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Face To Face No.73「大切なものを大切に」

 高62回生 宮本千尋

 伊川谷中学卒

 水泳部

 広島大学理学部地球惑星システム学科

 東京大学大学院理学系研究科地球惑星システム学科

 

 

―理科好き少女―

 子ども時代、ゴールデンウイークや夏休みの度に、両親は宮本さんと弟二人をキャンプに連れていってくれた。「これは食べられる。これは食べられない」。母は植物を手にしながら教えてくれた。星好きの父は、近くの天文台が主催する定例会に宮本さんを頻繁に連れ出し、一緒に望遠鏡を覗いた。

 

 こうして理科好き少女に成長した宮本さんは、中学時代に、大学で地学を専攻した理科の先生に出会った。話を聞いていくうちにフィールドに出て自然の中で学ぶ学問に魅力を感じた。恩師が大学で学んできたのと同じようにフィールドで学べる学問をやってみたい。広島大学理学部地球惑星システム学科に進学することを選んだ。

 

 「生まれて初めて家族の下を離れ、部屋に帰っても誰もいない、食事の用意もない、話す人もいないという環境の中で、夕食もお弁当もいつも用意してくれていた母に改めて感謝しました。初めて一人で作って一人で食べたカレーのまずかったことは忘れられません」

 

 ひどい反抗期もあったし兄弟げんかもよくしていたが、それさえ懐かしく、毎晩部屋で一人泣いていた。高校時代までどちらかというと人とかかわるのが苦手だった性格が「積極的に人とのつながりを自らもつ」性格に変わっていったのはこの頃だ。

 

―出会いの縁を広げてー

 広大時代は、とにかく目一杯やりたいことをやった。勉強、部活のラクロス、アルバイト。ラクロスでは山口、岡山、四国など幅広い地域の他大学の学生ともつながりができた。せっかくできたその新しい縁が途切れないよう、積極的に関わりを持ち続けるようになっていた

 

 たまたま雑誌で読んだ嵐の二宮くんのインタビューがとても心に残っているそうだ。

「人も物も仕事も全て『縁』。出会えたのも縁。別れたのはきっと縁がなかったから。でも、一度別れてしまっても縁があればきっとまた会える」

 

 学部四年生の時に、指導を受けていた広大の教授が東大の教授に異動になった。宮本さんは先生を追いかけて東大へ行くことを決心する。研究対象はPM2.5と黄砂などエアロゾルと呼ばれる大気中の微粒子だ。地球環境や人体に様々な影響を与えるエアロゾルが、アジア圏さらには地球全体にどのような影響があるかを解明することを目指し、研究している。

 

 「東大の大学院に進学して上京したことは、私の人生での第二の転機となりました。上京してからのこの三年間は、これまでと比較にならないほどのスパンで新たなものや人に出会っているように感じます」

 

 そうした新しく出会ったものの一つが「柏の葉サイエンスエデュケーションラボKSEL)」だ。

 

―科学で地域活性化!ー

 「柏の葉サイエンスエデュケーションラボ」は、2010年に東大の柏キャンパス院生が、

「科学を通して地元の人と交流し地域を活性化したい」と始めた活動だ。現在では、イベントに参加してくれた人たちの中から会の運営に携わってくれる人も現れ、学生と合わせて20人ほどで活動している。昨年から宮本さんはその学生メンバーの代表になった。

 

 「私は広大時代にも、所属専攻が主催していた『サイエンスカフェ』のスタッフを経験していました。同じような活動がないかと、上京後にパソコンで検索してたまたま見つけたのが『柏の葉サイエンスエデュケーションラボ』でした。東京での、こういった活動を行う団体やイベントの多さには驚きました」

 

 KSELの活動の一つが、「理科の修学旅行 」だ。小3〜小6ぐらいの子どもたちを、20人から多い時には40人ほど、10名ほどのスタッフで、一泊ないしは二泊で山や海に連れていく。

 

 「子どもたちの好奇心に合わせてスタッフは走り回ります。基本的には自由研究で、子どもたちは自分で課題を設定して自分で研究します。中には帰宅後も家で研究を継続する子どももいます」

 

 「今年の夏も修学旅行するよ!」と宣言したら、子どもたちの眼がいっせいにキラキラしてとても嬉しかった、と宮本さん。

夏の修学旅行、集合写真

 

 

KSELでは、更に手作りの科学館「Exedra(エクセドラ)」を開館した。エクセドラとは、古代ローマ時代、貴族の舘の中庭にあった皆で座れる円形の椅子のこと。「科学に気楽に触れて語れる場所をつくりたい」というスタッフの想いから名付けた。宮本さんは副館長を務める。

 

 大家さんのご厚意で6室のアパートを無料で提供いただき、それをメンバーたちがDIYで改装。クラウドファンディングで目標額だった約60万円を寄付で集め、トイレ、水道を使えるようにした。水道工事は技術を持つ社会人スタッフが協力してくれた。科学館は今も改修工事続行中。宮本さんは、ほぼ毎週末、柏に出かけている。ありがたいことにメディアの取材も増え、つい最近では韓国のテレビ番組でも紹介された。

 

 10年後は地元神戸でも科学のコミュニケーション団体を作りたい。科学への好奇心を大人にも子どもにも広め、そのことで地域活性化の一翼を担いたいと思い描いている。

 

Exedra 館内の様子

 

 「長田時代は、とにかく朝から晩まで部活の水泳に打ち込む毎日でした。あの3年間以上に必死になってがんばったことは未だないような気がします。ちょっとくじけそうになった時や怠け心が出た時、当時を思い出すと『まだまだ頑張れる』と思います。高校時代は、自分の好きなこと、大切だと思えることに一生懸命に取り組んでください。その一生懸命さや自分の興味関心が、今はまだはっきりみえない未来を形づくって行くと思います。そして、その中で出会えた人を大切にしてください。人は何よりの財産だと、私は思います」

 

宮本さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2018年5月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 宮本さんたちが利用したクラウドファンディングは、偶然にも「Face to Face」No45

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=119 で紹介した富澤由佳さんが勤めるREADYFORでした。「Face to Face」の記事を読んで、先輩が務める会社だったと知ったそうです。

 また、No.70でご紹介した上杉さんhttp://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=174 とは同じ62回生の水泳部ですが、卒業以来、なかなか会う機会がなかったそうです。今回、この取材がきっかけで「久しぶりに連絡を取りランチしたいねと盛り上がりました 」と嬉しそうに話してくれた宮本さん。「縁」がどんどんつながり、若い世代のOBが新しい何かを造り出してくれそうで嬉しいインタビューとなりました。

 

 

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Face To Face No.72 番外編 43回生ご紹介

 

インタビューに答えてくださった43回生の皆さん。前列右から時計回りに、原さん、高橋さん、山田さん、高野さん、坂本さん、海山さん

 

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 6月9日に渋谷東武ホテルで開催される総会の今年のテーマが決まりました。

 

 「A mi manera

 アミマネーラ、人生を謡おう!」

(注 A mi manera スペイン語で私の人生)

 

 ゲストはスペインの笛吹き男、41回生の藤井浩さんと、東京オリンピック代表を目指す61回生の中野瞳さん。

 

〜人生は難しいことだらけ。でも、そのことを楽天的に楽しんでしまおう!〜

そんなコンセプトを決め、準備に邁進中の43回生の皆さんにお話を伺いました。

 

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 運命に導かれるように総会幹事となった面々!?その糸口は様々でした。普段は滅多に出ない家の電話を珍しく取ったら、先輩からだった人。フェイスブックをスクロールしていて、たまたま指が触って先輩に「友だち申請」してしまった人(笑)。所属事務所のHPから見つけ出されてしまった人!

 

 「正直なところ、最初はなんかちょっと面倒だなあと顔を出しましたが、メンバーが集まってみたら長田パワーが爆発。誰もが、何も言わないでも貢献しようとしてくれ、困った時にはだれかが助け舟を出してくれる。ただの飲み会では、ここまで深くぶつかり合うことはなかったと思います。高校生に戻った気分で、途中からは猛烈に楽しくなってきました」と口を揃える。

 

 写真のメンバーをご紹介。(前列右から右回り)

原さん:幹事長。学生時代のマドンナ。気配り名人で支えたい気分にさせられちゃう!

高橋さん:書記と裏リーダー?優しくて仕事が早くて完璧。

山田:企画。人脈がすごい。43回生だけではなく広く人と人を繋げてくれる。

高野:会計。優しすぎて、仕事を引き受けすぎる人!右腕も左腕も仕事が一杯(笑)

坂本:副幹事長。どっしり構えた縁の下の力持ち。みんなを見守りイザという時には出動。

海山:総合司会&シナリオ制作。要所要所でぐっとひきしめ、雰囲気を作ってくれる。

 

「今までの総会では、どうしても若い人たちの参加が少なめでした。でも、若い人たちにも神撫会東京支部への愛を育んでほしい。全ての年代の会員の皆さんが楽しめ、『長田の卒業生で良かった』と思っていただける、そんな総会を目指しています」

 

インタビューの後、更にメンバーが加わって、代々木公園でお花見を楽しんだ43回生の皆さんでした。

(2018年4月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

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Face To Face No.71「次の世に花開くものを見極める」

 高28回生 伊藤裕二

 垂水中学卒

 一年生までバドミントン部

 慶応大学法学部中退

 フォーラムエイト代表取締役社長

  

 

 

 フォーラムエイトは、構造物設計など、主に土木・建築設計を支援するソフトウエア販売会社だが、現在はバーチャルリアリティーなど、独創的な汎用ソフトの開発にも力を入れている。伊藤さんは2003年に第二代社長として就任。この14年間で売り上げを10億から33億に伸ばした。そこへ至る道のりと未来への展望をお聞きしました。

 

―助走期間ー

 端的に表現すれば「本好きのワル」な少年時代だった。小一と中一の時の担任の先生は、そんな伊藤さんを叱るだけではなく認め伸ばしてくれた。今もそのことに感謝し、いつかお会いしてご恩返しをしたいと思っている。

 

 家業は「船のエンジニア」。船のエンジニアとはいっても、船のエンジン等本体のメンテナンスではない。船は接岸するとクレーンで荷下ろしが始まるが、荷下ろしの荷役は100人ほどもおり、万が一、クレーンに不具合が起きて作業が停滞すると大損害が発生する。そのため、エンジニアは船のそばで作業を全て見守り、電気系・機械系のトラブルに対応する。

Watch」と呼ばれる仕事だ。日本全国の港へ、父は請われれば何処へでも赴いた。

 

 伊藤さんは、中学生の頃から父の助手として時に家業を手伝い、高校生の頃には、ちょっとした稼ぎになるほどになっていた。

 

 慶応大学法学部に進学した伊藤さんは、東京でアルバイトで生活費を稼ぎながら本漬けの生活を送るようになる。一冊50円ほどで買える古本を山のように買いこんでは、引きこもりのように本を読み続けた。だが、3年生の初めに大学を中退し、神戸に帰ってしまった。

 

 「東京で安い賃金でアルバイトして自分の生活を立てるのに疲れてしまったんですね。親父の仕事を手伝えば、月の半分も働けば自分の食い扶持ぐらいはなんとかなる。そう考えてしまいました」

 

 だが、そうは言ってもそれでは将来の展望はないと、サラリーマンとして働こうと思い直したのが22歳だった。

 

 「これからはコンピューターの時代だ。今、まさに旬の学問で、今から努力して勉強しても十分に追いつける」。そう考えて最初に就職した会社は2年で倒産してしまったが、次に入社したのが今のフォーラムエイトの前身となる会社だった。入社してすぐに第二種情報処理試験に一発合格。コンピュータープログラミングの分野に興味を持ち、更にプログラミングをやってみようと決意する。

 

―二度のターニングポイントー

 そんな伊藤さんが「人生の第一のターニングポイント」と言うのが結婚だ。社内恋愛・社内結婚・そしてすぐに長男の誕生と、今までの生活が一変した。守らなければならない家族が出来たことで、仕事へのモチベーションが否応なく上がったと言う。当時は給料も安く貯金もない。顧客から希望のあったソフトウエアを受託・プログラミングし、一件100万円位を2件こなして、それで結婚式と新婚旅行の費用を捻出した。

 

 「本当は、当時も副業は原則禁止だったんですが」。やっぱり当時も少しワルだったようだ(笑)

 

 第二のターニングポイントは、大阪支社の立ち上げ・経営を任されたことだった。大阪支社立ち上げは他の人に決まりかけていたが、たまたま社長がその話を持って来たときに担当者が留守だった。東京出身者は、実は大阪に行きたくない。自分は神戸出身で大阪に戻りたい。さっと手を上げ決まった。

 

 「私は当時、独立も少し頭にありました。しかし、売れそうなアイデアはあるが資金がない。大阪で事業立ち上げ、社内で『起業家』のように活動できたことが私の人生の第二のターニングポイントとなりました」。大学中退で会計の知識が全くなかった伊藤さんは、放送大学で「会計学概論」を学んだ。

 

 大阪に営業拠点を立ち上げ、更に福岡、札幌と国内展開していくなかで、いつしか大阪支社の売り上げは東京本社を超すほどに成長する。創業社長の引退にともない、代表取締役社長に就任したのは46歳の時だった。大阪時代の部下を7人連れて東京に戻る。以降、業績を三倍に伸ばしたのは冒頭で述べた通りだ。伊藤さんが入社時は16人だった社員も現在ではグループ全体で240名になる。

 

―これからー

 昨年、還暦を迎えた伊藤さんだが、まだまだ10年はしっかり活躍したいと思っている。

フォーラムエイトの強みは全てのソフトウエアが自社で開発されていること。「ブラック」なイメージの強いIT業界だが、フォーラムエイトは「ホワイト500」というホワイト企業の認定も受けた。健康スポーツ有給休暇や禁煙手当などの施策もスタートしている。

 

伊藤さんは一般社団法人コンピューターソフトウエア協会のスタートアップ運営委員会の委員も務める。

 

 「私は、結局、独立起業することはありませんでしたが、若い人たちの起業は応援したい。世界を変える革新的なソフトウエアを生み出すベンチャー企業を育成し、成功に導く支援事業です。資金面での援助と先輩としてメンターの役割を果たします。諸行無常盛者必衰。委員を務めるIT企業の社長の面々も、皆、大きな成功と失敗を経験しています」

 

 「私は高校時代に、友人と深く人生を語ったり考えたりすることはせず、楽しく遊んで時間を過ごしました。今振り返ると、それはちょっともったいなかったな、遠回りしてしまったなと思っています。現役生の皆さんには、ぜひ高校時代に深く思索してほしい。そう思いますね」

 

新婚当時は、10円の豆腐や、一パック10円の卵を見つけてきては、乏しい家計をやりくりしてくれた妻。息子二人も独立した今は、二人で旅行したり観劇したり、レストランでおいしいお酒と食事を楽しむ時間が至福の時だそうだ。

 

 

フォーラムエイトに展示されている電車運転のシュミレーター

フォーラムエイトHP http://www.forum8.co.jp/

 

20183月 取材・写真・記事 田中直美)

 

編集後記

フォーラムエイトにあるバーチャルリアリティーのジェットコースターを体験させていただきました。前後左右に動く椅子に座りヘッドギアのようなグラスを装着してスタート。ジェットコースターが苦手で、もう一生ジェットコースターに乗ることはないと思っていた私ですが、バーチャルなのでチャレンジ!バーチャルと分かっていても怖かった〜。途中で「もう降ります〜」と叫びました(笑)

 

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Face To Face No.70「誰かの役に立つ喜び」

 高62回生 上杉絢郁(あやか)

 舞子中学

 水泳部マネージャー

 慶応義塾大学総合政策学部

 

 

 

―走るマネさんー 

 とにかく、水泳部のマネージャーとして全力を尽くした長田時代だった。

 

 放課後の練習は、選手たちの練習メニューをマネージャーがホワイトボードに書くことから始まる。

 

 メニューを決めるのは、顧問をされていた谷川先生と明部先生。上杉さんは、お昼休みになると職員室に飛んで行き、とにかく先生がメニューを作ってくれるまで粘った。「メニューを作らないと、上杉は帰ってくれないからなあ」と苦笑しながら先生は作って下さる。このために上杉さんは毎日お弁当を午前中に早弁し、選手が放課後の練習をすぐに始められるよう備えた。

 

 マネージャーの最も大切な仕事は選手たちのタイムの測定だ。25mプールのスタート地点でじっと立ったまま測定しても、おおまかなタイムは測定できる。だが、それではターンのタイミングは水しぶきで判断するしかなく、壁にタッチした瞬間で計測される実際の競技とは微妙にずれる。

 

水泳は、選手のひとかきひと蹴りがタイムに影響を与える繊細なスポーツ。何秒で25m地点を折り返したかを選手自身が正確に知ることが練習にはとても重要になる。そのため、上杉さんは得意なダッシュを武器にプールサイドを走り、壁にタッチした時間を正確に計測した。 夏の一日練習では、上杉さんがプールサイドを走る距離は数キロにも及び、たくさん転んで、足は傷だらけになったと言う。

 

 タイム計測と同時に、練習中の選手に泳ぎだしのタイミングを伝える仕事もこなさなくてはいけないが、これをタイム計測と同時にこなすのが難しい。練習はレベル別の基準タイムをもとに進められる。たとえば、A,B,Cのグループで、それぞれの基準タイムが35秒、40秒、45秒だとすると、それぞれ35秒、40秒、45秒おきに選手が泳ぎ始める。選手の横を小走りに走りながらタイムをとり、さらに、その基準タイムには声を出して次の泳ぎ始めのタイミングを知らせる。

 

 最初はストップウオッチ1個から始め、最終的には、時間計測用のストップウオッチ3個、タイム用のストップウオッチ3個の計6個を持って走り回った。

 

 「走るマネさん」と選手たちから慕われ、大事な試合では「一緒についてきてほしい」と選手から声をかけられた。その時の嬉しさは忘れられない。

 

―学生トレーナーー

 大学入試の進路では、初めて親に逆らって自分の意志を通した。地元の国立大学に行って欲しいと言う両親の希望には添わずに、東京の私立大学を選んだのだ。

 

 長田の「情報」の授業で新鮮な驚きを感じ、ぜひプログラミングを勉強したいと思った。だが、文系でプログラミングが学べるのは、当時は慶應義塾大学だけだったのだ。

 

 両親の反対を押し切った形の上京だったため、両親の援助を頼らず自活することとなった。最初に東京に出て来たときは、「冷蔵庫も洗濯機もなくて、部屋は真っ白な小さな箱でした」。アルバイトして少しずつ揃えていけばいい!そう考えていた。

 

 大学一年生の時は、アルティメットサークル(フライングディスクを使った競技)でプレーヤーとして活動していたが、長田高校での「人を支える喜び」の経験が忘れられず、競走部(慶應では陸上部のことをこう呼ぶ)にマネージャーとして入部する。

 

 当時の競走部は、後にリオ五輪で銀メダリストになった山縣亮太選手や、リオパラリンピックで100メートル、200メートル、幅跳びに出場した高桑早生選手も在籍していた。

選手のサポートをお願いしていたプロの女性トレーナーはいたが、140名の選手全てを管理することは厳しく、怪我が絶えなかった。

 

 「他校にはある学生トレーナー制度を確立して、なんとしても、怪我をしないで選手たちを試合に出させてあげたい」上杉さんは、同期の男子部員と共に、「学生トレーナー制度」を立ち上げることを決意する。

 

 最初は紙ファイルで140名の身体や怪我の様子を管理していたが、より管理しやすいシステムとして、怪我の記録、筋肉の動きを計測した数値、食事の記録をタブレットで簡単に入力できるようにした。

 

そして、学生トレーナー制度を後輩に受け継いでいくための教材も作成した。少なくとも10年は続く体制を作り上げたかったから。卒業後も上杉さんとご同期が立ち上げた学生トレーナー制度は継続し、設立から7年目に突入している。

 

 最後の引退試合でサポートしたトレーナたち

 

JR東海ー

 現在、上杉さんはJR東海の人事部で働き、採用担当として日本中を飛び回っている。祖父は、一生を国鉄にささげ、こだま0系の開発に尽力した人だった。祖父危篤の報に新幹線に飛び乗った上杉さんは、「おじいちゃんが作った新幹線のおかげで間に合ったよ」と心の中でつぶやいた。こうして今自分がJR東海で働いていることを祖父は知らずに亡くなったが、何かご縁があったのかなと思っている。

 

 上杉さんが、今一番尊敬しているのが、先輩の新幹線運転士さん。「常に相手以上に相手の立場に立って、思いやりのある言動のできる人です」

高校や大学での経験を通じて、人を支えることの楽しさを実感した。自分がどんな立場に立っても人の心を温められる、そんな大人になっていきたいと思っている。

 

 「今を全力で楽しんで、長田高校で起こる人との出会いを大切にしてください。今しかできないことや、今しかできない繋がりを大切にしたその先に、きっと皆さんが目標とする誰かや、なしとげたい何かが待っていると思います」上杉さんから現役長田生へのメッセージだ。(20182月 取材・文・写真 田中直美)

 

編集後記

 インタビューの終わった後の雑談で、「『Face to Face』の取材って楽しそうですねえ」と上杉さん。「めっちゃ楽しいですよ!一対一で深いお話をしっかり聞くことができるし、なんでも質問できる」と私。「私もやってみたいなあ」「大歓迎!どんどんライターとして参加してください!」

 

 という訳で、上杉絢郁さんにも、これから記者として登場していただくかもしれません。もし、オファーが来たときには、このかわいい後輩をよろしくお願いします!そして、引き続き、私のこともよろしくお願いいたします。

 

 

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「Face to Face」(OB御紹介)記事一覧
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NO72 番外編 担当回生43回生ご紹介
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NO71 高28回生 伊藤裕二
「次の世に花開くものを見極める」
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No70 高62回生 上杉絢郁
「誰かの役に立つ喜び」
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NO69  高19回生 竹添昇
「挫折と挑戦」
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N0.68 高54回生 竹内健太
「長田スピリットで志高く生きる」
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No,67 高44回生 村平進
「とらわれない」
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No,66 高62回生 小倉加世子
「道は未知」
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No,65 高26回生 陰山恭行(芸名 陰山泰)
「持てる個性を発揮する」
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No,64 高54回生 太田沙紀子
「一期一会」
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NO.63 高42回生永井伸哉
「全ては自分次第」
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No62 高35回生 荒木篤実
「ビジネスに命をかける」
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NO.61 高15回生 仲誠一
「為せば成る、為さねばならぬ何事も」
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番外編 NO.60  懇親会担当、42回生ご紹介
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No.59 高61回生 中野瞳
「うまくいかないからこそ面白い」
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NO.58 高17回生 中野正好
「美しいものが好き」
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NO.57 高30回生 伊達寛
「保続」
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NO56 38回生 金盛正樹
 「NEXT ONE」
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NO55.34回生佐藤絵里
「叩けよさらば開かれん」
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No.54 29回生水草修治
「生きる道を探して」
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No.53 41回生 藤井浩
「ふまれてもふまれても立ち上がれ」
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 No.52
 31回生 青木稔
「教師として生きるー亡き息子の志を継いでー」
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 No.51 番外編
 41回生奮闘記
 
No,50 高18回生 藤本隆

「我が道を行く」

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=144


N0.49 高43回生 山田洋平

「聞こえないけど、聴き上手になる」

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=136


No.48 高35回生 山田恭嗣

「人とつながり、自然とつながる共感」

 http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=139






No.47  高19回生 石田幸司

「人生は気楽が一番!」

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=132




No.46 高58回生 富澤美緒

「ものは考えよう。どんなこともなんとかなる!」
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No.45 高61回生 富澤由佳

「努力は素質を上回り、気力は実力を超える」
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No.44 高38回生 近藤稔和

「前へ」
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No.43 番外編「再会を果たす」
高43回生 田中英一郎
高43回生 伊藤利尋
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NO.42 高28回生 岩崎倫夫
「舞踏家として生きる」
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NO.41 高44回生 藤田咲子
「咲子が咲いた 『ブルームス』」

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NO.40 高40回生 小森伸昭
「思考し、変化し、成長し続ける男」
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NO.39 高62回生 谷山実希
「あきらめなければ夢はかなう」
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NO.38 高60回生 谷山雅美
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NO.37 高23回生 瀧和男
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NO.36 高36回生 山中勘
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NO.35 番外編 40回生担当幹事ご紹介
「なんとかなるやろ!」
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NO.34 高38回生 大志万容子
「日々を営む人の美しさを伝えたい」
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NO.33 高6回生 岩間一昌
  「人生はおもしろい」
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NO.32 高33回生 南山えり
「人生の流れには逆らわない。流されながら自分のできる精一杯のことをする」
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NO.31 番外編 吉地 恵(きちじめぐみ)
「行きあたり、バッチリ!」
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NO.30 高37回生 樋口博保
「一期一会」がおもしろい!
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記事一覧NO1(No.1〜N0.29まではこちらから)

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Face To Face No.69「挫折と挑戦」

 高19回生 竹添昇

 垂水東中卒

 ESS

 鳥取大学農学部卒

 日本ハム代表取締役社長(2014年)

 

 

 2014年まで、日本ハムの代表取締役社長を務めていた竹添さんは、慣例には従わず会長の席には就かなかった。いさぎよく引退。現在は体重も7キロ落として40年前の体重に戻った。身も心も軽くなって孫と過ごし、ギターの弾き語りの腕を磨く。第二の人生を謳歌している竹添さんだが、その半生は「挫折と挑戦の繰り返しだった」と言う。

 

―ハムレットー

 「竹添君、今のままではあかんよ。何か得意なもんみつけなさい」。高校一年生の時、担任の先生にそう声をかけられたことがESSに入部したきっかけだ。中学時代から英語が得意だったが、長田の先輩が演ずる英語劇「ヴェニスの商人」を観て「これだ!」と入部。2年生時、シナリオリーディングのコンテスト出場で主役のハムレットに抜擢され、がぜんやる気に火がついた。幼少の頃よりシャイだった竹添さんだが、大声を出せるよう、夏休み中は校庭で発声練習。そして、最優秀男優賞を受賞。これがきっかけで人前でも大声が出せるように変わった。

 

 だが、なにより学んだことは「ハーモニー」の大切さだ。一人で劇はできない。一人が目立ってもいけない。「調和の大切さ」にも気付いた高校時代だった。

 

TMC

 得意の英語を生かしたくて外大を受験したが失敗。予備校に通う中、理転して農学部に進んだ。ここで入部した「軽音楽部」で積んだ経験が人生の第一のターニングポイントとなった、と竹添さん。

 

 英語の発音には自信のあった竹添さんはヴォーカルをつとめた。毎年、市民会館の音楽ホールで定期演奏会が開かれ、大勢の観客の前でしゃべりを入れながら演奏する。

 

 「観客の顔が見えるんですね。何を話したら、どんなアクションしたら受けるか、直に感じられる。この時に体得したコミュニケーション能力が、後の会社生活に役立ちました」

 

 仲間とは何度も喧嘩したが、活動は最後まで続いた。TMC(チームワーク・メンバーシップ・コミュニケーション)。これが大学時代の音楽活動で得た大きな財産だ。

 

 音楽活動に力を入れ過ぎた竹添さんは就職活動に出遅れてしまった。みかねた研究室の教授が薦めてくれたのが日本ハムだ。まさか社長になろうとは考えてもいなかったが、これが運命の始まりだった。

 

―入社26年目の大転換ー

 「僕は、なぜか最初は希望していたものを『ダメ』とはねられてしまうんですよね」

 

農学部出身の竹添さんは研究室を希望していたが、配属はルート営業だった。配達と集金。マンネリ化した仕事に面白みはあまり感じられない。主任になったのも同期の中で一番遅かった。だが、自ら新規顧客開拓部門に異動を願い出た。入社して10年目の1981年には、大学で研究した食品化学の専門知識を生かせる取引先を任せてもらえ、ヒット商品の開発にも成功する。同じ年、日本ハムファイターズがリーグ初優勝で売り上げも爆発的にアップ。幸運だった。このまま営業の叩き上げで定年を迎えると思っていた時、まったくの畑違いである管理部門である統轄室に異動になった。竹添さんが50歳の時だ。

 

50歳の学び直しー

 「まず、財務諸表の壁にぶちあたりました。BS(貸借対照表)もPL(損益計算書)も何のことかさっぱり分からない。密かにビジネススクールに通い、30代の若者に交じって経営戦略を独学しました」。

 

マーケティング、ブランディング、経営戦略。仕事を終えた後、夜間の授業に通った。「今思えば、楽しかったですね」。学んだ知識を生かして経営企画部門を担当。経営計画策定や新規事業立ち上げを行った。

 

その4年後、日本ハムを激震が襲う。日本ハムグループ子会社が「牛肉偽装事件」を起こしたのだ。

 

―再生ー

 取引先からは取引停止を、行政からは営業自粛処分を受け、会社は存亡の危機に陥る。

 

 「会社を変えてやる!会社を必ず再生して見せる!」そう決意した竹添さんは、たった一人で対策本部を立ち上げ、各部門から若手を引き抜いて、会社再生の責任者となった。

 

 この時、竹添さんは、長田ESS時代の辛い英語劇の練習や、大学時代のバンドで培ったメンバーシップを思い出し、不思議と悲壮感はなかったと言う。

 

 この再生劇は、過去、ビジネススクールのケーススタディにもなったほどである。

 

 閉鎖的組織の撤廃と業績至上主義の解消に没頭した後は、ブランディングを実施。関係会社90社、28,000人の従業員全てが価値観を共有するグループブランドを策定。ブランドステートメント「人輝く、食の未来」を社内外に発表しグループの求心力を高めていった。

 

 続く2006年からの3年間は構造改革に着手すると共に、品質NO1をめざし品質の保証体制を確立、2009年からの3年間は副社長として、事業の選択と集中をより積極化、財務体制の強化に乗り出した。食肉の飼育・処理加工・物流・開発・営業・お客様サービスまでの一貫した事業の垂直統合も完成させた。

 

 2012年に代表取締役社長に就任した後は、守りの経営から攻めの経営へ。食肉業界では、初めて株主重視のROE経営を宣言。就任中に株価を三倍にした。

 

 「米国・欧州・アジアを往復しての、海外投資家向けの広報活動では、長田ESS時代の英語能力が活かされました」

 

―道ー

 大学入試では、得意の英語の道に進めなかった。就職活動も出遅れた。希望だった研究職には就けず営業に回された。50歳にして突然、畑違いの部署に異動、そして会社の存続をゆるがす不祥事の発覚。

 

 平坦とは言い難い道だったが、モットーは「言い出したものがやる、先ず自分がやる」という意味の「先ず隗より始めよ」

 

 「いつかまた人前で歌うことを目指して、密かにギターの弾き語りのレッスンを続けている」竹添さん。その歌声を聴いてみたくなりました。(20181月 取材・文 田中直美)

 

編集後記

 竹添さんは、インタビューの間中、とても静かな声で、丁寧に分かりやすくお話してくださいました。人前で大声を出し、強烈なリーダーシップを発揮していたであろう社長というよりは、シャイだったという少年時代を彷彿とさせられます。いつもはカメラを持参して現在のお写真を掲載するのですが、今回はカメラを忘れ、竹添さんが現役時代のお写真をお借りしました。プロフィール写真とギターを弾く竹添さん。その雰囲気の違いに注目してくださいね!

 

 

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「Face To Face」NO.68長田スピリットで「志高く」生きる

 高54回生 竹内健太

 舞子中学卒

 野球部

 早稲田大学政経学部卒

 ペンシルバニア大学ウオートン経営大学院卒

 モルガン・スタンレー証券会社

 ビズリーチ

―学生時代の起業―

 今でもよく覚えている。高校3年生の時新長田のローソンで立ち読みした経済雑誌。「日本の大都市の中で神戸の財政状態が一番悪い」との記事。ショックだった。「経済に強い政治家になって、愛する神戸の財政を再建するんや!」今につながる志を立てた人生の転機だったと竹内さんは言う。

 

 政治と経済の両方が学べると考え進学した早稲田の政経学部だったが、学問としての経済学だけではなく実務に触れたいと大学3年生時に起業する。「企業や病院の空きスペースに保育所を作る」という福祉系のコンサルティング会社だ。全国で保育所を100ヶ所あまり経営している会社の社長と、不動産会社の社長が、合わせて3千万円を出資してくれた。

 

 「企業や病院には、従業員への福利厚生としての保育所のニーズがあり、敷地もある。けれど保育所運営のノウハウはない。出資してくださった会社には保育所運営のノウハウがある。それを結びつけました」

 事業として成立し、その会社は今も存続しているが、竹内さんは「将来の夢のために、経済の最先端で働いてみたい、もっとグローバルな仕事も経験してみたい」との思いから、同社を共同経営者に譲り、自身は外資証券会社のモルガン・スタンレーに新卒入社した。

 

―外資金融機関で働く―

 就職して2ヶ月目に、父が病により亡くなった。49歳の若さだった。23歳で喪主を務めた竹内さん。母、大学生の弟、高校生の妹、中学生の弟。この家族の生活を守る責任が、長男である竹内さんの肩にかかった。

 

 「不幸中の幸いとして、一般的に給料が高いとされる外資系金融機関に勤めましたので、とにかく必死で働いて、家族の生活費と学費を稼ぎました長田の後輩で、当時は大学生だった弟が、難関を突破して同じ業界の内定を取ってくれた時は、家計の担い手が増えると思い、非常に安心しました」。

 

 外資での仕事は「非常にハードで、まるで軍隊のようでした」と笑う。毎日夜中の三時過ぎまで仕事した。上司も平気で一時過ぎまで仕事する。日経新聞の一面を飾るような大きな案件を何件も担当させてもらった。「非常にやりがいを感じていましたが、今振り返っても、我ながらよく頑張ったなあと思います」。モルガンで5働いた竹内さんは、米国政府の奨学金試験に合格したのを機に退職。トランプ大統領も学んだペンシルバニア大学ウォートン・スクール2間の予定で進学した。

 

―米中への留学と初めての転職―

 米国で学んで一年。夏休みで一時帰国していた竹内さんに「株式会社ミクシィ再建を手伝って欲しい」との依頼が同社の社長となっていた友人から舞い込む。ミクシィ往時こそ破竹の勢いを誇っていたもののFacebookが日本を席巻してからは、業績が落ち込んでいた。

 

 本業のSNSでの挽回ではなく、新規事業であるスマホゲームでの成長牽引にミクシィは舵を切る。これが大当たりして株価は20倍に。経営企画室長として、一連の事業転換に関与した竹内さんは役目を果たし、1休学していた大学院に復学する。米国で学びながら中国語も勉強していた竹内さんは、最後の半年間は交換留学生として北京大学光華管理学院学び合計2年間の経営学修士課程を終えてウォートン校を卒業した。

 米国留学中のクラスメートとの年末パーティーでの一コマ
 

―忘れ難き卒業旅行―

 記念の卒業旅行の行き先として選んだのは、なんと北朝鮮だった。北朝鮮の国境までは中国の旅行社の人が付き添い、国境を超えると、竹内さん一人に日本語ガイド二人と運転手の計三人の北朝鮮の人が付き添った。

 

 三人は、ガイドしてくれている間中、日本、米国、韓国の悪口を言っていたものの誠実に仕事はこなしてくれた。純朴な人柄で、聡明でもある彼らに対して、竹内さんは意外な好感を抱いた。

 

 「僕は20歳の時、神戸市での成人式の集いで、横田めぐみさんのご両親のを聴きました。拉致問題に対しては強い怒りを感じる、現地で出会った北朝鮮人は親切にしてくれた。『拉致問題の解決なくして、日本北朝鮮国交を回復することは絶対にない。大っぴらに語れないかも知れないが、問題が解決するよう、心の中だけ良いから皆さんも祈ってください』と、どうしても伝えたかった」

 

そのチャンスを作るために、三泊四日の旅の終わりに、竹内さんはチップを少しはずみ、手渡しながら気持ちを直接伝えたと言う。

 

北朝鮮旅行中のガイドさん達との写真

―事業で社会問題を解決する―

 帰国後は、急成長ベンチャー企業であるビズリーチに、創業者から誘いを受けて入社。社長室長、管理本部長を経て、現在は事業承継M&Aプラットフォーム事業である「ビズリーチサクシード」推進している。

 

 「中小企業の後継者問題は日本の未来を左右する大問題です。多くの従業員を抱えつつ、黒字も確保している優良企業が、後継者問題で廃業に追い込まれる。これは日本の宝の損失と言えます。『価値ある事業を未来につなげる』。これが、僕達の事業のミッションです。個人的にも、これまで学んできたことを全てぶつけるつもりで取り組んでいます。」

 

―吹き込まれた「無限の可能性」―

 長田時代の野球部の監督、大津先生は、竹内さんの人生に大きな影響を与えた人だと言う。

「お前たちは無限の可能性を持っている。甲子園に行って、東大に行って総理大臣にだってなれる!」

 

 「だいたい似たようなレパートリーで、本当に毎日毎日吹き込まれました。ほとんど洗脳です(笑)。同じ流れをくむ野球部の後輩が、昨年春の甲子園に出場してくれた時は本当に感動しました。もちろん、有給を取って応援しにいきました。」

 長田野球部初の甲子園出場を、同期と応援しに行った際の記念写真
 

 会社ではジム部に所属し、若い同僚達とともに筋トレで自分自身を追い込んだ後に、仲間と一緒にサウナで語らう時に幸せを感じると言う。高校時代の野球部のノリを思い出すからかも知れない。

 

 「高校の友だちは、一生の友だちになります。未熟ゆえのぶつかり合いもあるかもしれませんが、隠し立てなく何でも話せる仲間をしっかりと見つけてください」。ビズリーチで辣腕を振るう人事部長は、竹内さんが他社から招聘した長田の同級生だそうだ。

 

 10年後には神戸出身者を代表する経営者の一人となっていたい。そして、最終的には公職に就いて、神戸の発展に尽くしたい。所詮すべては人間がすること、必ず実現できると信じている。201712月 取材・写真・文 高28田中直美)

 

編集後記

 まだ33歳でこれだけの経験を積み、常に前進している竹内さんにとても驚きました。ドメスティックな保育所事業からスタートし、グローバルな世界に飛び出て、今また、日本の将来を見据えて事業展開をする。公私ともに「なんにでもなれる!」未来を進んでください。応援しています。

 

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「Face To Face」NO.67「とらわれない」

  高44回生 村平進

 王塚台中学卒

 吹奏楽部 生徒会長

 名古屋大学工学部

 税理士法人 大樹

 コンサルティング部部長

 

 ―変化―

 大学卒業後現在に至るまで、村平さんは5回転職している。アスクル、ブックオフ通販子会社、堀江さん逮捕前のライブドアなどで働いた。

 

  アスクルではIPO前後の勢いのある会社の雰囲気を肌で感じた。お金によって「感情」が動かされて理性的な判断を狂わされる場合もあると昔から感じていたが、その現実と向き合うきっかけともなった。

 

 「損得というものはとても分かりやすい。でもそれ故に、本来、理性でなされるべき意思決定がゆがめられることがあります。『損してもいい!』と言い切れる人は少ないのです」

 

 そしてもう一つ学んだことが、職場という環境を変えても、自分の内面を変えない限り何も変わらないという現実。「何回も転職しないと分からないというのもどうかとは思いますが(笑)」

 

 「自信ありすぎで生意気な自分(笑)」を変えるという意味ではない。人には人それぞれの別個の価値観があるということに気付いたということだ。きっかけは「性格分析」の手法の一つ、エニアグラムに出会ったこと。

 

 そこから出てきた結論が「とらわれない」という生き方だ。

 

「自分の価値観や理屈、感情にとらわれず、なぜ、相手がそう考えるようになったのか?じっくり耳を傾けると、そこにはその人の人生経験に裏打ちされた思考回路があり、なるほどなと理解できる。さらにその人の人生を追体験することで、今度はその人の思考回路でも考えることができるようになるのです」

 

 自分の思考回路だけが正しいのではない。人それぞれであることに気付けた。これが「とらわれない」生き方の原点となった。

 

―橋渡し―

 現在、名古屋の税理士法人「大樹」でコンサルタントとして働いている村平さん。顧客である中小企業のオーナー社長の「人としての生き方・魅力」と「経営」の整合性がとれるよう橋渡しするのが仕事だ。

 

 「中小企業の場合、経営は、社長にとっての『自己表現』という側面と、『利益を生み出して継続させていく』という二つの側面があるんですね。前者は企業理念として言葉で表現されています。でも、経営者としては、『利益をあげる』ことを優先してしまう場合も多いのです」

 

 経営者の人間的な側面に惹かれて入社した社員は、経営者が「利益にこだわった」行動をとったとき、社長の二面性に裏切られたように感じ失望すると村平さんは言う。

 

 相手の価値観を追体験する村平さんには、社長の胸中が自分のことのように見えてくる。

 たとえば止むを得ず賃金カットを断行する場合、「現況、賃金カットは必要。それでも若い従業員にはほんの少しでもアップしてあげたい。がんばった人には報いてあげたい」そんな想いを言葉にして社員に伝えたり、また反対に、とかく結果の数字のみが重視される風潮の中で、中小企業ならではの「プロセスの重視」で、従業員のがんばりを社長に伝えたりもする。

 

―広がるー

 なんのためにこの時代の日本に生まれ、この仕事をしているのか?と自問している間に、自分の中で「世界平和のため!」という壮大な目標が浮かんだ。いつもそれを言葉に出して得意先企業の社長さんたちにも話している。

 

 「初めはどの社長にも『世界平和なんて』と失笑されてしまいます。でも、あるタイミングで、ビジネスの先に世界平和が感じられることがあるんです。そうすると、失笑していた社長自らが『世界平和のために私たちのビジネスは・・・』とお話して頂けるようになるんですね。ビジネスは世のため人のために行われているもの。そうなることが自然だと思っています」

 

 飲み食いしながら楽しく会話するのが好きだ。自分の琴線に触れてくるものにはどんどんチャレンジすることにしている。今は茶道にはまっている。ついた師匠は「お道具」の達人。茶碗、水差し、棗。それぞれのお道具の制作技法の分析から、その歴史的背景にまで発展していく師匠の洞察に魅了されている。

 

 最近思うのは、「自分に見えている相手の姿は実は自分の姿だ」ということだ。自分と言うフィルターを通して相手を見る。相手の優しさに気付けたら、それは自分の中の優しさの合わせ鏡。自分にとっての辛い経験も、相手の中にある「辛さ」に気付き共感できるようになると知った。

 

「自分の可能性を信じて自分の限界に挑戦してください。そしていつか自分の限界を感じてください。実は自分の限界に至ったときから“新たな自分の可能性”が広がります。そしてその“新たな自分の可能性”には長田高校で過ごした事が大きく影響してきます。自分の可能性を信じ、限界に挑戦してくださいね!」これが、今の村平さんから長田現役生たちへのアドバイスだ。

201711月 取材、文、写真 田中直美)

 

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―編集後記―

 村平さんは身長184センチ。とても姿勢が良くて声が大きい。そして自称「お話し好き」。明るくて楽しくて一緒にいると相手のテンションも自然に上がってくる感じがすばらしいと思いました。これからも、何にも「とらわれず」に、きっとご自分の世界を広げていかれると思います。

 

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「Face To Face」NO.66「道は未知」

 高62回生 小倉加世子

 大山寺中学卒

 硬式テニス部

 北海道大学農学部

 北海道大学大学院農学部

 JFE エンジニアリング

 

―長田ー

 長田では硬式テニス部だった。中学では陸上部だったので全くの初心者。でも、仲間たちは優しく、中学で軟式テニスをしていた友人たちがおしげもなくコツを教えてくれた。初めてダブルスの試合で勝った時は、コートでついはしゃぎ過ぎて周りの選手が引いていたかも、と笑う。

 

 部活の帰り道も仲間と一緒。豚まんや串カツを買って腹ごしらえしてから塾に行く。自習室にも皆で最後まで残った。

 

 部活仲間とわいわい楽しい登下校の道も好きだったけれど、部活引退後、一人で歩く登下校の道も好きだった。同じ道を通るのは好きではなく、いろいろと新しいルートを開拓していた。なかでも好きだったのは、当時「猫道」と呼ばれていた細いくねくね道。ある日、工事が始まって通行止めの看板を見つけた時はがっかりしたっけ。

 

―北海道ー 

 北海道大学に進学したのは、中学・高校の修学旅行で行ったスキー旅行がきっかけ。北海道が大好きになったのだ。まずは「北海道大学」ありき。農学部を選んだのは、兼業農家を営んでいた祖父母の下で、小さい時から土に触れていたからかなと思う。

 

 北海道の雪が大好きだった。ふわふわさらさらしていて、地元の人は雪でも傘をささない。払えば簡単に頭から肩から落ちていく。どんなイルミネーションよりも綺麗だなと思う。

 

 専攻したのは土壌学。大学一年生の終わりに起きた東日本大震災をきっかけに「福島第一原発事故により放棄された農業流域における放射性セシウムの流出予測」を研究対象に選んだ。農業環境技術研究所との共同研究だ。

 

 土壌に付着してしまったセシウムの微粒子。どれぐらいの年月がたてば再び福島全体で農業ができるようになるのかを、さまざまな土壌サンプルから様々なパラメーターを使って分析していく。地道な計算が延々と続く。修士論文発表の前の二ヶ月は、部屋には寝に帰るだけの日々が続いた。

 

 研究は後輩に引き継がれ、今も福島の土壌の観察は続いている。

 

―社会人二年生ー

 一転して就職ではJFEエンジニアリングに入社。大学で研究してきたこととは全く関係のない分野に進んだ。

 

 「企業としては、福島のがれき処理や、野菜工場など関連のある事業もありますが、私は事務職として採用されているので、直接には全く関係はありません。農学部の出身者はそのまま食品会社などに就職する人が多いのですが、『このまま農業研究に人生を絞ってもいいのか?』という気持ちがありました。でも、またいつか資格試験を受験して農業研究員の道を目指してもいいなという気持ちも持っています」

 

 就職して一年目は経理だったが、2年目の今年は関連企業部に配属された。グループ会社の管理・再編をする部署、会社全体の経営方針に関わる。

 

 「私はここで、今までの自分の視野の狭さに気づきました。今までは、企業の公共性とか技術だけに目がいっていましたが、企業である限り収益のことを考えないわけにはいかないと、今更ながらに気付いたのです」

 

―言葉ー

 ある日、母がアルバムのページを繰りながら「あなたたちを育てるのは本当に楽しかった」とつぶやくのを聞いて小倉さんは驚いた。

 

 「私は三姉妹です。そして母は短大で教師をしており、ずっと働きながら私たちを育ててくれました。通勤には片道2時間もかかり、娘たちも、それぞれに反抗期もあり、母にとって子育てはどんなに大変だったろうと思っていたのに・・」

 

 小倉さんが通っていた小学校はスポーツが盛んで、冬には耐寒マラソンがあって半そで半ズボンで走った。玄関で「いやだな~」と思いながら靴を履いていると、母が「しんどいことも楽しんでやりなさい」と声をかけてくれた。

 

 小倉さんのモットーは、「ピンチはチャンス」だ。振り返れば、それはあの時の母の言葉にも通じているのかなと思う。「悩んでいる時こそよい道を選べるチャンス、そうポジティブに考えます」

 

―親友ー

 「私はとても人に恵まれていて感謝です」と小倉さん。大学でも、社会人になってからも尊敬できる素敵な人々にめぐまれた。中でも、保育園・小・中・高とずっと一緒だった幼友達二人は、大学は北海道・京都・大阪とバラバラになったが、今も一番のかけがえのない親友だ。

 

 「神戸を離れてから、頻繁に連絡をとるわけではありませんでした。でも大事な時にはいつも相談します。会うと『やっぱり大切な人』と感じます。みんながそれぞれの場所でがんばっている。その存在自身が大きいのです」

 

 その親友を含め、テニス部の仲間など、長田時代の仲間の存在は、小倉さんの中で本当に大きいと言う。「後輩たちにも、長田の繋がりを大切に」と伝えたいと思う。

 

 保育園で一緒だった、小倉さん、山下麻衣さん、八木裕理子さん

 

一緒に富士登山!左から山下さん、八木さん、小倉さん

 

―挑戦ー

 小倉さんは自然の中にいるのが大好きだ。現在の趣味は登山が高じた沢登り。そのためにボルタリングもするし、自転車にも乗る。撮り鉄だった父の影響か鉄道も大好き。

 

 「いろんなことに挑戦するのがとっても楽しい。だから仕事もいろんな分野に挑戦したい。まだまだ自分の道を一つには決められません」。社会に出て、まだ2年目の小倉さん。大人としての人生はスタートしたばかりだ。(201710月 取材・文・写真 田中直美)

 

沢登りする小倉さん。かっこいい!

 

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―編集後記―

 ゆっくりと言葉を選びながら静かに話をする小倉さんは、話を聴くときもまっすぐに相手の目をみつめ、「素直」に物事を吸収してきた人と記者には見えました。「人に恵まれた」のではなく「人を引き付ける」のではないかと思ったことです。外見の印象からはちょっと違うアクティブさも、長田女子!ですね。

 

 

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「Face To Face」NO.65「持てる個性を発揮する」


  高26回生

 陰山恭行(芸名 陰山泰)

 舞子中学卒

 剣道部(体を壊して途中退部)

 早稲田大学社会科学部

 役者

 

 

―「ひよっこ」ー 

 NHKの朝ドラ「ひよっこ」。1960年代の東京下町のトランジスタ工場の女子寮である乙女寮。その乙女寮食堂で、愛のこもったおいしい料理を作り、女工さんたちの楽しみ「コーラス」で、アコーディオン伴奏もしてしまう料理人、森和夫の役を務めていたのが陰山さんだ。

 

 「あのアコーディオンには苦労しました。母がピアノの先生をしていたので、ピアノは少々たしなんでいたのですが、アコーディオンは小学校で触って以来。『トロイカ』『見上げてごらん夜の星を』など、全5曲あったのですが、二ヶ月間、ひたすらアコーディオンの練習に明け暮れて、ものにしました」

 

―演劇研究会ー

 長田卒業後、2年の浪人生活を経て早稲田大学に進学した陰山さん。高校時代の友人が、高校卒業後「青年座養成所」に入団していたことから刺激を受け、当時の有名なアングラ劇団「赤テント」「黒テント」などを、大学合格後、入学前に観劇。入学後、すぐに早稲田の演劇研究会を見学に行ったことが、今の演劇人生の始まりだった。

 

 「当時の早稲田の演劇研究会では、卒業生でもある、綺羅星のような演出家がすぐ隣で活動していました。寺山修司さんや鈴木忠志さんです」。超一流の演出家の仕事を間近で観た衝撃と影響は大きかった。

 

「芝居を始めるなんて夢にも思わずに進学したのに、ここで僕の人生は大きく変わりました」

 

―持久力ー

 とりわけ、京都大学で三日間上演した「お手をどうぞ」での体験は大きい。シェイクスピアの「夏の夜の夢」を自分たちで再構成した作品だったが、観に来てくれた鈴木忠志さんは「つかこうへいさんよりおもしろいぞ」と評し、当時、京大生だった辰巳拓郎さんも「おもしろかった」と言ってくれた。現在、神奈川芸術劇場で芸術監督を務める白井晃さんは、「お手をどうぞ」を観て、入学していた立命館を辞め早稲田に入りなおしたほどだ。

 「学生演劇では、テクニックはまださほどないので、とにかく体全体を使って思いっきり走り回りながら自己表現を自由にやります。僕はその魅力にはまりました。役者という仕事は『万年失業予備軍』です(笑)。でも、この道に入ったことを後悔したことはありません」

 

 舞台とテレビでは大きくアプローチが違うと言う。舞台では練習を含め、長ければ数カ月、そのセリフを深める。テレビではセリフを覚えたら、リハーサル一回に本番一回。舞台は持久力、テレビは瞬発力だそうだ。

 

「僕は舞台から入っているので、舞台のアプローチが合っています」

 

―友ー

 長田時代は、学校の勉強机の横にいつもギターを置き、暇があれば弾いていた。上高地への修学旅行にもギターを持って行った。

 

 「当時の天敵は運動部のやつでしたね(笑)。でも、その天敵が、僕が演劇をやっているのを知ってからは、ずっと公演を観に来てくれているんです。大阪で公演するときは、長田の仲間が、つぎつぎと20名以上も来てくれることもあります」

 

 「僕は、早稲田で演劇を始めた時から、ある意味『長田ぽく』はない。一年生の時に同じクラスだった垣内君(現三菱商事社長)なんか、こいつ、なんでこんなに頭がいいだろうと感心してましたよ。彼の息子が早稲田で演劇をやっていた時は、垣内君に『ちょっと様子みてやってくれ』と頼まれて、全公演を観に行ってましたけどね(笑)」

 

―挑戦ー

 妻はバレーダンサー&振付師だ。料理は全て陰山さんが作る。それが気分転換になるし趣味でもあると言う。最近凝っているのはデミグラスソース。牛の骨とすじ肉からスープをとり、テールを入れて仕上げるまで、まる4日かかる。

 

 「役者は、毎日が勉強です。いつも新しいことに挑戦するのが仕事」。

 

「ひよっこ」で見せた包丁さばきは実生活。アコーディオンは新しい挑戦。

 

「自分の持っているポテンシャル(潜在能力)を生かすことを最優先して、自分を自分で大切に伸ばしていってほしい」これが陰山さんから現役長田生へのメッセージだ。

20179月 取材・写真・文 高28田中直美)

 

近日上演!「坂の上の家」

http://www.kpac.or.jp/event/detail_783.html

 

「ヘッドアップ」

http://m-headsup.com/

 

 

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編集後記

 

 記者と同じ28回生のT君が、京都大学での公演時に、農学部近くの水道で顔を洗いドーランを落としていた陰山さんの姿を鮮明に覚えているとインタビュー前に聞いていたのですが、まさかその公演が、陰山さんにとっても人生を左右するようなターニングポイントになる公演だったとは驚きました。それにしても陰山さんの若々しさにはびっくりです。若い役者さんたちと一緒に同じ舞台に立ち、体をはって新しいことにチャレンジを続けておられるからこそだと感じたことです。

 

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