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「Face To Face」NO.75「災害医療に導かれて」

 高35回生 水谷和郎

 太田中学卒

 水泳部

 山口大学医学部

 神戸百年記念病院心臓リハビリセンター長

 (旧 鐘紡記念病院)

 

 

 阪神淡路大震災が人生の転機となったと語る人は多くいるだろう。水谷さんもその一人だ。だが、水谷さんの場合、その転換点は震災10年後に訪れた。揺り起こされる記憶が、水谷さんの医師としての仕事に、専門の循環器内科とは全く別の側面である災害医療という新たな一面を加えることになった。そしてそこから更に4年後、一冊の本との出会いで、水谷さんの災害医療は更に深化することになる。

 

1995年ー

 1995117日。水谷さんは医師になって3年目。兵庫県立淡路病院で当直の朝を迎えていた。淡路病院は淡路の救急病院で、連日、島中から救急の患者ばかりが搬送されてくる。日常から野戦病院の趣があり、毎日の医療に少し自信が出て来た頃だった。

 

 早朝5時半に目がさめポケベルをチエック。テレビをつけたその時に、遠くからゴーっという音が近づきドンと縦揺れがきた。とっさに思ったのは「東海地震がきた!名古屋が大変だ」ということ。当直室の扉を開けると非常扉が全て閉じて廊下が緑の部屋になっていた。

 

 ドアを開け開け一階に降りたがいつもと変りない。情報源はテレビのみ。京都が震度5。だが、淡路・神戸の情報は出てこない。情報を得るために淡路の広域消防に電話した。救急要請が11件あり、生き埋めが何件か出たようだ、との情報を得る。最初の患者さんが来たのが65分。軽症の患者さんがバラバラと自力で来院した。

 

 様子が変わってきたのは7時過ぎから。次々に救急外来の患者が運ばれ、あちこちで心臓マッサージが始まっていた。

 

「この時、外科部長だった松田先生が栗栖先生に『映像で記録をとれ』と命令しました。正直、なんで?と思いましたよ。一人でも多くの医師の手が欲しいのに」

だが、結果としてこの時撮られた映像が水谷さんの人生の進路を大きく変えていく。

 

この日の来院患者数68名。死亡7名。重傷20数名。混乱は午後14時ぐらいにはほぼ終息した。ライフラインが切れなかったこと、救急病院だったため、普段から科を超えて協力する体制があったこと、明石大橋開通前で、非番の医師たちも病院の近くに住む人が多く、駆けつけてきた医師が多くいたことも幸いした。

 

震災当日撮影された映像より 中央が水谷さん

 

2005年ー

 震災後3年目ぐらいから、なぜか震災の話をすると泣いてしまうようになっていた。何故そうなのかは自分でも分析できない。とにかく、自然災害によって突然命を絶たれ、亡くなった方々の時間が止まってしまった理不尽さが悔しかった。

 

 震災10年後のその日、水谷さんは兵庫県立姫路循環器病センターに勤めていた。看護詰所のテレビで10年目の黙祷が始まったその時、突然の号泣がこみあげ止められなかった。

 

 「当時、姫路の循環器病センターは地域の災害拠点病院に指定されていました。でも、指定されているだけで何も準備はされていなかった。僕はそのことに気付いていましたがそれまで気付いていないふりを自分自身にしていました。でも、その時、急にスイッチが入ったんです。震災当日、淡路病院で経験した自分だからこそできることがある」 

 

 水谷さんの災害医療活動がスタートした。

「まずは病院のスタッフにあの時の映像を見てほしかった。阪神・淡路大震災当日の病院での映像記録では、唯一のものです。現場で何が起こっていたのかを知って、そしてどう行動すべきなのか、自分事として考えてほしかった」

 

 映像を公開することには葛藤の連続が有ったと言う。「でも、現状ではだめだ。これでは亡くなった人たちが報われない」。

 

姫路循環器病センターでの初めての講演の日、水谷さんはいつもの白衣ではなくスーツを着た。淡路病院のスタッフとして今日は講演するのだという意志表示だった。

 

 病院内の反響は凄かった。災害医療に対応しなくてはという機運が一気に盛上がる。水谷さん自身も、もっと勉強をしなくてはと日本集団災害学会のセミナーを受けることにした。だが、勤務医は平日に休みをとるのが難しい。そうだ、自分が学会発表をすれば休みを貰えてセミナーを受けられる!

 

 意気揚々と出かけた学会で、まさかの肝心のビデオが動かず発表は失敗。「だがまぁ、一回だけのことで、専門外だしいいか。セミナーを受けるという目的は果たすことができた」と帰途につこうとしていた水谷さんに、長崎大学付属病院と松山赤十字病院から「映像を貸して欲しい」と声がかかった。

 

 「それなら、ぜひ私の話を聴いてください!」この時の講演が口コミで広がっていった。

 

2016年11月12日 鳥取県立厚生病院で講演する水谷さん

 

2009年ー 

 NHKのスペシャル番組「阪神・淡路大震災 秘められた決断」を観て、本、「災害エスノグラフィー;阪神・淡路大震災秘められた証言」を買う。それは鳥肌が立つほどの衝撃だった。

 エスノグラフィーとは、本来、民俗学のフィールドワーク手法の一つ。それは、京大の林先生が震災当日の神戸市役所職員のそれぞれの一日を克明に聞き取り、その話し言葉のまま時系列にどこでどんなことが起こっていたのか記録した書だった。

 

 水谷さんは、体験した人にしかわからない体験の「温度差」が気になっていた。あの映像に写っている人を全てインタビューして淡路病院での災害エスノグラフィ―を作ると決心。既に13名のインタビューを終え、後は4人だ。驚いたことには、だれもがあの20年前の一日を克明に記憶していた。

 

 あの日の映像だけでは伝えきれないこともある。映像を見た人自身のバイアスがかかるからだ。だが映像にエスノグラフィーを加えることで、その映像に写っていなかった時間にその人が何を体験し、どう考え、どう行動していたのかが克明になり、疑似体験がより深いものになる。「他人事」のあの震災の日を「自分事」として捉え、その時、医療従事者として自分に何ができるのか考え抜くこと、また現場で実際に起こっていたことを疑似体験することによって、知識を増やしておくこと。知らないことは出来ないのだから。

 

 現在、神戸の百年記念病院で心臓リハビリセンター長として勤務しながら災害医療の啓もうに力を注ぐ。正直二足のわらじは厳しい。だが、この活動を止めるつもりはない。(20187月 取材・文・写真 田中直美)

 

―編集後記―

 水谷さんが取材された災害エスノグラフィ―を拝見しました。大通りだけ巡回し、その裏道の惨状に気付かなかった消防署員の後悔、いつもとは全く違う様子を呈する医療現場では、違う動線をすぐに構築することが必要なこと、通常であれば、まだ手を尽くすはずの患者さんの治療を、より軽症で命が助かる希のある人を助けるために治療を止める勇気が果たして自分に持てるかどうかなど、「習う」災害医療ではなく「自分事としてシュミレーションする」災害医療の大切さを水谷さんが啓もうする意味を痛感しました。

 「震災当日の医療現場のフィルム」。他にはないこの貴重な資料を生かさねばと奮闘する水谷さん。ありがとうございます。

 

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Face To Face No.74「エッセイストから小説家へ」

 高30回生 谷川直子

 飛松中学

 生物部

 筑波大学第二群比較文化学類卒業

 

 

 

 現在、五島列島在住の谷川直子さんは、小説家・文芸評論家として著名な高橋源一郎の元妻として、また、彼との離婚を挟んで罹患したうつ病を克服した後、第49回文藝賞を受賞、作家デビューした女性として知られています。その谷川さんの半生を五島列島福江市でお聞きしてきました。

 

―エッセイストー 

 大学生時代、谷川さんは詩人になりたかった。だが詩人で食べていくことは至難の業だ。卒業後、父の勧めで神戸の会社に就職したにもかかわらず、わずか八カ月で勝手にそこを辞め、土曜美術社「詩と思想」編集部に転職した。両親は激怒。ボストンバック一つで家出同然に上京した。少しでも詩に近い所で働きたいという一念だった。

 

 高橋源一郎と出会ったのは谷川さんが25歳の時。彼の小説をよく読みファンだった谷川さんのことを知る編集部の人が、会う場を作ってくれた。

 

 「初対面とは思えませんでした。文学の趣味が似ており話がはずみました」

 

 ほどなく結婚。だが、当時の高橋はまだ収入的には駆け出し。原稿料が振り込まれているかと、どきどきしながら銀行の記帳に通うような日々だった。

 

 この頃、競馬と出会ったのが人生の最初の転機になったと谷川さんは言う。

 

「あまりにも生活が苦しく『競馬でお金をふやせるかも』という高橋の意見で、生まれて初めて競馬場に足を運びました。私はそこで美しい馬の虜になったのです。競馬の面白さに目覚め、奥の深い競馬を徹底的に学びました。ちょうと武豊氏が活躍している時代で中央競馬会も女性客に目を向け始めていました。JRAPR誌などでエッセイを、サンケイスポーツで予想コラムを執筆するようになり、初めて文章でお金を貰うようになったのです」エッセイスト谷川直子の誕生だった。

 

―うつ病の克服―

だが、高橋源一郎との結婚生活は14年間でピリオドを打つ。離婚する3年ほど前から「寝られない。食べられない。ひきこもる」生活が続いていた。初めて診察を受け入院・治療が始まったのが発症後三年。

 

「病名がついて薬を貰えたことを、とても嬉しく感じたことを覚えています」と谷川さん。

 

 多才でいろんな新しい世界に自分を導いてくれた高橋を、谷川さんは尊敬していた。だが、結果として他の女性を選んだ高橋との離婚と、その前後の日々は想像以上のダメージを谷川さんに与えていたのだ。

 

立ち直るきっかけとなった日のことは、鮮明に記憶に残っていると言う。

 

「すばらしいカウンセラーと出会えていたことが幸いしたと思います。回数を重ねるカウンセリングの中で『自分は自意識過剰である』と気づいたのです。『人に良くみられてたい。人よりすぐれていなければいけない。捨てられた奥さんというレッテルを貼られたくない』」そんな自分の心の奥に気付きました」カウンセリングが始まって2年の時が経っていた。

 

もちろん、うつ病は気付き一つで回復するような単純な病ではない。だが、この日を契機として徐々に回復し、その後3年で全快することができた。

 

―五島列島へー

 この頃、五島列島生まれで五島列島の役所で働いていた大学時代の同級生と再会。彼との再婚を機に、谷川さんも五島列島に移り住む。

 

 「私はエッセイストではなく作家になりたいと考え始めていました。お世話になっていた編集者に相談すると『まずは何か賞をとってください』と。移住当初は、一年ぐらいで賞をとってみせると意気込んでいましたが、結果としては賞を戴くまでに7年の年月がかかりました」

 

 2012年、「おしかくさま」で文藝賞を受賞。小説家谷川直子の誕生が人生の第二のターニングポイントとなった。

 

 谷川さんの小説には「おしかくさま」「断貧サロン」のような、新興宗教をとりあつかったコミカルな作品と「四月は少し冷たくて」「世界一ありふれた答え」のようにうつ病患者の患者視点からみた、繊細で美しい文章で綴られた作品がある。

 

 「私が自身のうつについて語ると、『自分の家族もうつです』と相談の反響がすごかった。うつを克服することができた私だからこそ発信できる何かはないか?そう考えました」

 

 また、うつを契機に「宗教」を見る目も変わったのだと言う。

 「うつが克服できるなら神でもなんでも信じたいと思った時期もあったのですが、ある時、救ってくれるのは神ではなく自分自身、と気づいた時から何かが大きく変わりました」

 

 五島列島に移住し、ひきこもって小説を書いては応募・落選を繰りかえしていた七年間。まるでプライベートビーチのように誰もいな海岸に一人、引いてはうちかえす波に癒されたこともあった。

 

 移住生活十二年になる今は、映画館もない島の生活に、アートや文化の飢えを感じることもあるという谷川さん。書きたいテーマはまだたくさんある。だが、島の生活では都会のリアルは手に入らない。流行りの食べ物も洋服もネットの中でだけの出会いはもどかしい。あと二年で夫の定年を迎えるが、どこで暮らすのがベストか思案中だそうだ。

 

 「高校時代に、自分の肉体の限界に挑戦することが、後々の人生をいかに生きるかにつながってきます。限界までがんばってください」谷川さんから現役長田生へのアドバイスだ。(201712月 取材・写真・文 高28田中直美)

 

編集後記

 「五島列島に住む谷川直子さんにお話を伺ってみたい」。それも理由の一つとなって、今回、私の長田時代の友人三人で五島列島への旅が実現しました。旅人の眼に映る美しい大自然とおっとりとした島人は、生活者である谷川さんにとっては、また違う側面を持つことも知った旅でした。「移住当初、ばりばりの島言葉はイタリア語にしか聞こえなかった」そうです(笑)

 インタビュー前夜に脱稿したという「私が誰かわかりますか」が8月に朝日新聞社から発刊されます。長崎の架空の都市を舞台に、介護する長男のお嫁さんたちが登場する物語だそうです。最新刊は「ゆうべ不思議な夢をみた」文蔵ブックス、ぜひご一読を!

 

 

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Face To Face No.73「大切なものを大切に」

 高62回生 宮本千尋

 伊川谷中学卒

 水泳部

 広島大学理学部地球惑星システム学科

 東京大学大学院理学系研究科地球惑星システム学科

 

 

―理科好き少女―

 子ども時代、ゴールデンウイークや夏休みの度に、両親は宮本さんと弟二人をキャンプに連れていってくれた。「これは食べられる。これは食べられない」。母は植物を手にしながら教えてくれた。星好きの父は、近くの天文台が主催する定例会に宮本さんを頻繁に連れ出し、一緒に望遠鏡を覗いた。

 

 こうして理科好き少女に成長した宮本さんは、中学時代に、大学で地学を専攻した理科の先生に出会った。話を聞いていくうちにフィールドに出て自然の中で学ぶ学問に魅力を感じた。恩師が大学で学んできたのと同じようにフィールドで学べる学問をやってみたい。広島大学理学部地球惑星システム学科に進学することを選んだ。

 

 「生まれて初めて家族の下を離れ、部屋に帰っても誰もいない、食事の用意もない、話す人もいないという環境の中で、夕食もお弁当もいつも用意してくれていた母に改めて感謝しました。初めて一人で作って一人で食べたカレーのまずかったことは忘れられません」

 

 ひどい反抗期もあったし兄弟げんかもよくしていたが、それさえ懐かしく、毎晩部屋で一人泣いていた。高校時代までどちらかというと人とかかわるのが苦手だった性格が「積極的に人とのつながりを自らもつ」性格に変わっていったのはこの頃だ。

 

―出会いの縁を広げてー

 広大時代は、とにかく目一杯やりたいことをやった。勉強、部活のラクロス、アルバイト。ラクロスでは山口、岡山、四国など幅広い地域の他大学の学生ともつながりができた。せっかくできたその新しい縁が途切れないよう、積極的に関わりを持ち続けるようになっていた

 

 たまたま雑誌で読んだ嵐の二宮くんのインタビューがとても心に残っているそうだ。

「人も物も仕事も全て『縁』。出会えたのも縁。別れたのはきっと縁がなかったから。でも、一度別れてしまっても縁があればきっとまた会える」

 

 学部四年生の時に、指導を受けていた広大の教授が東大の教授に異動になった。宮本さんは先生を追いかけて東大へ行くことを決心する。研究対象はPM2.5と黄砂などエアロゾルと呼ばれる大気中の微粒子だ。地球環境や人体に様々な影響を与えるエアロゾルが、アジア圏さらには地球全体にどのような影響があるかを解明することを目指し、研究している。

 

 「東大の大学院に進学して上京したことは、私の人生での第二の転機となりました。上京してからのこの三年間は、これまでと比較にならないほどのスパンで新たなものや人に出会っているように感じます」

 

 そうした新しく出会ったものの一つが「柏の葉サイエンスエデュケーションラボKSEL)」だ。

 

―科学で地域活性化!ー

 「柏の葉サイエンスエデュケーションラボ」は、2010年に東大の柏キャンパス院生が、

「科学を通して地元の人と交流し地域を活性化したい」と始めた活動だ。現在では、イベントに参加してくれた人たちの中から会の運営に携わってくれる人も現れ、学生と合わせて20人ほどで活動している。昨年から宮本さんはその学生メンバーの代表になった。

 

 「私は広大時代にも、所属専攻が主催していた『サイエンスカフェ』のスタッフを経験していました。同じような活動がないかと、上京後にパソコンで検索してたまたま見つけたのが『柏の葉サイエンスエデュケーションラボ』でした。東京での、こういった活動を行う団体やイベントの多さには驚きました」

 

 KSELの活動の一つが、「理科の修学旅行 」だ。小3〜小6ぐらいの子どもたちを、20人から多い時には40人ほど、10名ほどのスタッフで、一泊ないしは二泊で山や海に連れていく。

 

 「子どもたちの好奇心に合わせてスタッフは走り回ります。基本的には自由研究で、子どもたちは自分で課題を設定して自分で研究します。中には帰宅後も家で研究を継続する子どももいます」

 

 「今年の夏も修学旅行するよ!」と宣言したら、子どもたちの眼がいっせいにキラキラしてとても嬉しかった、と宮本さん。

夏の修学旅行、集合写真

 

 

KSELでは、更に手作りの科学館「Exedra(エクセドラ)」を開館した。エクセドラとは、古代ローマ時代、貴族の舘の中庭にあった皆で座れる円形の椅子のこと。「科学に気楽に触れて語れる場所をつくりたい」というスタッフの想いから名付けた。宮本さんは副館長を務める。

 

 大家さんのご厚意で6室のアパートを無料で提供いただき、それをメンバーたちがDIYで改装。クラウドファンディングで目標額だった約60万円を寄付で集め、トイレ、水道を使えるようにした。水道工事は技術を持つ社会人スタッフが協力してくれた。科学館は今も改修工事続行中。宮本さんは、ほぼ毎週末、柏に出かけている。ありがたいことにメディアの取材も増え、つい最近では韓国のテレビ番組でも紹介された。

 

 10年後は地元神戸でも科学のコミュニケーション団体を作りたい。科学への好奇心を大人にも子どもにも広め、そのことで地域活性化の一翼を担いたいと思い描いている。

 

Exedra 館内の様子

 

 「長田時代は、とにかく朝から晩まで部活の水泳に打ち込む毎日でした。あの3年間以上に必死になってがんばったことは未だないような気がします。ちょっとくじけそうになった時や怠け心が出た時、当時を思い出すと『まだまだ頑張れる』と思います。高校時代は、自分の好きなこと、大切だと思えることに一生懸命に取り組んでください。その一生懸命さや自分の興味関心が、今はまだはっきりみえない未来を形づくって行くと思います。そして、その中で出会えた人を大切にしてください。人は何よりの財産だと、私は思います」

 

宮本さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2018年5月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 宮本さんたちが利用したクラウドファンディングは、偶然にも「Face to Face」No45

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=119 で紹介した富澤由佳さんが勤めるREADYFORでした。「Face to Face」の記事を読んで、先輩が務める会社だったと知ったそうです。

 また、No.70でご紹介した上杉さんhttp://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=174 とは同じ62回生の水泳部ですが、卒業以来、なかなか会う機会がなかったそうです。今回、この取材がきっかけで「久しぶりに連絡を取りランチしたいねと盛り上がりました 」と嬉しそうに話してくれた宮本さん。「縁」がどんどんつながり、若い世代のOBが新しい何かを造り出してくれそうで嬉しいインタビューとなりました。

 

 

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「Face to Face」(OB御紹介)記事一覧
長田OBの魅力と卒業後の人生の軌跡をお伝えします
メールはこちらから!
No75 高35回生 水谷和郎
「災害医療に導かれて」
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No74,高30回生 谷川直子
「エッセイストから小説家へ」
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No73 高62回生 宮本千尋
「大切なものを大切に」
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NO72 番外編 担当回生43回生ご紹介
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NO71 高28回生 伊藤裕二
「次の世に花開くものを見極める」
ーーーーーーーーーーーーーーー
No70 高62回生 上杉絢郁
「誰かの役に立つ喜び」
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NO69  高19回生 竹添昇
「挫折と挑戦」
ーーーーーーーーーーーーーー
N0.68 高54回生 竹内健太
「長田スピリットで志高く生きる」
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No,67 高44回生 村平進
「とらわれない」
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No,66 高62回生 小倉加世子
「道は未知」
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No,65 高26回生 陰山恭行(芸名 陰山泰)
「持てる個性を発揮する」
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No,64 高54回生 太田沙紀子
「一期一会」
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NO.63 高42回生永井伸哉
「全ては自分次第」
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No62 高35回生 荒木篤実
「ビジネスに命をかける」
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NO.61 高15回生 仲誠一
「為せば成る、為さねばならぬ何事も」
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番外編 NO.60  懇親会担当、42回生ご紹介
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No.59 高61回生 中野瞳
「うまくいかないからこそ面白い」
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NO.58 高17回生 中野正好
「美しいものが好き」
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NO.57 高30回生 伊達寛
「保続」
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NO56 38回生 金盛正樹
 「NEXT ONE」
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NO55.34回生佐藤絵里
「叩けよさらば開かれん」
ーーーーーーーーー
No.54 29回生水草修治
「生きる道を探して」
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No.53 41回生 藤井浩
「ふまれてもふまれても立ち上がれ」
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 No.52
 31回生 青木稔
「教師として生きるー亡き息子の志を継いでー」
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 No.51 番外編
 41回生奮闘記
 
No,50 高18回生 藤本隆

「我が道を行く」

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N0.49 高43回生 山田洋平

「聞こえないけど、聴き上手になる」

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No.48 高35回生 山田恭嗣

「人とつながり、自然とつながる共感」

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No.47  高19回生 石田幸司

「人生は気楽が一番!」

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No.46 高58回生 富澤美緒

「ものは考えよう。どんなこともなんとかなる!」
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No.45 高61回生 富澤由佳

「努力は素質を上回り、気力は実力を超える」
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No.44 高38回生 近藤稔和

「前へ」
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No.43 番外編「再会を果たす」
高43回生 田中英一郎
高43回生 伊藤利尋
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NO.42 高28回生 岩崎倫夫
「舞踏家として生きる」
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NO.41 高44回生 藤田咲子
「咲子が咲いた 『ブルームス』」

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NO.40 高40回生 小森伸昭
「思考し、変化し、成長し続ける男」
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NO.39 高62回生 谷山実希
「あきらめなければ夢はかなう」
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NO.38 高60回生 谷山雅美
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NO.37 高23回生 瀧和男
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NO.36 高36回生 山中勘
「おもしろい会社」つくったる
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NO.35 番外編 40回生担当幹事ご紹介
「なんとかなるやろ!」
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NO.34 高38回生 大志万容子
「日々を営む人の美しさを伝えたい」
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NO.33 高6回生 岩間一昌
  「人生はおもしろい」
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NO.32 高33回生 南山えり
「人生の流れには逆らわない。流されながら自分のできる精一杯のことをする」
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NO.31 番外編 吉地 恵(きちじめぐみ)
「行きあたり、バッチリ!」
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NO.30 高37回生 樋口博保
「一期一会」がおもしろい!
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記事一覧NO1(No.1〜N0.29まではこちらから)

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Face To Face No.72 番外編 43回生ご紹介

 

インタビューに答えてくださった43回生の皆さん。前列右から時計回りに、原さん、高橋さん、山田さん、高野さん、坂本さん、海山さん

 

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 6月9日に渋谷東武ホテルで開催される総会の今年のテーマが決まりました。

 

 「A mi manera

 アミマネーラ、人生を謡おう!」

(注 A mi manera スペイン語で私の人生)

 

 ゲストはスペインの笛吹き男、41回生の藤井浩さんと、東京オリンピック代表を目指す61回生の中野瞳さん。

 

〜人生は難しいことだらけ。でも、そのことを楽天的に楽しんでしまおう!〜

そんなコンセプトを決め、準備に邁進中の43回生の皆さんにお話を伺いました。

 

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 運命に導かれるように総会幹事となった面々!?その糸口は様々でした。普段は滅多に出ない家の電話を珍しく取ったら、先輩からだった人。フェイスブックをスクロールしていて、たまたま指が触って先輩に「友だち申請」してしまった人(笑)。所属事務所のHPから見つけ出されてしまった人!

 

 「正直なところ、最初はなんかちょっと面倒だなあと顔を出しましたが、メンバーが集まってみたら長田パワーが爆発。誰もが、何も言わないでも貢献しようとしてくれ、困った時にはだれかが助け舟を出してくれる。ただの飲み会では、ここまで深くぶつかり合うことはなかったと思います。高校生に戻った気分で、途中からは猛烈に楽しくなってきました」と口を揃える。

 

 写真のメンバーをご紹介。(前列右から右回り)

原さん:幹事長。学生時代のマドンナ。気配り名人で支えたい気分にさせられちゃう!

高橋さん:書記と裏リーダー?優しくて仕事が早くて完璧。

山田:企画。人脈がすごい。43回生だけではなく広く人と人を繋げてくれる。

高野:会計。優しすぎて、仕事を引き受けすぎる人!右腕も左腕も仕事が一杯(笑)

坂本:副幹事長。どっしり構えた縁の下の力持ち。みんなを見守りイザという時には出動。

海山:総合司会&シナリオ制作。要所要所でぐっとひきしめ、雰囲気を作ってくれる。

 

「今までの総会では、どうしても若い人たちの参加が少なめでした。でも、若い人たちにも神撫会東京支部への愛を育んでほしい。全ての年代の会員の皆さんが楽しめ、『長田の卒業生で良かった』と思っていただける、そんな総会を目指しています」

 

インタビューの後、更にメンバーが加わって、代々木公園でお花見を楽しんだ43回生の皆さんでした。

(2018年4月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

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Face To Face No.71「次の世に花開くものを見極める」

 高28回生 伊藤裕二

 垂水中学卒

 一年生までバドミントン部

 慶応大学法学部中退

 フォーラムエイト代表取締役社長

  

 

 

 フォーラムエイトは、構造物設計など、主に土木・建築設計を支援するソフトウエア販売会社だが、現在はバーチャルリアリティーなど、独創的な汎用ソフトの開発にも力を入れている。伊藤さんは2003年に第二代社長として就任。この14年間で売り上げを10億から33億に伸ばした。そこへ至る道のりと未来への展望をお聞きしました。

 

―助走期間ー

 端的に表現すれば「本好きのワル」な少年時代だった。小一と中一の時の担任の先生は、そんな伊藤さんを叱るだけではなく認め伸ばしてくれた。今もそのことに感謝し、いつかお会いしてご恩返しをしたいと思っている。

 

 家業は「船のエンジニア」。船のエンジニアとはいっても、船のエンジン等本体のメンテナンスではない。船は接岸するとクレーンで荷下ろしが始まるが、荷下ろしの荷役は100人ほどもおり、万が一、クレーンに不具合が起きて作業が停滞すると大損害が発生する。そのため、エンジニアは船のそばで作業を全て見守り、電気系・機械系のトラブルに対応する。

Watch」と呼ばれる仕事だ。日本全国の港へ、父は請われれば何処へでも赴いた。

 

 伊藤さんは、中学生の頃から父の助手として時に家業を手伝い、高校生の頃には、ちょっとした稼ぎになるほどになっていた。

 

 慶応大学法学部に進学した伊藤さんは、東京でアルバイトで生活費を稼ぎながら本漬けの生活を送るようになる。一冊50円ほどで買える古本を山のように買いこんでは、引きこもりのように本を読み続けた。だが、3年生の初めに大学を中退し、神戸に帰ってしまった。

 

 「東京で安い賃金でアルバイトして自分の生活を立てるのに疲れてしまったんですね。親父の仕事を手伝えば、月の半分も働けば自分の食い扶持ぐらいはなんとかなる。そう考えてしまいました」

 

 だが、そうは言ってもそれでは将来の展望はないと、サラリーマンとして働こうと思い直したのが22歳だった。

 

 「これからはコンピューターの時代だ。今、まさに旬の学問で、今から努力して勉強しても十分に追いつける」。そう考えて最初に就職した会社は2年で倒産してしまったが、次に入社したのが今のフォーラムエイトの前身となる会社だった。入社してすぐに第二種情報処理試験に一発合格。コンピュータープログラミングの分野に興味を持ち、更にプログラミングをやってみようと決意する。

 

―二度のターニングポイントー

 そんな伊藤さんが「人生の第一のターニングポイント」と言うのが結婚だ。社内恋愛・社内結婚・そしてすぐに長男の誕生と、今までの生活が一変した。守らなければならない家族が出来たことで、仕事へのモチベーションが否応なく上がったと言う。当時は給料も安く貯金もない。顧客から希望のあったソフトウエアを受託・プログラミングし、一件100万円位を2件こなして、それで結婚式と新婚旅行の費用を捻出した。

 

 「本当は、当時も副業は原則禁止だったんですが」。やっぱり当時も少しワルだったようだ(笑)

 

 第二のターニングポイントは、大阪支社の立ち上げ・経営を任されたことだった。大阪支社立ち上げは他の人に決まりかけていたが、たまたま社長がその話を持って来たときに担当者が留守だった。東京出身者は、実は大阪に行きたくない。自分は神戸出身で大阪に戻りたい。さっと手を上げ決まった。

 

 「私は当時、独立も少し頭にありました。しかし、売れそうなアイデアはあるが資金がない。大阪で事業立ち上げ、社内で『起業家』のように活動できたことが私の人生の第二のターニングポイントとなりました」。大学中退で会計の知識が全くなかった伊藤さんは、放送大学で「会計学概論」を学んだ。

 

 大阪に営業拠点を立ち上げ、更に福岡、札幌と国内展開していくなかで、いつしか大阪支社の売り上げは東京本社を超すほどに成長する。創業社長の引退にともない、代表取締役社長に就任したのは46歳の時だった。大阪時代の部下を7人連れて東京に戻る。以降、業績を三倍に伸ばしたのは冒頭で述べた通りだ。伊藤さんが入社時は16人だった社員も現在ではグループ全体で240名になる。

 

―これからー

 昨年、還暦を迎えた伊藤さんだが、まだまだ10年はしっかり活躍したいと思っている。

フォーラムエイトの強みは全てのソフトウエアが自社で開発されていること。「ブラック」なイメージの強いIT業界だが、フォーラムエイトは「ホワイト500」というホワイト企業の認定も受けた。健康スポーツ有給休暇や禁煙手当などの施策もスタートしている。

 

伊藤さんは一般社団法人コンピューターソフトウエア協会のスタートアップ運営委員会の委員も務める。

 

 「私は、結局、独立起業することはありませんでしたが、若い人たちの起業は応援したい。世界を変える革新的なソフトウエアを生み出すベンチャー企業を育成し、成功に導く支援事業です。資金面での援助と先輩としてメンターの役割を果たします。諸行無常盛者必衰。委員を務めるIT企業の社長の面々も、皆、大きな成功と失敗を経験しています」

 

 「私は高校時代に、友人と深く人生を語ったり考えたりすることはせず、楽しく遊んで時間を過ごしました。今振り返ると、それはちょっともったいなかったな、遠回りしてしまったなと思っています。現役生の皆さんには、ぜひ高校時代に深く思索してほしい。そう思いますね」

 

新婚当時は、10円の豆腐や、一パック10円の卵を見つけてきては、乏しい家計をやりくりしてくれた妻。息子二人も独立した今は、二人で旅行したり観劇したり、レストランでおいしいお酒と食事を楽しむ時間が至福の時だそうだ。

 

 

フォーラムエイトに展示されている電車運転のシュミレーター

フォーラムエイトHP http://www.forum8.co.jp/

 

20183月 取材・写真・記事 田中直美)

 

編集後記

フォーラムエイトにあるバーチャルリアリティーのジェットコースターを体験させていただきました。前後左右に動く椅子に座りヘッドギアのようなグラスを装着してスタート。ジェットコースターが苦手で、もう一生ジェットコースターに乗ることはないと思っていた私ですが、バーチャルなのでチャレンジ!バーチャルと分かっていても怖かった〜。途中で「もう降ります〜」と叫びました(笑)

 

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Face To Face No.70「誰かの役に立つ喜び」

 高62回生 上杉絢郁(あやか)

 舞子中学

 水泳部マネージャー

 慶応義塾大学総合政策学部

 JR東海 人事部

 

 

 

―走るマネさんー 

 とにかく、水泳部のマネージャーとして全力を尽くした長田時代だった。

 

 放課後の練習は、選手たちの練習メニューをマネージャーがホワイトボードに書くことから始まる。

 

 メニューを決めるのは、顧問をされていた谷川先生と明部先生。上杉さんは、お昼休みになると職員室に飛んで行き、とにかく先生がメニューを作ってくれるまで粘った。「メニューを作らないと、上杉は帰ってくれないからなあ」と苦笑しながら先生は作って下さる。このために上杉さんは毎日お弁当を午前中に早弁し、選手が放課後の練習をすぐに始められるよう備えた。

 

 マネージャーの最も大切な仕事は選手たちのタイムの測定だ。25mプールのスタート地点でじっと立ったまま測定しても、おおまかなタイムは測定できる。だが、それではターンのタイミングは水しぶきで判断するしかなく、壁にタッチした瞬間で計測される実際の競技とは微妙にずれる。

 

水泳は、選手のひとかきひと蹴りがタイムに影響を与える繊細なスポーツ。何秒で25m地点を折り返したかを選手自身が正確に知ることが練習にはとても重要になる。そのため、上杉さんは得意なダッシュを武器にプールサイドを走り、壁にタッチした時間を正確に計測した。 夏の一日練習では、上杉さんがプールサイドを走る距離は数キロにも及び、たくさん転んで、足は傷だらけになったと言う。

 

 タイム計測と同時に、練習中の選手に泳ぎだしのタイミングを伝える仕事もこなさなくてはいけないが、これをタイム計測と同時にこなすのが難しい。練習はレベル別の基準タイムをもとに進められる。たとえば、A,B,Cのグループで、それぞれの基準タイムが35秒、40秒、45秒だとすると、それぞれ35秒、40秒、45秒おきに選手が泳ぎ始める。選手の横を小走りに走りながらタイムをとり、さらに、その基準タイムには声を出して次の泳ぎ始めのタイミングを知らせる。

 

 最初はストップウオッチ1個から始め、最終的には、時間計測用のストップウオッチ3個、タイム用のストップウオッチ3個の計6個を持って走り回った。

 

 「走るマネさん」と選手たちから慕われ、大事な試合では「一緒についてきてほしい」と選手から声をかけられた。その時の嬉しさは忘れられない。

 

―学生トレーナーー

 大学入試の進路では、初めて親に逆らって自分の意志を通した。地元の国立大学に行って欲しいと言う両親の希望には添わずに、東京の私立大学を選んだのだ。

 

 長田の「情報」の授業で新鮮な驚きを感じ、ぜひプログラミングを勉強したいと思った。だが、文系でプログラミングが学べるのは、当時は慶應義塾大学だけだったのだ。

 

 両親の反対を押し切った形の上京だったため、両親の援助を頼らず自活することとなった。最初に東京に出て来たときは、「冷蔵庫も洗濯機もなくて、部屋は真っ白な小さな箱でした」。アルバイトして少しずつ揃えていけばいい!そう考えていた。

 

 大学一年生の時は、アルティメットサークル(フライングディスクを使った競技)でプレーヤーとして活動していたが、長田高校での「人を支える喜び」の経験が忘れられず、競走部(慶應では陸上部のことをこう呼ぶ)にマネージャーとして入部する。

 

 当時の競走部は、後にリオ五輪で銀メダリストになった山縣亮太選手や、リオパラリンピックで100メートル、200メートル、幅跳びに出場した高桑早生選手も在籍していた。

選手のサポートをお願いしていたプロの女性トレーナーはいたが、140名の選手全てを管理することは厳しく、怪我が絶えなかった。

 

 「他校にはある学生トレーナー制度を確立して、なんとしても、怪我をしないで選手たちを試合に出させてあげたい」上杉さんは、同期の男子部員と共に、「学生トレーナー制度」を立ち上げることを決意する。

 

 最初は紙ファイルで140名の身体や怪我の様子を管理していたが、より管理しやすいシステムとして、怪我の記録、筋肉の動きを計測した数値、食事の記録をタブレットで簡単に入力できるようにした。

 

そして、学生トレーナー制度を後輩に受け継いでいくための教材も作成した。少なくとも10年は続く体制を作り上げたかったから。卒業後も上杉さんとご同期が立ち上げた学生トレーナー制度は継続し、設立から7年目に突入している。

 

 最後の引退試合でサポートしたトレーナたち

 

JR東海ー

 現在、上杉さんはJR東海の人事部で働き、採用担当として日本中を飛び回っている。祖父は、一生を国鉄にささげ、こだま0系の開発に尽力した人だった。祖父危篤の報に新幹線に飛び乗った上杉さんは、「おじいちゃんが作った新幹線のおかげで間に合ったよ」と心の中でつぶやいた。こうして今自分がJR東海で働いていることを祖父は知らずに亡くなったが、何かご縁があったのかなと思っている。

 

 上杉さんが、今一番尊敬しているのが、先輩の新幹線運転士さん。「常に相手以上に相手の立場に立って、思いやりのある言動のできる人です」

高校や大学での経験を通じて、人を支えることの楽しさを実感した。自分がどんな立場に立っても人の心を温められる、そんな大人になっていきたいと思っている。

 

 「今を全力で楽しんで、長田高校で起こる人との出会いを大切にしてください。今しかできないことや、今しかできない繋がりを大切にしたその先に、きっと皆さんが目標とする誰かや、なしとげたい何かが待っていると思います」上杉さんから現役長田生へのメッセージだ。(20182月 取材・文・写真 田中直美)

 

編集後記

 インタビューの終わった後の雑談で、「『Face to Face』の取材って楽しそうですねえ」と上杉さん。「めっちゃ楽しいですよ!一対一で深いお話をしっかり聞くことができるし、なんでも質問できる」と私。「私もやってみたいなあ」「大歓迎!どんどんライターとして参加してください!」

 

 という訳で、上杉絢郁さんにも、これから記者として登場していただくかもしれません。もし、オファーが来たときには、このかわいい後輩をよろしくお願いします!そして、引き続き、私のこともよろしくお願いいたします。

 

 

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Face To Face No.69「挫折と挑戦」

 高19回生 竹添昇

 垂水東中卒

 ESS

 鳥取大学農学部卒

 日本ハム代表取締役社長(2014年)

 

 

 2014年まで、日本ハムの代表取締役社長を務めていた竹添さんは、慣例には従わず会長の席には就かなかった。いさぎよく引退。現在は体重も7キロ落として40年前の体重に戻った。身も心も軽くなって孫と過ごし、ギターの弾き語りの腕を磨く。第二の人生を謳歌している竹添さんだが、その半生は「挫折と挑戦の繰り返しだった」と言う。

 

―ハムレットー

 「竹添君、今のままではあかんよ。何か得意なもんみつけなさい」。高校一年生の時、担任の先生にそう声をかけられたことがESSに入部したきっかけだ。中学時代から英語が得意だったが、長田の先輩が演ずる英語劇「ヴェニスの商人」を観て「これだ!」と入部。2年生時、シナリオリーディングのコンテスト出場で主役のハムレットに抜擢され、がぜんやる気に火がついた。幼少の頃よりシャイだった竹添さんだが、大声を出せるよう、夏休み中は校庭で発声練習。そして、最優秀男優賞を受賞。これがきっかけで人前でも大声が出せるように変わった。

 

 だが、なにより学んだことは「ハーモニー」の大切さだ。一人で劇はできない。一人が目立ってもいけない。「調和の大切さ」にも気付いた高校時代だった。

 

TMC

 得意の英語を生かしたくて外大を受験したが失敗。予備校に通う中、理転して農学部に進んだ。ここで入部した「軽音楽部」で積んだ経験が人生の第一のターニングポイントとなった、と竹添さん。

 

 英語の発音には自信のあった竹添さんはヴォーカルをつとめた。毎年、市民会館の音楽ホールで定期演奏会が開かれ、大勢の観客の前でしゃべりを入れながら演奏する。

 

 「観客の顔が見えるんですね。何を話したら、どんなアクションしたら受けるか、直に感じられる。この時に体得したコミュニケーション能力が、後の会社生活に役立ちました」

 

 仲間とは何度も喧嘩したが、活動は最後まで続いた。TMC(チームワーク・メンバーシップ・コミュニケーション)。これが大学時代の音楽活動で得た大きな財産だ。

 

 音楽活動に力を入れ過ぎた竹添さんは就職活動に出遅れてしまった。みかねた研究室の教授が薦めてくれたのが日本ハムだ。まさか社長になろうとは考えてもいなかったが、これが運命の始まりだった。

 

―入社26年目の大転換ー

 「僕は、なぜか最初は希望していたものを『ダメ』とはねられてしまうんですよね」

 

農学部出身の竹添さんは研究室を希望していたが、配属はルート営業だった。配達と集金。マンネリ化した仕事に面白みはあまり感じられない。主任になったのも同期の中で一番遅かった。だが、自ら新規顧客開拓部門に異動を願い出た。入社して10年目の1981年には、大学で研究した食品化学の専門知識を生かせる取引先を任せてもらえ、ヒット商品の開発にも成功する。同じ年、日本ハムファイターズがリーグ初優勝で売り上げも爆発的にアップ。幸運だった。このまま営業の叩き上げで定年を迎えると思っていた時、まったくの畑違いである管理部門である統轄室に異動になった。竹添さんが50歳の時だ。

 

50歳の学び直しー

 「まず、財務諸表の壁にぶちあたりました。BS(貸借対照表)もPL(損益計算書)も何のことかさっぱり分からない。密かにビジネススクールに通い、30代の若者に交じって経営戦略を独学しました」。

 

マーケティング、ブランディング、経営戦略。仕事を終えた後、夜間の授業に通った。「今思えば、楽しかったですね」。学んだ知識を生かして経営企画部門を担当。経営計画策定や新規事業立ち上げを行った。

 

その4年後、日本ハムを激震が襲う。日本ハムグループ子会社が「牛肉偽装事件」を起こしたのだ。

 

―再生ー

 取引先からは取引停止を、行政からは営業自粛処分を受け、会社は存亡の危機に陥る。

 

 「会社を変えてやる!会社を必ず再生して見せる!」そう決意した竹添さんは、たった一人で対策本部を立ち上げ、各部門から若手を引き抜いて、会社再生の責任者となった。

 

 この時、竹添さんは、長田ESS時代の辛い英語劇の練習や、大学時代のバンドで培ったメンバーシップを思い出し、不思議と悲壮感はなかったと言う。

 

 この再生劇は、過去、ビジネススクールのケーススタディにもなったほどである。

 

 閉鎖的組織の撤廃と業績至上主義の解消に没頭した後は、ブランディングを実施。関係会社90社、28,000人の従業員全てが価値観を共有するグループブランドを策定。ブランドステートメント「人輝く、食の未来」を社内外に発表しグループの求心力を高めていった。

 

 続く2006年からの3年間は構造改革に着手すると共に、品質NO1をめざし品質の保証体制を確立、2009年からの3年間は副社長として、事業の選択と集中をより積極化、財務体制の強化に乗り出した。食肉の飼育・処理加工・物流・開発・営業・お客様サービスまでの一貫した事業の垂直統合も完成させた。

 

 2012年に代表取締役社長に就任した後は、守りの経営から攻めの経営へ。食肉業界では、初めて株主重視のROE経営を宣言。就任中に株価を三倍にした。

 

 「米国・欧州・アジアを往復しての、海外投資家向けの広報活動では、長田ESS時代の英語能力が活かされました」

 

―道ー

 大学入試では、得意の英語の道に進めなかった。就職活動も出遅れた。希望だった研究職には就けず営業に回された。50歳にして突然、畑違いの部署に異動、そして会社の存続をゆるがす不祥事の発覚。

 

 平坦とは言い難い道だったが、モットーは「言い出したものがやる、先ず自分がやる」という意味の「先ず隗より始めよ」

 

 「いつかまた人前で歌うことを目指して、密かにギターの弾き語りのレッスンを続けている」竹添さん。その歌声を聴いてみたくなりました。(20181月 取材・文 田中直美)

 

編集後記

 竹添さんは、インタビューの間中、とても静かな声で、丁寧に分かりやすくお話してくださいました。人前で大声を出し、強烈なリーダーシップを発揮していたであろう社長というよりは、シャイだったという少年時代を彷彿とさせられます。いつもはカメラを持参して現在のお写真を掲載するのですが、今回はカメラを忘れ、竹添さんが現役時代のお写真をお借りしました。プロフィール写真とギターを弾く竹添さん。その雰囲気の違いに注目してくださいね!

 

 

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「Face To Face」NO.68長田スピリットで「志高く」生きる

 高54回生 竹内健太

 舞子中学卒

 野球部

 早稲田大学政経学部卒

 ペンシルバニア大学ウオートン経営大学院卒

 モルガン・スタンレー証券会社

 ビズリーチ

―学生時代の起業―

 今でもよく覚えている。高校3年生の時新長田のローソンで立ち読みした経済雑誌。「日本の大都市の中で神戸の財政状態が一番悪い」との記事。ショックだった。「経済に強い政治家になって、愛する神戸の財政を再建するんや!」今につながる志を立てた人生の転機だったと竹内さんは言う。

 

 政治と経済の両方が学べると考え進学した早稲田の政経学部だったが、学問としての経済学だけではなく実務に触れたいと大学3年生時に起業する。「企業や病院の空きスペースに保育所を作る」という福祉系のコンサルティング会社だ。全国で保育所を100ヶ所あまり経営している会社の社長と、不動産会社の社長が、合わせて3千万円を出資してくれた。

 

 「企業や病院には、従業員への福利厚生としての保育所のニーズがあり、敷地もある。けれど保育所運営のノウハウはない。出資してくださった会社には保育所運営のノウハウがある。それを結びつけました」

 事業として成立し、その会社は今も存続しているが、竹内さんは「将来の夢のために、経済の最先端で働いてみたい、もっとグローバルな仕事も経験してみたい」との思いから、同社を共同経営者に譲り、自身は外資証券会社のモルガン・スタンレーに新卒入社した。

 

―外資金融機関で働く―

 就職して2ヶ月目に、父が病により亡くなった。49歳の若さだった。23歳で喪主を務めた竹内さん。母、大学生の弟、高校生の妹、中学生の弟。この家族の生活を守る責任が、長男である竹内さんの肩にかかった。

 

 「不幸中の幸いとして、一般的に給料が高いとされる外資系金融機関に勤めましたので、とにかく必死で働いて、家族の生活費と学費を稼ぎました長田の後輩で、当時は大学生だった弟が、難関を突破して同じ業界の内定を取ってくれた時は、家計の担い手が増えると思い、非常に安心しました」。

 

 外資での仕事は「非常にハードで、まるで軍隊のようでした」と笑う。毎日夜中の三時過ぎまで仕事した。上司も平気で一時過ぎまで仕事する。日経新聞の一面を飾るような大きな案件を何件も担当させてもらった。「非常にやりがいを感じていましたが、今振り返っても、我ながらよく頑張ったなあと思います」。モルガンで5働いた竹内さんは、米国政府の奨学金試験に合格したのを機に退職。トランプ大統領も学んだペンシルバニア大学ウォートン・スクール2間の予定で進学した。

 

―米中への留学と初めての転職―

 米国で学んで一年。夏休みで一時帰国していた竹内さんに「株式会社ミクシィ再建を手伝って欲しい」との依頼が同社の社長となっていた友人から舞い込む。ミクシィ往時こそ破竹の勢いを誇っていたもののFacebookが日本を席巻してからは、業績が落ち込んでいた。

 

 本業のSNSでの挽回ではなく、新規事業であるスマホゲームでの成長牽引にミクシィは舵を切る。これが大当たりして株価は20倍に。経営企画室長として、一連の事業転換に関与した竹内さんは役目を果たし、1休学していた大学院に復学する。米国で学びながら中国語も勉強していた竹内さんは、最後の半年間は交換留学生として北京大学光華管理学院学び合計2年間の経営学修士課程を終えてウォートン校を卒業した。

 米国留学中のクラスメートとの年末パーティーでの一コマ
 

―忘れ難き卒業旅行―

 記念の卒業旅行の行き先として選んだのは、なんと北朝鮮だった。北朝鮮の国境までは中国の旅行社の人が付き添い、国境を超えると、竹内さん一人に日本語ガイド二人と運転手の計三人の北朝鮮の人が付き添った。

 

 三人は、ガイドしてくれている間中、日本、米国、韓国の悪口を言っていたものの誠実に仕事はこなしてくれた。純朴な人柄で、聡明でもある彼らに対して、竹内さんは意外な好感を抱いた。

 

 「僕は20歳の時、神戸市での成人式の集いで、横田めぐみさんのご両親のを聴きました。拉致問題に対しては強い怒りを感じる、現地で出会った北朝鮮人は親切にしてくれた。『拉致問題の解決なくして、日本北朝鮮国交を回復することは絶対にない。大っぴらに語れないかも知れないが、問題が解決するよう、心の中だけ良いから皆さんも祈ってください』と、どうしても伝えたかった」

 

そのチャンスを作るために、三泊四日の旅の終わりに、竹内さんはチップを少しはずみ、手渡しながら気持ちを直接伝えたと言う。

 

北朝鮮旅行中のガイドさん達との写真

―事業で社会問題を解決する―

 帰国後は、急成長ベンチャー企業であるビズリーチに、創業者から誘いを受けて入社。社長室長、管理本部長を経て、現在は事業承継M&Aプラットフォーム事業である「ビズリーチサクシード」推進している。

 

 「中小企業の後継者問題は日本の未来を左右する大問題です。多くの従業員を抱えつつ、黒字も確保している優良企業が、後継者問題で廃業に追い込まれる。これは日本の宝の損失と言えます。『価値ある事業を未来につなげる』。これが、僕達の事業のミッションです。個人的にも、これまで学んできたことを全てぶつけるつもりで取り組んでいます。」

 

―吹き込まれた「無限の可能性」―

 長田時代の野球部の監督、大津先生は、竹内さんの人生に大きな影響を与えた人だと言う。

「お前たちは無限の可能性を持っている。甲子園に行って、東大に行って総理大臣にだってなれる!」

 

 「だいたい似たようなレパートリーで、本当に毎日毎日吹き込まれました。ほとんど洗脳です(笑)。同じ流れをくむ野球部の後輩が、昨年春の甲子園に出場してくれた時は本当に感動しました。もちろん、有給を取って応援しにいきました。」

 長田野球部初の甲子園出場を、同期と応援しに行った際の記念写真
 

 会社ではジム部に所属し、若い同僚達とともに筋トレで自分自身を追い込んだ後に、仲間と一緒にサウナで語らう時に幸せを感じると言う。高校時代の野球部のノリを思い出すからかも知れない。

 

 「高校の友だちは、一生の友だちになります。未熟ゆえのぶつかり合いもあるかもしれませんが、隠し立てなく何でも話せる仲間をしっかりと見つけてください」。ビズリーチで辣腕を振るう人事部長は、竹内さんが他社から招聘した長田の同級生だそうだ。

 

 10年後には神戸出身者を代表する経営者の一人となっていたい。そして、最終的には公職に就いて、神戸の発展に尽くしたい。所詮すべては人間がすること、必ず実現できると信じている。201712月 取材・写真・文 高28田中直美)

 

編集後記

 まだ33歳でこれだけの経験を積み、常に前進している竹内さんにとても驚きました。ドメスティックな保育所事業からスタートし、グローバルな世界に飛び出て、今また、日本の将来を見据えて事業展開をする。公私ともに「なんにでもなれる!」未来を進んでください。応援しています。

 

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「Face To Face」NO.67「とらわれない」

  高44回生 村平進

 王塚台中学卒

 吹奏楽部 生徒会長

 名古屋大学工学部

 税理士法人 大樹

 コンサルティング部部長

 

 ―変化―

 大学卒業後現在に至るまで、村平さんは5回転職している。アスクル、ブックオフ通販子会社、堀江さん逮捕前のライブドアなどで働いた。

 

  アスクルではIPO前後の勢いのある会社の雰囲気を肌で感じた。お金によって「感情」が動かされて理性的な判断を狂わされる場合もあると昔から感じていたが、その現実と向き合うきっかけともなった。

 

 「損得というものはとても分かりやすい。でもそれ故に、本来、理性でなされるべき意思決定がゆがめられることがあります。『損してもいい!』と言い切れる人は少ないのです」

 

 そしてもう一つ学んだことが、職場という環境を変えても、自分の内面を変えない限り何も変わらないという現実。「何回も転職しないと分からないというのもどうかとは思いますが(笑)」

 

 「自信ありすぎで生意気な自分(笑)」を変えるという意味ではない。人には人それぞれの別個の価値観があるということに気付いたということだ。きっかけは「性格分析」の手法の一つ、エニアグラムに出会ったこと。

 

 そこから出てきた結論が「とらわれない」という生き方だ。

 

「自分の価値観や理屈、感情にとらわれず、なぜ、相手がそう考えるようになったのか?じっくり耳を傾けると、そこにはその人の人生経験に裏打ちされた思考回路があり、なるほどなと理解できる。さらにその人の人生を追体験することで、今度はその人の思考回路でも考えることができるようになるのです」

 

 自分の思考回路だけが正しいのではない。人それぞれであることに気付けた。これが「とらわれない」生き方の原点となった。

 

―橋渡し―

 現在、名古屋の税理士法人「大樹」でコンサルタントとして働いている村平さん。顧客である中小企業のオーナー社長の「人としての生き方・魅力」と「経営」の整合性がとれるよう橋渡しするのが仕事だ。

 

 「中小企業の場合、経営は、社長にとっての『自己表現』という側面と、『利益を生み出して継続させていく』という二つの側面があるんですね。前者は企業理念として言葉で表現されています。でも、経営者としては、『利益をあげる』ことを優先してしまう場合も多いのです」

 

 経営者の人間的な側面に惹かれて入社した社員は、経営者が「利益にこだわった」行動をとったとき、社長の二面性に裏切られたように感じ失望すると村平さんは言う。

 

 相手の価値観を追体験する村平さんには、社長の胸中が自分のことのように見えてくる。

 たとえば止むを得ず賃金カットを断行する場合、「現況、賃金カットは必要。それでも若い従業員にはほんの少しでもアップしてあげたい。がんばった人には報いてあげたい」そんな想いを言葉にして社員に伝えたり、また反対に、とかく結果の数字のみが重視される風潮の中で、中小企業ならではの「プロセスの重視」で、従業員のがんばりを社長に伝えたりもする。

 

―広がるー

 なんのためにこの時代の日本に生まれ、この仕事をしているのか?と自問している間に、自分の中で「世界平和のため!」という壮大な目標が浮かんだ。いつもそれを言葉に出して得意先企業の社長さんたちにも話している。

 

 「初めはどの社長にも『世界平和なんて』と失笑されてしまいます。でも、あるタイミングで、ビジネスの先に世界平和が感じられることがあるんです。そうすると、失笑していた社長自らが『世界平和のために私たちのビジネスは・・・』とお話して頂けるようになるんですね。ビジネスは世のため人のために行われているもの。そうなることが自然だと思っています」

 

 飲み食いしながら楽しく会話するのが好きだ。自分の琴線に触れてくるものにはどんどんチャレンジすることにしている。今は茶道にはまっている。ついた師匠は「お道具」の達人。茶碗、水差し、棗。それぞれのお道具の制作技法の分析から、その歴史的背景にまで発展していく師匠の洞察に魅了されている。

 

 最近思うのは、「自分に見えている相手の姿は実は自分の姿だ」ということだ。自分と言うフィルターを通して相手を見る。相手の優しさに気付けたら、それは自分の中の優しさの合わせ鏡。自分にとっての辛い経験も、相手の中にある「辛さ」に気付き共感できるようになると知った。

 

「自分の可能性を信じて自分の限界に挑戦してください。そしていつか自分の限界を感じてください。実は自分の限界に至ったときから“新たな自分の可能性”が広がります。そしてその“新たな自分の可能性”には長田高校で過ごした事が大きく影響してきます。自分の可能性を信じ、限界に挑戦してくださいね!」これが、今の村平さんから長田現役生たちへのアドバイスだ。

201711月 取材、文、写真 田中直美)

 

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―編集後記―

 村平さんは身長184センチ。とても姿勢が良くて声が大きい。そして自称「お話し好き」。明るくて楽しくて一緒にいると相手のテンションも自然に上がってくる感じがすばらしいと思いました。これからも、何にも「とらわれず」に、きっとご自分の世界を広げていかれると思います。

 

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