督」になった春本さんでさえ、監督になってみて初めて知ったこともあったと言う。

 本人曰く「根拠のない自信」に溢れていた青年時代。なんども反発し、反省し認められ、そして自信を失い、また考えることを繰り返してきた。

 初監督長編映画「かぞくへ」は、日本で最も大きな映画祭の一つである東京国際映画祭に公式出品され、フランス・ヴズ―ル国際アジア映画祭では、最優秀アジア映画賞を含む三冠を受賞した。次回作の準備も着々と進む春本雄二郎さんにお話を伺ってきました。

 

 ―サードからセカンドへー

  気に入った映画はビデオテープが擦り切れるほど何度も観る少年だったが、「人の人生に影響を与えられるような映画を作りたい」と考えたのは二十歳の時。自分が本当にやりたいことは何なのかと、初めて真剣に自分自身に向き合った時間だった。当時、唯一、映画を教える大学だった日大芸術学部映画学科に進んだ。

 

 就職したのは、松竹京都撮影所の演出部。「鬼平犯科帳」「必殺仕事人」などを助監督として経験した。助監督にはランクが三つある。チーフ、セカンド、サードだ。まず、サードでは小道具や美術を担当する。セカンドでは衣装やメイク、エキストラの手配&演出。そしてチーフになると現場全体のスケジュールを管理し、全てを「回す」。

 

 当然、サードからの出発。「監督になる!」と心に決めていた春本さんは、ずっと現場以外での勉強を続けていた。監督は認めてくれていたが、先輩助監督たちからは生意気な態度が反感を買っていた。次第にメインの仕事ではない小さな作品を担当されられることが多くなる。そんな中、一人の先輩助監督が「なんとかしてやろう」と、セカンドとしてのチャンスをくれた。

 

 「ずっとサードしかさせてもらえないのは嫌だろう?だが、それはお前の人格の問題だよ。今のままだと、監督になった時にだれも一緒に作ってくれないよ」

 

 当時、追い詰められて気持ちでいた春本さんは、今こそ挽回のチャンスと意気込む。だが、自分でもできると考えていたセカンドの仕事でいざ現場に立つと、何をしたらいいのか分からない。その優秀な先輩助監督が全て一人でこなしていく。居場所がない。あせった。まずは先輩の仕事ぶりを完全にコピーすることから始めた。一ケ月間は針のむしろ。だが、三ケ月で全方位に目を配り、四手五手先を読む術を身に着けた。

 自他ともに厳しい先輩が褒めてくれた時は嬉しかった。「油断するなよ」と一言付け加えることも先輩は忘れなかった。

 

―セカンドからチーフへ。そしてリセット期間ー

 東京のプロデューサーに声をかけられ、幸いにも出向という形で東京で仕事をさせてもらった時期がある。京都では時代劇が中心だったので、現代劇を扱う東京に出ることは願ったりのオファーだった。京都の撮影所のスタイルしか知らなかった春本さんにとっては新鮮な体験だった。東京ではフリーのスタッフが集まるのでまさに一期一会。徒弟制度が色濃く残る京都とは対照的だ。東京では慣れないスタッフ同士でも意思疎通できる柔軟さが必要だった。改めて大切なものはチームワークだと実感した。

 

 やがてチーフになった春本さん。

「とにかく大切なのは精神力、体力。絶対に途中で集中力を切らしてはいけないんです。撮影現場では何が起こるか分かりません。先の先まで読んで、穴のない状態にしたつもりでもイレギュラーが起こるのは当たり前。そんな時に、パニックになってはいけないし、怒りの感情も起こしてはならないのです」

 

 2009年、30歳の時に、春本さんは京都の撮影所を辞めフリーの助監督として東京に出た。あるプロデューサーが呼んだくれたのだ。だが、このフリーの助監督時代は大変だった。とにかく目の前の仕事の処理で精一杯。やがて「自分が今何のためにこの仕事をこなしているのか」が見えなくなってきたと感じた春本さん。自分は「人の人生に影響を与えるような映画を撮りたかったのではないのか?」と自らに問い直す。そして決めたのは全てリセットするために一年間休職するという選択だった。2012年の2月の話だ。

 

 最初の三ヶ月はとにかく何もしなかった。「廃人のような生活」と春本さんは言う。そして次に始めたのは、とにかくありとあらゆる仕事をして社会を覗いてみるということだった。ゴミ収集、ひたすらネット注文の商品を箱詰めする仕事、マンションの造園、ジムのフロント、スーパーの鮮魚売り場、などなどなど。こうした仕事のかたわら春本さんはシナリオを書き始めるが、なかなか満足のいくものは書けない。しかも、アルバイトでは生活費を稼ぐだけで物理的に時間を大量に消費せねばならず、シナリオを考える時間をとるのが非常に厳しい。

 

 助監督として二、三ヶ月、働いてお金をためては二、三ヶ月シナリオを書く生活スタイルで働こうと決め、映画作りの資金を貯めながらシナリオを更に練った。

(実はこの時に練っていたシナリオは次回作品。テーマが深すぎ、資金も足りないと感じ、いったん寝かした)

 

  35歳の時に、とにかく、自分の力を表現する名刺代わりになる映画を一本撮ろうと決意する。そしてそれは、その映画製作を無償で協力してくれるスタッフ、俳優陣にとっても名刺代わりになる作品だ。初監督で初めて知ったのが、編集の終わった作品の音調整に膨大な手間と時間がかかるということ。そして海外の国際映画祭に出品するための字幕制作に、予想以上の時間とお金がかかるということだった。

 

 とにかく作品は出来上がった。4つの国内映画祭に応募した。そして、日本で最も大きな映画祭の一つである東京国際映画祭から、最終選考に残っていると連絡が来たのだ。

 

 「これは、自分としては全くの予想外の快挙でした。そこから最終選考の結果が出るまで一週間、だれにも言わずに結果を待っていましたが、緊張のあまり吐き気に悩まされたほどでした」

 

 その後の結果は最初に書いた通りだ。

 

「僕はメジャーな映画を撮るつもりはありません。商業ベースに乗るためには、有名作家による原作、有名俳優が必須です。でも僕は、『人を丁寧に見つめ、いま描くべき社会的メッセージを内包した映画』を作りたい。そのためにも、資金を全て自分で用意しています。もちろん、資金集めは非常に大変です」

 

 夢を語るにあたっては「熱く」「大胆」。だが、行動は「冷静」かつ「繊細」。春本さんは、自分のことをこう自己分析した。第二作のキャスティングも既に始まっている。

 

「情報が簡単に入る今の時代こそ、見る、触れる、やってみるの経験を大事にしてほしい。そして、他人の物差しではなく、あなた自身の大きなオリジナルの物差しを作ってください」春本さんから、現役長田生へのアドバイスだ。(20196月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 映画監督である春本さんも、こうしてインタビューを続けている私も、根本のところで「人」が好き。「人」に興味がある。という点で深く共通するものを感じました。もっと、お話を伺いたかったですが、時間切れとなり残念でした。

 第一作「かぞくへ」の劇場公開は終了してしまいましたが、今は鑑賞希望者3人以上で、無料でDVDを貸し出しています。

https://haru-gumi.amebaownd.com/pages/2196423/page_201808191645

次回作応援のためのクラウドファンディングも始まっています。一月500円の応援から可能。返礼は映画のチケットやお名前のクレジットなど。コーヒー一杯の値段で、あなたも同じ長田生として春本さんの夢を応援してみませんか?https://haru-gumi.amebaownd.com/ 

私も、次回作をいち早く拝見したいので、上映会参加の特典付きにさっそく申し込みました ^^) 

追記

なんと、この取材の後、第二作目「嘘に灯して」が、日本でもっとも権威のある「フィルメックス」の

新人監督賞ファイナリストの10作品に選ばれたとのニュースが入りました!

https://new-directors.jp/2019/

今、まさに最終審査の真っ最中です!

 

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「Face to Face」(OB御紹介)記事一覧
長田OBの魅力と卒業後の人生の軌跡をお伝えします
メールはこちらから!
NO85 49回生 春本雄二郎
「1%のひらめきと99%の努力」
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NO84  担当回生ご紹介
ー平成の申し子、44回生ー
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NO83 高27回生 岩田直樹
「やってみよ、だめなら直せ」
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NO82 高46回生 高橋万紀
「変化が成長させてくれる」
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NO81 中25回生 河合伸一
「やんちゃと生真面目」
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NO80 高54回生 桑田寛之
「継続は力なり」
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NO79 高28回生 上門一裕
「コミュニケーションが基本」
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NO.78 高31回生 寺門孝之
「宇宙全託」
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No.77 高54回生 鈴木美央
「楽しいは強い」
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No76 高46回生 栗田直樹
「自分をストレッチさせろ」
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No75 高35回生 水谷和郎
「災害医療に導かれて」
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No74,高30回生 谷川直子
「エッセイストから小説家へ」
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No73 高62回生 宮本千尋
「大切なものを大切に」
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NO72 番外編 担当回生43回生ご紹介
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NO71 高28回生 伊藤裕二
「次の世に花開くものを見極める」
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No70 高62回生 上杉絢郁
「誰かの役に立つ喜び」
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NO69  高19回生 竹添昇
「挫折と挑戦」
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N0.68 高54回生 竹内健太
「長田スピリットで志高く生きる」
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No,67 高44回生 村平進
「とらわれない」
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No,66 高62回生 小倉加世子
「道は未知」
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No,65 高26回生 陰山恭行(芸名 陰山泰)
「持てる個性を発揮する」
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No,64 高54回生 太田沙紀子
「一期一会」
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NO.63 高42回生永井伸哉
「全ては自分次第」
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No62 高35回生 荒木篤実
「ビジネスに命をかける」
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NO.61 高15回生 仲誠一
「為せば成る、為さねばならぬ何事も」
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番外編 NO.60  懇親会担当、42回生ご紹介
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No.59 高61回生 中野瞳
「うまくいかないからこそ面白い」
ーーーーーーーーーーーーーー
NO.58 高17回生 中野正好
「美しいものが好き」
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NO.57 高30回生 伊達寛
「保続」
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NO56 38回生 金盛正樹
 「NEXT ONE」
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NO55.34回生佐藤絵里
「叩けよさらば開かれん」
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No.54 29回生水草修治
「生きる道を探して」
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No.53 41回生 藤井浩
「ふまれてもふまれても立ち上がれ」
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 No.52
 31回生 青木稔
「教師として生きるー亡き息子の志を継いでー」
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 No.51 番外編
 41回生奮闘記
 
No,50 高18回生 藤本隆

「我が道を行く」

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N0.49 高43回生 山田洋平

「聞こえないけど、聴き上手になる」

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No.48 高35回生 山田恭嗣

「人とつながり、自然とつながる共感」

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No.47  高19回生 石田幸司

「人生は気楽が一番!」

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No.46 高58回生 富澤美緒

「ものは考えよう。どんなこともなんとかなる!」
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No.45 高61回生 富澤由佳

「努力は素質を上回り、気力は実力を超える」
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No.44 高38回生 近藤稔和

「前へ」
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No.43 番外編「再会を果たす」
高43回生 田中英一郎
高43回生 伊藤利尋
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NO.42 高28回生 岩崎倫夫
「舞踏家として生きる」
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NO.41 高44回生 藤田咲子
「咲子が咲いた 『ブルームス』」

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NO.40 高40回生 小森伸昭
「思考し、変化し、成長し続ける男」
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NO.39 高62回生 谷山実希
「あきらめなければ夢はかなう」
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NO.38 高60回生 谷山雅美
「まず、やってみる!」
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NO.37 高23回生 瀧和男
「妥協しない。信ずるところを貫く」
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NO.36 高36回生 山中勘
「おもしろい会社」つくったる
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NO.35 番外編 40回生担当幹事ご紹介
「なんとかなるやろ!」
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NO.34 高38回生 大志万容子
「日々を営む人の美しさを伝えたい」
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NO.33 高6回生 岩間一昌
  「人生はおもしろい」
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NO.32 高33回生 南山えり
「人生の流れには逆らわない。流されながら自分のできる精一杯のことをする」
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NO.31 番外編 吉地 恵(きちじめぐみ)
「行きあたり、バッチリ!」
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NO.30 高37回生 樋口博保
「一期一会」がおもしろい!
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記事一覧NO1(No.1〜N0.29まではこちらから)

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Face To Face  NO84 総会 担当回生(44回生)ご紹介

ー平成の申し子、44回生ー

平成元年に長田高校に入学。平成最後の年となった2019年の神撫会東京支部総会運営を、まるで運命のように担当することになった44回生。

 

取材の317日現在での中心メンバーは6人。最高裁判所に勤務する松本さんは、昨年より「今度は僕たちが担当回生だ」と責任感をもってリード。奇しくもパナソニックに共に務める松本さん(松本さんが二人!)と中尾さんはデーターに強いということで名簿担当。紅一点の福澤さんは受付、自動的に本谷さんが会計。理論派のワインバーオーナーの松下さんがまとめ役という構成。もちろん、まだまだこれからもメンバー募集中。この記事を見て、「私も手伝いたい!」と思った44回生は、松下さんにまでメールを!

メールはこちらから!

インタビュー当日は松下さんと本谷さんが幹事会に出席されていたので、お二人にお話を伺いました。


向かって左が本谷さん。右が松下さん

撮影場所 リースリング

http://www.winebarriesling.com/access.html

最近は長田生がやたらに出没しています。

皆様もぜひ!

■■■

 

松下さんは、新宿西口でドイツワインのワインバーを経営して10年。きっかけは、長田時代の世界史の黒河先生の授業だったそう。先生の影響でヨーロッパの歴史に興味を抱くようになった松下さんは、最終的に北大の大学院でドイツ史を学び、ドイツが好き過ぎて渡独。7年間、ドイツの飲食店で働きながら暮らした。現在は、新宿西口でドイツワインのバー、「リースリング」のオーナー。自らドイツ料理にも腕をふるう。ドイツの歴史について質問したら話は止まりません!

 

松下さんとは硬式テニス部つながりの本谷さんは、「まじめなナイスガイ」。AGCに勤める技術屋さんで、高校時代はひたすらテニスに打ち込んでいた。「いじられても、大人の心でさらっと流し、場をなごませるキャラ」だとか。

 

二人とも、幹事会には緊張して臨んだそうですが、「先輩たちが元気でびっくり。やりたいようにやらせてくれるし、困った時には、すぐに頼れる前年度の先輩もいて、心丈夫です!」との嬉しい感想。

 

そんな彼らの今年のテーマは「平成の長田高校」。彼らにぴったりのこのテーマを、どう料理して私たちに味わせてくれるのか、乞うご期待です!(2019年4月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

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Face To Face No.83「やってみよ、だめなら直せ」

 高27回生 岩田直樹

 舞子中学卒

 硬式テニス部(途中退部)

 香川大学経済学部卒

 りそな銀行代表取締役社長兼執行役員

 一条工務店代表取締役社長

 

 

 2003年のりそなショックの翌年、2004年にりそな銀行の執行役員に、2008年のリーマンショック翌年、2009年にりそな銀行3代目社長に就任。その時、岩田直樹さんは53歳だった。長田時代は「成績も部活も全て中途半端な生徒でした。将来に悩むこともなく、友人たちとも適当な距離感で付き合い、可もなく不可もない毎日を送れたらそれでいい、そう考えていた思います」と語る。そんな「ごく普通の高校生」だった岩田さんが、どんな道筋で変化していったのか。お話を伺ってきました。

 

―中堅どころー

 第一志望だった神戸大学に不合格。浪人はだめ下宿が必要な私立大学もだめと両親から言われていた岩田さんは、当時の国立二期校だった香川大学に進学。寮生活が始まった。

 「とにかくバンカラで、入学式の日には、寮の門扉の柱の上にバケツを持った先輩が待ち構え、母親が付き添う新入生が来ると、バケツの水をぶっかける。そんな洗礼が待っている寮生活でした」

 

 最年長の6年生が絶大な権力を持つ寮生活で、厳しい上下関係と礼儀、そして先輩が後輩の面倒をみる伝統を身をもって体験し、社会生活での基本を叩きこまれた。

「でも、ここでも、私は寮長になるようなタイプではなく、中堅どころ、という感じでしたね」

 

 協和銀行に就職したのも、ゼミの先輩がリクルーターとして来てくれたから。たまたま3人いた同期のゼミ生のうち、残り二人は卒業できるかどうか微妙な状況で、岩田さんに決まった。決して主体的に就職活動をしたわけではなく、なんとなく流れで始まった銀行員生活だった。

 

―仕事の面白さにめざめるー

「第一の転機は、入社3年目の25歳の時に、法人取引先新規担当に配属されたことでした」。

通常は、既存企業への融資を担当し勉強したあと、30歳を過ぎて巡ってくる部署だった。25歳の若造が就く部署ではない。最初の半年は一件もお客さんがとれなかった。

 

「半年後に、なんとか初めてのお客さんと取引が出来ました。今でも覚えています。CAD(コンピューターによる設計支援)の会社で2000万円を融資しました。伸びる企業を見つけ出し、融資し、黎明期から大きく成長していく姿を見守る。仕事の面白さに目覚めました」

神戸の元町支店をスタートに心斎橋支店、38歳でロンドンに転勤したときも、ずっと法人新規開拓を担当。43歳で帰国して支店長になるまで、ずっと法人担当で「『法人取引の男』と思われていたと思います」、と岩田さん。(注:法人取引の対義としては個人取引がある)

 

帰国後は中目黒、蒲田、大阪の難波と支店長を歴任した。協和銀行と埼玉銀行と合併して、協和銀行があさひ銀行と名前を変えた直後、本部に戻って法人部部長となった岩田さん。その、一か月後に、あさひ銀行は更に大和銀行と合併し、りそなとなる。だが、合併による資金不足対策も及ばず、その二ヶ月半後に「りそなショック」が勃発した。中堅の都市銀行だったりそなの破たんは、社会的影響が大きすぎると、時の政府の判断により、注入された公的資金は合計3兆円に上った。2003年のことである。

 

「合併の後遺症で旧行の主導権争いが顕著だったのが、このりそなショックで吹っ飛びました」

 

―再生への道―

「りそなショックで常務以上は全員退任。りそな再生のためにJR東日本の副社長からりそなの会長に来てくださった故細谷英二氏に出会えたことが、私の人生の第二の大きな転機となりました」

 

細谷さんは、国鉄が民営化した際の裏方のトップ。りそなの会長就任を打診された時には、周囲の人たちが皆、「やめておけ」と口を揃えたにもかかわらず、チャレンジとして決断して来てくれた人だった。

 

細谷さんの最初の一言が「りそなの常識、世間の非常識」だった。

 

これからりそなは改革していかなくてはいけない。だが、ごく一部の意識の高い行員、改革していきたいが具体策の考えられない行員、傍観者的行員、と内部の状況は様々だった。そこへガツンと喝を入れ、改革の軸を作ったのが細谷さんだったのだ。

 

細谷さんが来て半年後、岩田さんは法人部部長から、マーケティング戦略部部長となる。ここは店舗企画、法人企画、個人企画、各種商品企画など、さまざまあった営業の全ての企画を統括する部門で、抱える部門長だけでも20人越えだった。

 

「やってみろ、だめなら直せ」という細谷さんの言葉に、岩田さんは数日後、会長室にアポイントもなしに乗り込み、5分だけ時間を下さいと食い下がって「『やってみろ、だめなら直せ』というのは本気ですか?」と質問した。

 

「いやあ、あの時、細谷さんは顔を真っ赤にして本気で怒ったね。『おれが本気でもないことを言うか!』ってね。そうなんだ。梯子ははずされないんだな。なら、こっちも本気でやってやろうじゃないか!そう発奮しました」

 

半年後、執行役員になった岩田さんは、更に4年後、細谷会長に呼ばれた。りそなの2代目社長が退任するので、3代目の社長になれと言う。

 

「私自身、自分はNO2の男だと自認していました。とりあえず、一度家族にも相談させて欲しいと話し、帰宅して妻に『大変なことになった』と言ったところ、妻の返答は『お父さん、とうとう首ですか?』でしたね(笑)」

 

3兆円の国への借金を返済しなくてはいけない。これは大変な重圧でした」

 

4年の社長の期間を経て、借金返済の目途も立ってきた。4代目社長に後を託し、引退した2年後には3兆円の借金が全て完済された。

 

「私はある意味、とても小心者です。そして、人からどう評価されるかも気になる。良い評価が欲しい。だからこそ、細心の注意を払って物凄く準備します。経営者は自信満々であってはいけないと思っています。充分ではないと思っているからこそ、様々な手を考えるのです」

 

―第二の道―

現在は、大手ハウスメーカー一条工務店の社長を務める岩田さん。社長に、と話をいただいた時、お断りするつもりでいたが「マニラにある工場を見学に来てください」という誘いに乗ってしまった。「実は、工場見学が大好きなんですね(笑)」

 

そこで、まる3日間、オーナーからの熱い想いを聴き、それを体現する大規模工場を見学し、社長を引き受けることを決心した。

 

「銀行では、一度ご融資すれば長期に亘って利息(収益)を頂けます。でも、ハウスメーカーは大げさに言えば、一棟売れてなんぼの短期決戦。その毎月毎月が勝負のような世界が面白くて、チャレンジしようと思いました」

 

「普通の高校生」だった岩田さんは、ずっと進化し続けている。(20193月取材、文 田中直美)

 

 

岩田さんが、銀行時代に夫婦のコミュニケーションとして始めた自転車。すっかりはまって「ヴェント・アッズーロ(青い風)」というチームを作るに至った。最近は忙しくてなかなか乗れていないが、一生の友と思える自転車仲間とも出会い、生涯の趣味にと思っている。二年前には妻と自転車で四国のお遍路八十八ヶ所巡りを結願した。

 

編集後記

 岩田さんは、私の長田時代の硬式テニス部の一年先輩です。当時、ブルーの布製のショルダーバックを斜め掛けしていた姿が何故か記憶に鮮明で、インタビュー時にそのお話を持ち出したら、「ああ、良く覚えていますよ。実はあれは僕が自分で作ったんです。履かなくなったジーパンのリメイクです。こう見えてお裁縫好きだったんですよ(笑)」という衝撃のお答え!岩田先輩のチャーミングな側面を発見したインタビューとなりました。

 

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Face To Face No.81「やんちゃと生真面目」

 河合伸一

 三中25回生 高3回生

 京都大学法学部

 弁護士

 最高裁判所判事

 

 河合さんは、裁判官、弁護士、最高裁判所判事、そして再び弁護士、という人生を歩んできた。それは、河合さんの「真面目で細かいところまで気になる」性格と、「やんちゃ」な性格が表裏一体となりながら、それぞれの仕事に邁進させたと、妻でもあり弁護士でもある徹子さんは言う。今は閑静な住宅街で奥様と二人で暮らす河合先輩にお話を伺ってきました。

 

―歩んできた道ー

 「小学生時代は本当にやんちゃでしたね。先生にも怒られてばかり。それも教室の後ろとかじゃなくて、机の上に立たされちゃう。あれは恥ずかしかったなあ。級友たちはともかく、他の組の連中にも廊下から見えちゃうからね」と愉快そうに笑う河合さん。

 

 三中に入学前後は戦争だった。妹をオンブした河合さんは、機銃掃射で後ろから撃たれながら神戸電鉄のトンネルをめざした。走る河合さんの背中を、弾があたって跳ねる線路の敷石の音が追いかける。神戸の大空襲では、火の中をたった一人で裏山まで走った。どうしょうもない空腹とともに残る戦争の記憶だ。

 

 河合さんたち三中25回生は、最後の三中での入学生。卒業するときは高3回だった。

 

 「家が貧乏だったからね、地元の国立大学である神戸大学に行くつもりだった。京都大学なんて考えたこともなかった。でも、学年主任の先生が『京都大学を受けてみたら』と勧めてくれたんだよ」

 

 進学した京都大学法学部の友人が「司法試験」なるものを受けると言う。お前も一緒に頑張ろうやと誘われ、「司法試験っていったいなんや?」と雑誌で調べた河合さん。じゃあ、俺もやってみるかと、5人グループで勉強を始めたが、仲間は次々と脱落。「みんなに司法試験を受けると宣言していたからね。全員が辞めてしまったらカッコワルイと思って僕だけがんばったんですよ」。そして三回生で司法試験に合格。

 

 だが、その段階でも法律家の道に進むつもりはまだなかった。とにかく安定したサラリーマンの職に就いて稼ぎたい。超就職難の時代だった。

 

 「その頃、京大のゼミの先生で大隅健一郎という先生がいらした。一流の商法学者で、とにかくその先生の推薦がもらえると一流企業に就職できる。お願いに行ったら激怒された。『司法試験に通っているんだろう?推薦をもらってからどこの会社に行くか考えます、なんて言うやつに推薦はやれない!』。恥ずかしかったですね。そして司法修習生になりました」

 

 司法研修所で徹子さんと出会い結婚。裁判官となってすぐにハーバード大学へ留学。氷川丸で一ヶ月近くかけて渡った。一年間の留学生活の後、帰国。司法研修所付判事補となる。

 

 「この頃生まれた次女が、心臓が生まれつき悪くてね。大きな病院で治療を受けさせたかったが、裁判官には地方勤務がある。それで裁判官を辞めて弁護士になりました」

 

 河合さんの扱った案件ではイトマン事件が有名だが、阪神で活躍したランディ・バースとの契約に関わったのも河合さんだ。

 

 「バースの件でアメリカに行った時は、ファーストクラスの席だった。タイガースが用意してくれていたんだが、あの時は驚いたね。なんせ、その前にアメリカに行った時は氷川丸で一ヶ月の航海だからね。アメリカ人向けのシートは大きくて、僕が座ると体が埋もれてしまうぐらいだったよ。当時はキャビンアテンダントではなくスチュワーデスさんだけどね、これが女性なのに、みんな薄っすらと髭が生えていたのにびっくりしたね」

と昔を懐かしむ。

 

 経済通として知られた弁護士として活躍していたが、62歳の時に、最高裁判所判事に任命される。妻と4人の娘に「承けてもいいか」と尋ねたら、すぐに次女と末娘から葉書で返事が来た。

 

 心臓が悪かった次女は裁判官になっていた。来た葉書に書いてあったのはたった二言。「いやだ。困る」。劇作家になっていた末娘の葉書には「たとえお父さんが殺人を犯しても、父であることに変わりはありません。お好きな道を」。妻はあわてて長女と三女に電話して「当たり障りのない返事を書くように」とお願いしたと笑う。

 

―靴ー

「裁判官である時は、とにかく『公平中立』であることが第一。私生活であってもそのことは常に意識していました」

 

 ある日、靴を磨いていた妻が驚いて言ったという。

「裁判官の時は靴のかかともまっすぐにすり減っていたけど、弁護士になってからはかかとが傾いて減っているわ!」

 

「夫の本質は裁判官に合っていると思います。でも、子どもの時はかなりのやんちゃだったようで、それが弁護士時代には役に立ちました。たくさん喧嘩もしてたくさん仲直りした子ども時代。その経験が依頼者の役にたったと思います」

 

 2002年に最高裁判所判事を退官、東京弁護士会の弁護士となる。2004年旭日大綬章を叙勲。2017年に弁護士資格を返上。

 

 引退後の生活はいかがですか?とお尋ねすると、「楽だねえ」とニッコリ。毎日、妻の手料理を楽しむのが最高に幸せとのこと。

 

 「学生時代は、力一杯、好奇心を持ってできることはなんでもやってください。早くから進路を決めすぎないで。君たちはものすごい広い可能性を持っている。無限ですよ」

河合先輩から現役長田生へのアドバイスだ。(2019年1月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 河合さんを推薦くださった中25回生のみなさんは、今も有楽町にある「東京六甲倶楽部」で二ヶ月に一回、集まられるそうです。最初はただ集まっていましたが、仲間の一人が「孫や健康の話に終わるのはやめよう。毎回、何かテーマをもって勉強しよう」と言い出し、言い出しっぺの福留さんが、毎回、資料も用意してミニ勉強会を開催されているとのこと。そして、お仲間の尽力で、河合さんの旭日大綬章も母校に寄贈され、他の運動部や文化部の優勝旗などと共に飾られているとのことです。

 大先輩のインタビューに最初はちょっと緊張しましたが、河合先輩のチャーミングな、そして時々いたずらっこのような笑顔と、今も明晰なそのお話しぶりに楽しくお話を伺うことができました。「妻の方がうんと記憶力がいいからね」と奥様にもご同席いただきました。ありがとうございました

 

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Face To Face No.80「継続は力なり」

 高54回生 桑田寛之

 高倉中学卒

 サッカー部(キャプテン)

 広島大学工学部

 富士通

 


 

 みなさんは「フットゴルフ」というスポーツをご存じだろうか?簡単に言えば、サッカーボールでゴルフするスポーツである。2009年にオランダで始まり世界に広がった。日本では2014年に日本フットゴルフ協会が発足。2015年、初代日本代表選手として選出されたのが桑田寛之さんだ。

 

―サッカー一筋ー

 父の転勤に伴って、小学校6年生で中野から世田谷に引っ越し、更に神戸に越したのは中学3年生を目前に控えた春休みだった。

 

 「未だに関西弁が話せません(笑)。転校当初、関東弁をいじられたけど、反対にそれが親しみを増すきっかけになったりもしました。『通学には白靴がマスト』、とか、『神戸体操』っていったい何?って戸惑うこともありましたが、ずっとサッカーをやっていた僕は、3年生の新学期が始まる前からサッカー部で練習をさせてもらいました。そこで既に仲間が出来ていたので、神戸での学校生活に馴染むのも早かったと思います」

 

 そして長田に進学。高校でもサッカー部に入部した。

 

入部して最初の試合からレギュラーで出場させてもらった。ポジションはフォワード。

「当時、各学年に20名ほどの部員がいました。60名の中から試合に出られるのは11名、補欠も入れて20名ほど。その中で、一年生からメンバーに入れてもらったのは2人で、試合に出られる11名の中に入れてもらったのは僕一人でした。三年生にとっては引退試合です。僕が出ることによって試合に出られなくなる三年生がいる。出してもらった限りはチームに何がなんでも貢献せねば!と強く思っていました」

 

 県予選を勝ち進み、ここで勝てばベスト4というところまで進んだ。だが、そこで敗退。この時の試合で、桑田さんは点を入れることができなかった。

 

 「司令塔を務めていたキャプテンの三年生の先輩が、試合前日の体育の水泳の飛び込みでまさかの肩の脱臼。試合当日、ウオーミングアップで再び脱臼。病院に駆け込み肩を入れてもらって試合には途中出場でした。それまでの試合ではいい感じで勝っていただけに、メンバーが変わったことによって、自分自身のメンタルの弱さが出てしまった!と悔しかった。僕はどちらかというと人に合わせるタイプ。もっと自分からいかなければダメだと思いました」

 

 3年生でキャプテンになったが、監督の林先生からは「前代未聞の優しいキャプテン」と称されたとか。「人を怒ることができない」優しい桑田さんだが、仲間からは「勝負への拘りは人一倍強い」と言われているそうだ。

 

 進学した広島大学でも体育会のサッカー部に入部した。入部してから知ったのだが、広大サッカー部にはサッカーでの推薦入学枠があり、地元サンフレッチエのユースや全国大会出場校から進学してくる選手など、サッカーエリートがたくさんいた。部員は約80名。

 

 その中で、桑田さんは副キャプテンを務める。「今度はチームのつなぎ役だったので、適任だったと思います(笑)」

 

―フットゴルフとの出会いー

 サッカー漬けの子ども時代・青春時代を経て富士通に入社、システムエンジニアとして働きだした。商社のサッカーチームに入れてもらいサッカーを続けていた桑田さんが、初めてフットゴルフを見たのは2015年のテレビ番組でのこと。木梨憲武さんとジーコさんがトライしていた。

 

「観て、すぐにやってみたいと思いました。調べたら宇都宮で大会があるとのこと。出場してみたら60名中4位。そして次の大会では優勝。そして気付いたら2015年には初代日本代表になっていたのです」

 

 自信満々で臨んだオランダでの世界選手権。「入賞したら、インタビューではなんと答えようか」とまで考えていたが結果は惨敗。150人中100位ぐらいだった。

 

「日本ではカップはグリーンではなくラフに切ってありますが、海外ではグリーン上にあります。ものすごくボールが転がり止まりませんでした」

 

 練習を積んで、「今度はいける!」と臨んだアルゼンチンでの大会では、1ホール目で、パー4のホールを16(+12)の大たたきをしてしまった。

「両側をバンカーに挟まれたグリーンで、バンカーとバンカーの間を行ったり来たり。ミスを引きずって自分自身をコントロールできず、予選敗退という非常に悔しい大会となりました。」

 

 二つの世界大会に出場して気付いたのは「決して、サッカーボールを蹴るフォームが綺麗な人が上手いというわけではない。どこまで飛ばすかではなく、どこで止まるかが大事という、ゴルフでは当たり前の理論でした。」

 

 河川敷にボールを7つも8つも並べて、思った場所で止められるようにする練習を黙々と続けた。

「時々、親切にも飛んでるボールを途中で蹴り返してくれる人がいて。止まる場所が見たいんですが(笑)」

 

 そして、2016年のアジア大会では個人・団体戦共に優勝することができた。

 

―仕事とプライベートの両立ー

 現在、「働き方改革」の最前線にいることもあり、テレワーク等を利用しながら家族との時間、練習の時間、遠征の時間をやりくりしている。6歳の一人息子と遊ぶ時間が今、一番幸せな時。お父さんはこんなにアウトドアスポーツ大好きなのに、「息子はなぜかインドア派で(笑)。家の中での戦隊ごっこに付き合ってます」

 

 「フットゴルフは多くのゴルフ場ではゴルフの空いた午後からの空き時間を使って練習させてもらっています。サッカー経験者が多いので、初めてされる方はジャージでやってきてゴルフ場のメンバーさんにひんしゅくを買ってしまうこともあります。もっともっとマナーも整備して、ゴルフ場、ゴルフ場の会員様、そしてフットゴルフを楽しむ人たちがお互いにウインウインの関係になれるようなしくみを考えることも僕の一つの役割だと思っています。」

 

 フットゴルフの技術を磨くと共に、現在は、広報活動にも力を入れている。2024年のパリオリンピックで正式種目に認めてもらうことも当面の目標だ。

 

「勉強以外にも、全力で取り組めるものがあると楽しいですよ。何がきっかけになるか分かりません。いろんなことにチャレンジしてください!」桑田さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2018年12月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

試合でパターを決める桑田さん

 

桑田さんの動画、ハイライトシーンはこちらから

動画

 

編集後記

 桑田さんはとても穏やかに話します。それはいつも全く変わらずで、「反抗期さえなかったかも」とご本人も笑っていました。アルゼンチンやモロッコなど、かなり遠い国で開催されるフットゴルフですが、奥様は「優勝してきてね」といつも明るく送り出してくれる陽気な沖縄出身の女性とか。現在もフットゴルフ日本代表チームのキャプテンとして、メンバーのつなぎ役を自認する桑田さん。ゴルフを始めたばかりの私にも通じる「ゴルフ理論」もとても楽しいインタビューでした。

 

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Face To Face No.78「宇宙全託」

 高31回生 寺門孝之

 垂水東中学卒

 映画研究部

 大阪大学文学部美学科卒

 神戸芸術工科大学教授

 

 

 

大阪大学工学部に入学しながらも、現在は神戸芸術工科大学教授を務め、画家として数々の作品を発表し続ける寺門さん。そのモットーとする言葉は「宇宙全託」。この聞きなれない言葉は寺門さんがかつて仕事上、お付き合いのあった某会社の社長の座右の銘であったとのこと。その言葉が自らの人生の指針となるに至った、不思議なお話を伺いました。

 

―学生時代ー

 イラストレーターの宇野亜喜良の絵が大好きで、一生懸命トレースしていた小学生の寺門さん。いつかは自分の絵で世に出てみたいと思っていた。長田時代は映画の自主制作に没頭した。大森一樹監督や石井岳龍監督が活動し始めていた頃で、寺門さんは8ミリフィルムでの撮影、脚本執筆、編集、チラシ制作など表現活動に没頭した。

 

 大学入試直前になって美術系大学を受験したいと打ち明けたが、担任教員にも両親にも「そんな話は聞いていない、今からでは絶対に無理」と反対され、ならば一年浪人して美大を受けようと心密かに決めていたところ、現役で大阪大学の工学部に合格してしまった。入学はしたがやはりしっくりこず、3年進級時に文学部美学科に転部転科。だが、そこでも美術史を研究するだけで「描く」わけではない。東京に出て絵の実制作を学びたい! そのためにも、一人息子である自分は、まずは大学をきちんと卒業して両親を安心させねば。

 

 「ちょっとした『めくらまし』ですよね(笑)」。卒業が遅れそうだった寺門さんは、信頼を得るため猛勉強してなんとか4年で大学を卒業。両親の許しも得て上京した。

 

―セツ・モードセミナーー

 上京した寺門さんは、数々の美術学校を見学する。生活費は自分で稼がなくてはいけないので夜に授業を受けることにしていた。

 ある夕暮れのことだ。不思議な、とてもセンスのよいファッションに身を包み、絵の道具を抱えた人々がおしゃれな建物に吸い込まれるように入っていくのを見た。そこは日本のファッションイラストレーションの草分けであり、水彩画家としても独特の繊細でファッショナブルな画風で知られる長沢節が主宰するセツ・モードセミナーだった。

 

 引き寄せられるように建物に入った寺門さん。受付には、今までに見たこともないような美青年が座っていた。「資料が欲しいのですが」と言うと「ちょっと待って下さい」と言われた。

 

 「そして彼は、いきなり半ダースほどの鉛筆を取り出して、それをカッターで美しく削りだしたんです。そして削り終わった鉛筆をトントンと揃えて、『で?』と言ったんです。なんなんだ!この特別な雰囲気、美意識は?」こうして寺門さんはセツ・モードセミナーの夜間部に週三回通いながら、昼間はアルバイトする生活に入った。

 

―声ー

 長沢先生は細かいことは一切教えない。生徒たちが描いた絵を見て講評だけをする。初めての講評会で寺門さんの絵を観た先生は「君は写真か、映画をやっていたのか?うん、そんな感じだな。だが、絵の構図は写真とは違う。絵では水平線は傾けてはだめだぞ」と言われた。なんだかまだ分からないがこの先生はすごい!そう直感した。「この先生について行こう。」 だが、その後、寺門さんの絵はなかなか評価されることがなかった。寺門さんは落ち込んでいく。やがてアルバイトも辞めてしまい、昼間は寝て過ごすような自堕落な生活を送り始めた。

 

 アパートの万年床で昼間まで寝ていた寺門さんは、突然、耳元で声を聞いた。電話線を通したような少しカサカサした女声だったが、はっきりとこう言った。「新聞を買いに行け」。

 

 「その声に、反応しちゃったんですね。え??新聞?どこに売ってたっけ??」

 

―コンピューターグラフィックスー

 近くのコロッケ屋さんで新聞も売っていたことを思い出した寺門さんは、新聞を買いに走る。以前は求人広告を見るために新聞を購読していたが、それも止めて久しかった。自然と求人広告に目が行く。「イラストレーター募集。経験不問」の文字が目に入った。

 

 「上京当初、求人広告に掲載されているイラストレーター募集では、電話すると、必ず『経験は?』と聞かれ、『経験はない』と答えるとそれで門前払いでした。なので、すぐに電話しましたね。本当に経験不問なんですか?と尋ねると、絵はやっているんだよね?と聞かれ、その絵を持ってきてください、と言われたのです」

 

 銀座の小さなビルを訪ねた。「株式会社シフカ」は来るデジタルネットワークの時代にいち早く目をつけた若い経営者が設立したてのデジタル画像制作会社だった。

 

 画材はコンピューター。給料ももらえる。そして工学部出身の寺門さんは、ドットで描いていくコンピューターグラフィックスの創成期に馴染むのも早かった。

 

 「大手企業も、来るデジタルコミュニケーションの時代にすでに備えようとしていました。螢轡侫は大日本印刷が一大クライアントで、僕は大日本印刷の研究所のようなところで、次々を開発されてくる日進月歩の技術の最先端で思う存分画像制作をやらせてもらいました」

 

 一年が過ぎた頃だ。ある朝、寺門さんは夢を見て目覚めた。

 

―不思議な夢ー

 「そこに洞窟があるのです。おずおずと入っていく僕。そうすると前方にたくさんの人がいて『ブラボー!』と拍手喝采で僕を迎えてくれる。その先には白い3つの額縁。目覚めた時、なんとも言えない高揚感と幸福感が私を包んでいました」

 

 その日、セツ・モードセミナーに行くと「日本グラフィック展に出品するよね?」と友人に声をかけられた。「日本グラフィック展」は5000人もの人が応募するグラフィックアートの一大登竜門で、歴代、大賞は日比野克彦・谷口広樹はじめ東京藝術大学出身者が独占していた。

 

「なんだか、僕は大賞とれるんじゃないか?そんな気がしました。夢に出て来た白い額縁を散歩コースの画材屋さんで見た気がする。さっそく買いに行くと、売り切れで今はないが注文したら一週間で出来ると店主が言う。すぐに注文して、一週間不眠不休で作品を仕上げました」

 

 大賞発表当日、寺門さんはあんなに自信があったのに、怖くて発表をなかなか見に行けない。時間ぎりぎりになってタクシーを奮発して発表会場のパルコに駆け付けた。そのパルコの駐車場入り口がまるで洞窟のようだ。その奥には大勢の人がつめかけており「遅かったじゃないか!待ってたよ!」と声がかけられた。膝がガクガク震えた。大賞受賞だった。

 

 「セツ・モードセミナーが藝大旋風にストップをかけた」と新聞に紹介された。

 

第6回日本グラフィック展大賞受賞作品「潮先」1985年 水彩紙にアクリル絵の具

 

 

 

―宇宙全託ー

 大賞を受賞した寺門さんはその1年後螢轡侫を退職し、以降、フリーランスで活動している。

 

30歳で結婚した寺門さんが、生活資金に窮して銀行に記帳に行ったら、なぜか数十万円のお金が振り込まれている。何年か前の仕事で未払いになっていた賃金が振り込まれていたのだった。

 

「これはきっと、まだ絵の仕事続けていいっていう、宇宙からのお知らせよ」と妻が言った。それ以来、「宇宙全託」という言葉が寺門さんの心の中に響いている。

 

―天使ー

 2014年から、寺門さんは新しい手法で描く天使の絵のシリーズを発表し続けている。リトアニアリネンという麻布をキャンバスにし、まず表から絵を描く。次に裏返して染みた絵具の上に描く。また表に返し、そして裏に返し、その作業を納得のいくまで続け、最後に気に入った側に一筆入れて仕上げる。どうやって描いたのは分からないような、そんな絵を描き続けたい。

 

 

「FONTANA」2018年 リトアニアリネンにアクリル絵の具その他

 

「高校生の前の中学生。その前の小学生。その頃に、理由も分からずに好きになったものや人と、その後の人生で必然のように出会いました。今この時、好きなことをずっと忘れないでいると、いいことがあるかもしれませんよ!」

 これが不思議な体験の中から自分の道を見つけ出した寺門さんから現役長田生へのアドバイスだ。(201810月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

編集後記

 展覧会会場にてインタビューをさせていただきました。寺門さんの天使の絵に囲まれながら、穏やかな声で話す寺門さんのストーリーを聞いていると、不思議とその場面場面が映画のように私の頭の中で映像化されます。寺門さんを推薦してくれた同期のH君の話によると、寺門さんのオーラは長田時代から「半端なかった」とのこと。インタビューが終わるまで、辛抱強く寺門さんをお待ちになっていたファンの方もおられ、その人気の一端を見た思いでした。絵の方はちょっと手がでなかったので、テラカドオリジナル、素敵なピンバッチのセットを私も購入しました。プロフィール写真の襟元にご注目です!

 

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Face To Face No.77「楽しいは強い」

 高54回生 鈴木美央

 伊川谷中学卒

 バスケ部マネージャー 

 早稲田大学理工学部建築学科卒 

 英国 Foreigin office Architects

  慶応大学大学院理工学研究科博士後期課程 博士(工学)

  

 

 

経験は種ー

 美央さんは、整形外科関連の疾患により小学生の頃から通院を行い、中学で1回、高校で2回手術を受け、その度に三ヶ月の入院を余儀なくされた。子どもの頃は、白くて古くて研究室のような病院が怖くて足がすくんだ。だが、高校生になると疑問を感じるようになった。「本来、人を癒すためにある病院なのに、辛い人をよけい辛くさせるような建物でいいの?」

 

 小学5年生で経験した阪神淡路大震災も、美央さんに大きな影響を与えた。住居のあった西区は比較的被害の小さな地域ではあったが、それでも新幹線の橋げたが落ちているのを目撃し、家が潰れて亡くなった人のいることを見聞きした。「本来、人を守るはずの建築物が人を傷つけていいの?」

 

 この二つの経験を「負の遺産」にしたくない。この経験を生かしていきたい。人の生活に建築は大きく関わっている。私は「建築」を使い、たくさんの人が笑顔になる空間を作っていきたい。

 

 こうして、美央さんは大学の建築学科に進学した。大学在学中に、完成したばかりの「横浜の大さん橋」を観に行った美央さんは衝撃を受ける。全てが穏やかな曲線で表現された大さん橋は、見事に横浜のランドマークと調和し、人々は幸せそうに散歩していた。

「大さん橋」を設計したのがイギリスの設計会社だということを知った美央さんは、そこでインターンシップとして働かせてもらおうとイギリスに渡る。

 

―チャレンジー

 「建築業界では、学生がアルバイト的に設計事務所で働くことは『オープンデスク』と呼ばれてごく普通のことでした。だから私もアルバイトでもいいから憧れの建築家の元で働くことができればと思っていたのです」

 

 ところが美央さんの人生はここで大きく変わる。応募してみるようにと勧められた高層ビルのコンペで勝ってしまったのだ。コンペ時のプロジェクトの主要メンバーはたったの三人。30代半ばのオーストリア人とスペイン人、そしてまだ23歳の美央さんの三人のチームだった。

 

 その事務所には、その事務所で働きたい人たちが世界中から集まっていた。そして、その集まった若い人たちに全面的に仕事を任せるのが、その事務所のやり方だった。

 

 その後、美央さんは大きな仕事を次々に任される。マレーシアで建築された50階建てツインタワーの建築意匠をたった一人ですべてやっていた時期もある。外壁のデザイン、ランドスケープのデザイン、内装のデザイン、全てである。発注主は、まさかの若い小娘がやってきて驚いていたが次第に信頼を勝ち得る。

 

 「若い時に、責任を持たされてチャレンジングな仕事をする。大変だけどめちゃくちゃ楽しい。ものすごく仕事しましたが全く苦ではありませんでした」

 

レイバンズボーン ユニバーシティ ロンドンの外壁意匠

美央さんのプロジェクトチームで担当した。 

 

 だが、5年ほどがむしゃらに働いた美央さんに、また新しい疑問が浮かんできた。

「建築技術の伴わない途上国で高層ビルを建てることは、危険な作業を伴っていました。2008年にはエコノミッククライシスが起こり、多くのプロジェクトが途中で放棄されました。大きな建築物を建てることで、新しい可能性を掘り起こす可能性はもちろんある。でも、それはどの時代にでもどの都市にでもあてはまることではない。そう感じ始めたのです」

 

 顧客の要望に応えるのではなく、もう一度もっとアカデミックな場所に身をおいてみたい。永住権まで得ていたイギリスを離れた理由は、実はもう一つあった。当時、付き合っていた現在の夫が、駐在が終わり帰国することになったのだ。帰国して結婚。慶應での勤務を始め、仕事として研究を行う中で研究の楽しさに目覚めた。そんな時、当時の勤務先の先生に勧められ「働いた経験で修士課程を修了したとみなす」コースがあることを教えられ、慶応で博士コースに進学した。

 

―マーケットー

 博士コースで美央さんが選んだテーマは公共空間の研究だった。ロンドンの街で馴染みの風景だった「マーケット」。「マーケット」には二つの定義がある。一つは可変性。規模も形態もフレシキブルで、その時々の街の人口、必要な物、また目的によってその姿は容易に適応することができる。そしてもう一つが継続性。普通の道が一週間に一度マーケットになる。あるいは月に一度、場合によっては年に数度。しかしそこに「継続性」があることが必須条件である。

 

 「大きな建築物は作ってしまったら変化できない。でも、マーケットは至極簡単に姿を変えながら存在することができます。欧州ではマーケットは生活の中に根ざし、生まれた時からそこにあり、マーケットなしの生活は考えられないという文化があります。かつては日本にも露店の文化があった。でも、戦後、道路が警察の管理下に置かれるようになり日本独自の露天の文化は消滅してしまいました。私が建築を目指した原点は『建築で人幸せにする』です。マーケットは日本ではおしゃれなイベントとして認識されていますが、実は世界では都市のインフラとして機能しています。このマーケットというツールを日本でも使いこなしていき、いずれはそのツールを、開発著しい中国の街にも輸出していく。そんな夢を抱いています」

 

 今年6月に「マーケットでまちを変えるー人が集まる公共空間のつくり方―」が学芸出版社から出版された。重版も決まり、共同通信社により書評が配信され各地方紙に掲載されている。

 

「好きなことを楽しく頑張ってください。誰かが手助けしてくれ道は開けます」美央さんから現役長田生へのアドバイスだ。(20189月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 実は美央さんが大学院博士コースに進学したとき、長女は生後6ヶ月。論文研究のために10日間の研究旅行で渡英したときは生後10カ月だった。「夫は、私のことを褒めたり鼓舞したりはしませんが、私がやりたいことを自由にやらせてくれ、そしてとても淡々とサポートして私が留守中の子育てもこなしてくれます。本当に感謝しています」。右手に5歳の長女、左手に3歳の次女を抱いて眠るとき、最高に幸せを感じると言う美央さん。どうぞ、だれにも優しい公共空間をプロヂュースして、私たちに幸せな時間をプレゼントしてくださいね!

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Face To Face No.76「自分をストレッチさせろ」

 高46回生 栗田直樹

 高倉中学卒

 サッカー部

 神戸大学経済学部卒

 三井物産株式会社

 ペンシルバニア大学ウオートン経営大学院卒
 

 サッカー少年だった栗田さんは、商社に就職後、一念発起して海外MBAを取得する。その2年間の経験が栗田さんをどう変えたのか?お話を伺いました。

―学生時代ー 

幼い頃からサッカー大好き少年。小学校のサッカーククラブのCoキャプテンだったが、親の転勤のため小学三年で中断。転校先ではサッカークラブがなかったこともあり、野球、バスケットボールなど他スポーツを楽しんだ。

 

サッカーを再開できたのは長田入学時だった。ずっとサッカーを続けていた仲間たちとは、技術の差はきっとあったと思う。「それでも、持ち前の負けず嫌いな性格とがんばりでレギュラーの座をいとめました」。高校2年生の時、膝を痛めて半月板の内視鏡手術をしてからは思うように練習が出来ない時期もあったが、好きなサッカーと、仲間と過ごす時間を存分に楽しむことができたのは、監督と仲間のお陰だと思っている。

 

長田時代のサッカー仲間と。後列左から2番目が栗田さん

 

校風として文武両道をモットーにしていたこともあり、サッカー部の活動に没頭しつつも、休み時間やバス・電車の中の隙間時間で予習・復習するなどし、効率的に勉強することは意識していた。

 

怪我をして時間が出来てからの方が勉強の効率が落ちてしまったように思うが、今振り返ると、「複数の忙しいことが重なっている方が効率的に動ける性格なのかも知れません」と笑う。

 

現役で地元の国立大学に進学したあとは、学習塾の先生のバイトやサークル活動に精を出しつつ、貯めたお金で米国、欧州、アジアなどの海外旅行なども楽しんだ。

 

―ハードルを越えるー

  就職は商社を選んだ。海外への憧れもあり入った商社だったが、実際に従事した仕事では英語を使う機会はさほど多くはなく、入社7年目に米国研修員として米国で1年間生活した際に、はじめて本格的に英語を使うようになったというのが正直なところだ。

 

 社内留学制度でMBAを取得したいと考えるようになったのは何時ごろからだろう。「常に自分の一生のスケールで何をすべきか、何をしたいのかを考えよ」という先輩の言葉にも刺激を受けた。米国での研修時代に、1000人以上の社員をマネジメントするまだ30代の社長の姿を間近に見て、将来自分は、彼のようにたくさんの人の人生の一端と生活を担う責任を果たせるのだろうか、と痛感したこともある。30歳になった自分の理想と現実のギャップを埋めたい。その方法の一つが海外MBAだと栗田さんは心に決めた。

 

 海外MBAを取得するには、最初に超えなければならないハードルが二つある。一つは社内で選抜されること。もう一つは志望する大学の試験に合格することだ。大学合格のためには、一般的には1300時間の程度の準備が必要とされていた。

 

「『約一年間は週末も含めて僕はいないものと思ってくれ』と妻に伝え、平日出勤前、通勤時間、帰宅後、週末に勉強しました」

 

 一年後の受験で倍率およそ10倍の希望大学の入学試験には見事合格。だが、なんと社内選抜が最終面接で落とされてしまった。「正直、この一年をもう一度繰り返すのは無理と思いました」

 

 だが、MBA取得の先輩から、入学の権利を翌年まで留保する方法があることを教えてもらい、交渉の末、なんとか大学には一年待ってもらえることに。社内選抜も、過去には2回目のチャレンジで合格していた人もいることを知り、もう一度チャレンジすることに。そして翌年、晴れて2年間の留学に出発した。

 

―貢献するー

 80ヵ国以上、一学年850名のクラスメイトと学ぶ2年間は、想像以上の変化を栗田さんにもたらした。会社を離れ、日本を離れ、一個人として未知の世界でもがいた。

 

 勉強はもちろん睡眠時間を削って頑張った。マーケティングや財務の経営理論はもちろんのこと、リーダーシップ・チームワークや交渉・コミュニケーション能力向上のための授業も用意されていた。その中でもユニークなものが三日間氷山の中で行う、「危機的状況の中でリーダーシップを発揮する」ためのプログラムだ。

 

事前に三ヶ月に渡る身体的トレーニングを行った上でプログラムに参加。期間中は参加者が交代でチームのリーダーを担う。「他のメンバーの状況を正確に把握し的確に指示をだす」「密なコミュニケーションで互いの信頼関係を築く」「メンバーを励まし鼓舞する」。これらのことを身体的・精神的窮地の中で確実に実践できるよう学んだ。

 

大学一年生の時に阪神淡路大震災に罹災し、家が半壊した栗田さんにとって、その時に受けた大きな支援は忘れられないものだった。だからこそ、留学中に起きた東日本大震災では、今の自分が、米国で出来ることは何かと必死で考えた。留学生仲間とチャリティイベントを行い、40000ドルを集めた。「米国企業のマッチング制度を利用すれば、集めた金額と同額の寄付を企業から集めることができる」と教えてくれたのはMBA仲間だ。自らの勤務先の制度を活用して協力してくれた。街の教会に、コインで一杯になった貯金箱を届けてくれた小さな男の子のことも忘れられない。

 

この二年間で得た一番の財産は、世界中から集まった多様な価値観を持つ友人と過ごした時間だ。優秀でありながら謙虚。失敗しても挑戦し続ける姿。「Get out of Comfort zone(今に安住するな)」「How can you contribute(貢献できるか)」。互いに常に鼓舞しあった言葉がしみこんでいる。

 

 ウオートン校で一緒に学んだ仲間たち

 

―朝活ー

 2011年に帰国した栗田さんは、「一人で出来ることは限られている。互いに刺激しあって化学反応を起こす場を日本でも作りたい」と考え始める。

 

そんな中、海外MBAを経験して「海外ビジネススクールのように、様々な人々が出会い、刺激的・継続的に学べる場を作りたい」と活動を始めていた仲間と意気投合。現在、共同幹事として「MBA朝活」を主催している。月一回の開催は継続的に続けられ、すでに45回を迎えた。出勤前の早朝715分から八時半まで、虎ノ門カフェで開催している。

 

栗田さんたち共同幹事の意気に感じ、そうそうたる経営者たちが講師を無償で務める。ビジネスの側面だけではなく、講師それぞれの生きざまや価値観まで語られるのが魅力だ。

 

「自分の可能性を自分で狭めてしまってはいけない。強い想いがあれば、賛同、アドバイス、もしくは支援してくる人が必ず現れ、強いエネルギーを貰って実現への道が広がります」栗田さんから現役長田生へのアドバイスだ。(取材・文・写真 高28回生 田中直美)

 

編集後記

 「MBA朝活」に私も参加してきました。私は朝5時起きでしたが、参加者の女性の一人は4時半に起きて子どものお弁当を作ってから来られたとか。「新しい刺激を受けて勉強したくて」とのこと。参加者は20人ほど。活発な質問が飛び、講師も的確な答えを即答。投資会社経営者による金融界のお話でしたが、門外漢の私にも充分に理解でき、有意義な朝でした。みなさん、講義のあとは一目散に仕事場へ。若いエネルギーに元気になりました。商社マンとしての本業も充分すぎるほどにいそがしいであろう栗田さんが、毎月一回のこの会を開催し続けるエネルギーはその「想い」にあるのだろうと痛感した時間でした。

 

「MBA朝活」の様子

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