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Face To Face No.78「宇宙全託」

 高31回生 寺門孝之

 垂水東中学卒

 映画研究部

 大阪大学文学部美学科卒

 神戸芸術工科大学教授

 

 

 

大阪大学工学部に入学しながらも、現在は神戸芸術工科大学教授を務め、画家として数々の作品を発表し続ける寺門さん。そのモットーとする言葉は「宇宙全託」。この聞きなれない言葉は寺門さんがかつて仕事上、お付き合いのあった某会社の社長の座右の銘であったとのこと。その言葉が自らの人生の指針となるに至った、不思議なお話を伺いました。

 

―学生時代ー

 イラストレーターの宇野亜喜良の絵が大好きで、一生懸命トレースしていた小学生の寺門さん。いつかは自分の絵で世に出てみたいと思っていた。長田時代は映画の自主制作に没頭した。大森一樹監督や石井岳龍監督が活動し始めていた頃で、寺門さんは8ミリフィルムでの撮影、脚本執筆、編集、チラシ制作など表現活動に没頭した。

 

 大学入試直前になって美術系大学を受験したいと打ち明けたが、担任教員にも両親にも「そんな話は聞いていない、今からでは絶対に無理」と反対され、ならば一年浪人して美大を受けようと心密かに決めていたところ、現役で大阪大学の工学部に合格してしまった。入学はしたがやはりしっくりこず、3年進級時に文学部美学科に転部転科。だが、そこでも美術史を研究するだけで「描く」わけではない。東京に出て絵の実制作を学びたい! そのためにも、一人息子である自分は、まずは大学をきちんと卒業して両親を安心させねば。

 

 「ちょっとした『めくらまし』ですよね(笑)」。卒業が遅れそうだった寺門さんは、信頼を得るため猛勉強してなんとか4年で大学を卒業。両親の許しも得て上京した。

 

―セツ・モードセミナーー

 上京した寺門さんは、数々の美術学校を見学する。生活費は自分で稼がなくてはいけないので夜に授業を受けることにしていた。

 ある夕暮れのことだ。不思議な、とてもセンスのよいファッションに身を包み、絵の道具を抱えた人々がおしゃれな建物に吸い込まれるように入っていくのを見た。そこは日本のファッションイラストレーションの草分けであり、水彩画家としても独特の繊細でファッショナブルな画風で知られる長沢節が主宰するセツ・モードセミナーだった。

 

 引き寄せられるように建物に入った寺門さん。受付には、今までに見たこともないような美青年が座っていた。「資料が欲しいのですが」と言うと「ちょっと待って下さい」と言われた。

 

 「そして彼は、いきなり半ダースほどの鉛筆を取り出して、それをカッターで美しく削りだしたんです。そして削り終わった鉛筆をトントンと揃えて、『で?』と言ったんです。なんなんだ!この特別な雰囲気、美意識は?」こうして寺門さんはセツ・モードセミナーの夜間部に週三回通いながら、昼間はアルバイトする生活に入った。

 

―声ー

 長沢先生は細かいことは一切教えない。生徒たちが描いた絵を見て講評だけをする。初めての講評会で寺門さんの絵を観た先生は「君は写真か、映画をやっていたのか?うん、そんな感じだな。だが、絵の構図は写真とは違う。絵では水平線は傾けてはだめだぞ」と言われた。なんだかまだ分からないがこの先生はすごい!そう直感した。「この先生について行こう。」 だが、その後、寺門さんの絵はなかなか評価されることがなかった。寺門さんは落ち込んでいく。やがてアルバイトも辞めてしまい、昼間は寝て過ごすような自堕落な生活を送り始めた。

 

 アパートの万年床で昼間まで寝ていた寺門さんは、突然、耳元で声を聞いた。電話線を通したような少しカサカサした女声だったが、はっきりとこう言った。「新聞を買いに行け」。

 

 「その声に、反応しちゃったんですね。え??新聞?どこに売ってたっけ??」

 

―コンピューターグラフィックスー

 近くのコロッケ屋さんで新聞も売っていたことを思い出した寺門さんは、新聞を買いに走る。以前は求人広告を見るために新聞を購読していたが、それも止めて久しかった。自然と求人広告に目が行く。「イラストレーター募集。経験不問」の文字が目に入った。

 

 「上京当初、求人広告に掲載されているイラストレーター募集では、電話すると、必ず『経験は?』と聞かれ、『経験はない』と答えるとそれで門前払いでした。なので、すぐに電話しましたね。本当に経験不問なんですか?と尋ねると、絵はやっているんだよね?と聞かれ、その絵を持ってきてください、と言われたのです」

 

 銀座の小さなビルを訪ねた。「株式会社シフカ」は来るデジタルネットワークの時代にいち早く目をつけた若い経営者が設立したてのデジタル画像制作会社だった。

 

 画材はコンピューター。給料ももらえる。そして工学部出身の寺門さんは、ドットで描いていくコンピューターグラフィックスの創成期に馴染むのも早かった。

 

 「大手企業も、来るデジタルコミュニケーションの時代にすでに備えようとしていました。螢轡侫は大日本印刷が一大クライアントで、僕は大日本印刷の研究所のようなところで、次々を開発されてくる日進月歩の技術の最先端で思う存分画像制作をやらせてもらいました」

 

 一年が過ぎた頃だ。ある朝、寺門さんは夢を見て目覚めた。

 

―不思議な夢ー

 「そこに洞窟があるのです。おずおずと入っていく僕。そうすると前方にたくさんの人がいて『ブラボー!』と拍手喝采で僕を迎えてくれる。その先には白い3つの額縁。目覚めた時、なんとも言えない高揚感と幸福感が私を包んでいました」

 

 その日、セツ・モードセミナーに行くと「日本グラフィック展に出品するよね?」と友人に声をかけられた。「日本グラフィック展」は5000人もの人が応募するグラフィックアートの一大登竜門で、歴代、大賞は日比野克彦・谷口広樹はじめ東京藝術大学出身者が独占していた。

 

「なんだか、僕は大賞とれるんじゃないか?そんな気がしました。夢に出て来た白い額縁を散歩コースの画材屋さんで見た気がする。さっそく買いに行くと、売り切れで今はないが注文したら一週間で出来ると店主が言う。すぐに注文して、一週間不眠不休で作品を仕上げました」

 

 大賞発表当日、寺門さんはあんなに自信があったのに、怖くて発表をなかなか見に行けない。時間ぎりぎりになってタクシーを奮発して発表会場のパルコに駆け付けた。そのパルコの駐車場入り口がまるで洞窟のようだ。その奥には大勢の人がつめかけており「遅かったじゃないか!待ってたよ!」と声がかけられた。膝がガクガク震えた。大賞受賞だった。

 

 「セツ・モードセミナーが藝大旋風にストップをかけた」と新聞に紹介された。

 

第6回日本グラフィック展大賞受賞作品「潮先」1985年 水彩紙にアクリル絵の具

 

 

 

―宇宙全託ー

 大賞を受賞した寺門さんはその1年後螢轡侫を退職し、以降、フリーランスで活動している。

 

30歳で結婚した寺門さんが、生活資金に窮して銀行に記帳に行ったら、なぜか数十万円のお金が振り込まれている。何年か前の仕事で未払いになっていた賃金が振り込まれていたのだった。

 

「これはきっと、まだ絵の仕事続けていいっていう、宇宙からのお知らせよ」と妻が言った。それ以来、「宇宙全託」という言葉が寺門さんの心の中に響いている。

 

―天使ー

 2014年から、寺門さんは新しい手法で描く天使の絵のシリーズを発表し続けている。リトアニアリネンという麻布をキャンバスにし、まず表から絵を描く。次に裏返して染みた絵具の上に描く。また表に返し、そして裏に返し、その作業を納得のいくまで続け、最後に気に入った側に一筆入れて仕上げる。どうやって描いたのは分からないような、そんな絵を描き続けたい。

 

 

「FONTANA」2018年 リトアニアリネンにアクリル絵の具その他

 

「高校生の前の中学生。その前の小学生。その頃に、理由も分からずに好きになったものや人と、その後の人生で必然のように出会いました。今この時、好きなことをずっと忘れないでいると、いいことがあるかもしれませんよ!」

 これが不思議な体験の中から自分の道を見つけ出した寺門さんから現役長田生へのアドバイスだ。(201810月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

編集後記

 展覧会会場にてインタビューをさせていただきました。寺門さんの天使の絵に囲まれながら、穏やかな声で話す寺門さんのストーリーを聞いていると、不思議とその場面場面が映画のように私の頭の中で映像化されます。寺門さんを推薦してくれた同期のH君の話によると、寺門さんのオーラは長田時代から「半端なかった」とのこと。インタビューが終わるまで、辛抱強く寺門さんをお待ちになっていたファンの方もおられ、その人気の一端を見た思いでした。絵の方はちょっと手がでなかったので、テラカドオリジナル、素敵なピンバッチのセットを私も購入しました。プロフィール写真の襟元にご注目です!

 

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Face To Face No.77「楽しいは強い」

 高54回生 鈴木美央

 伊川谷中学卒

 バスケ部マネージャー 

 早稲田大学理工学部建築学科卒 

 英国 Foreigin office Architects

  慶応大学大学院理工学研究科博士後期課程 博士(工学)

  

 

 

経験は種ー

 美央さんは、整形外科関連の疾患により小学生の頃から通院を行い、中学で1回、高校で2回手術を受け、その度に三ヶ月の入院を余儀なくされた。子どもの頃は、白くて古くて研究室のような病院が怖くて足がすくんだ。だが、高校生になると疑問を感じるようになった。「本来、人を癒すためにある病院なのに、辛い人をよけい辛くさせるような建物でいいの?」

 

 小学5年生で経験した阪神淡路大震災も、美央さんに大きな影響を与えた。住居のあった西区は比較的被害の小さな地域ではあったが、それでも新幹線の橋げたが落ちているのを目撃し、家が潰れて亡くなった人のいることを見聞きした。「本来、人を守るはずの建築物が人を傷つけていいの?」

 

 この二つの経験を「負の遺産」にしたくない。この経験を生かしていきたい。人の生活に建築は大きく関わっている。私は「建築」を使い、たくさんの人が笑顔になる空間を作っていきたい。

 

 こうして、美央さんは大学の建築学科に進学した。大学在学中に、完成したばかりの「横浜の大さん橋」を観に行った美央さんは衝撃を受ける。全てが穏やかな曲線で表現された大さん橋は、見事に横浜のランドマークと調和し、人々は幸せそうに散歩していた。

「大さん橋」を設計したのがイギリスの設計会社だということを知った美央さんは、そこでインターンシップとして働かせてもらおうとイギリスに渡る。

 

―チャレンジー

 「建築業界では、学生がアルバイト的に設計事務所で働くことは『オープンデスク』と呼ばれてごく普通のことでした。だから私もアルバイトでもいいから憧れの建築家の元で働くことができればと思っていたのです」

 

 ところが美央さんの人生はここで大きく変わる。応募してみるようにと勧められた高層ビルのコンペで勝ってしまったのだ。コンペ時のプロジェクトの主要メンバーはたったの三人。30代半ばのオーストリア人とスペイン人、そしてまだ23歳の美央さんの三人のチームだった。

 

 その事務所には、その事務所で働きたい人たちが世界中から集まっていた。そして、その集まった若い人たちに全面的に仕事を任せるのが、その事務所のやり方だった。

 

 その後、美央さんは大きな仕事を次々に任される。マレーシアで建築された50階建てツインタワーの建築意匠をたった一人ですべてやっていた時期もある。外壁のデザイン、ランドスケープのデザイン、内装のデザイン、全てである。発注主は、まさかの若い小娘がやってきて驚いていたが次第に信頼を勝ち得る。

 

 「若い時に、責任を持たされてチャレンジングな仕事をする。大変だけどめちゃくちゃ楽しい。ものすごく仕事しましたが全く苦ではありませんでした」

 

レイバンズボーン ユニバーシティ ロンドンの外壁意匠

美央さんのプロジェクトチームで担当した。 

 

 だが、5年ほどがむしゃらに働いた美央さんに、また新しい疑問が浮かんできた。

「建築技術の伴わない途上国で高層ビルを建てることは、危険な作業を伴っていました。2008年にはエコノミッククライシスが起こり、多くのプロジェクトが途中で放棄されました。大きな建築物を建てることで、新しい可能性を掘り起こす可能性はもちろんある。でも、それはどの時代にでもどの都市にでもあてはまることではない。そう感じ始めたのです」

 

 顧客の要望に応えるのではなく、もう一度もっとアカデミックな場所に身をおいてみたい。永住権まで得ていたイギリスを離れた理由は、実はもう一つあった。当時、付き合っていた現在の夫が、駐在が終わり帰国することになったのだ。帰国して結婚。慶應での勤務を始め、仕事として研究を行う中で研究の楽しさに目覚めた。そんな時、当時の勤務先の先生に勧められ「働いた経験で修士課程を修了したとみなす」コースがあることを教えられ、慶応で博士コースに進学した。

 

―マーケットー

 博士コースで美央さんが選んだテーマは公共空間の研究だった。ロンドンの街で馴染みの風景だった「マーケット」。「マーケット」には二つの定義がある。一つは可変性。規模も形態もフレシキブルで、その時々の街の人口、必要な物、また目的によってその姿は容易に適応することができる。そしてもう一つが継続性。普通の道が一週間に一度マーケットになる。あるいは月に一度、場合によっては年に数度。しかしそこに「継続性」があることが必須条件である。

 

 「大きな建築物は作ってしまったら変化できない。でも、マーケットは至極簡単に姿を変えながら存在することができます。欧州ではマーケットは生活の中に根ざし、生まれた時からそこにあり、マーケットなしの生活は考えられないという文化があります。かつては日本にも露店の文化があった。でも、戦後、道路が警察の管理下に置かれるようになり日本独自の露天の文化は消滅してしまいました。私が建築を目指した原点は『建築で人幸せにする』です。マーケットは日本ではおしゃれなイベントとして認識されていますが、実は世界では都市のインフラとして機能しています。このマーケットというツールを日本でも使いこなしていき、いずれはそのツールを、開発著しい中国の街にも輸出していく。そんな夢を抱いています」

 

 今年6月に「マーケットでまちを変えるー人が集まる公共空間のつくり方―」が学芸出版社から出版された。重版も決まり、共同通信社により書評が配信され各地方紙に掲載されている。

 

「好きなことを楽しく頑張ってください。誰かが手助けしてくれ道は開けます」美央さんから現役長田生へのアドバイスだ。(20189月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 実は美央さんが大学院博士コースに進学したとき、長女は生後6ヶ月。論文研究のために10日間の研究旅行で渡英したときは生後10カ月だった。「夫は、私のことを褒めたり鼓舞したりはしませんが、私がやりたいことを自由にやらせてくれ、そしてとても淡々とサポートして私が留守中の子育てもこなしてくれます。本当に感謝しています」。右手に5歳の長女、左手に3歳の次女を抱いて眠るとき、最高に幸せを感じると言う美央さん。どうぞ、だれにも優しい公共空間をプロヂュースして、私たちに幸せな時間をプレゼントしてくださいね!

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Face To Face No.76「自分をストレッチさせろ」

 高46回生 栗田直樹

 高倉中学卒

 サッカー部

 神戸大学経済学部卒

 三井物産株式会社

 ペンシルバニア大学ウオートン経営大学院卒
 

 サッカー少年だった栗田さんは、商社に就職後、一念発起して海外MBAを取得する。その2年間の経験が栗田さんをどう変えたのか?お話を伺いました。

―学生時代ー 

幼い頃からサッカー大好き少年。小学校のサッカーククラブのCoキャプテンだったが、親の転勤のため小学三年で中断。転校先ではサッカークラブがなかったこともあり、野球、バスケットボールなど他スポーツを楽しんだ。

 

サッカーを再開できたのは長田入学時だった。ずっとサッカーを続けていた仲間たちとは、技術の差はきっとあったと思う。「それでも、持ち前の負けず嫌いな性格とがんばりでレギュラーの座をいとめました」。高校2年生の時、膝を痛めて半月板の内視鏡手術をしてからは思うように練習が出来ない時期もあったが、好きなサッカーと、仲間と過ごす時間を存分に楽しむことができたのは、監督と仲間のお陰だと思っている。

 

長田時代のサッカー仲間と。後列左から2番目が栗田さん

 

校風として文武両道をモットーにしていたこともあり、サッカー部の活動に没頭しつつも、休み時間やバス・電車の中の隙間時間で予習・復習するなどし、効率的に勉強することは意識していた。

 

怪我をして時間が出来てからの方が勉強の効率が落ちてしまったように思うが、今振り返ると、「複数の忙しいことが重なっている方が効率的に動ける性格なのかも知れません」と笑う。

 

現役で地元の国立大学に進学したあとは、学習塾の先生のバイトやサークル活動に精を出しつつ、貯めたお金で米国、欧州、アジアなどの海外旅行なども楽しんだ。

 

―ハードルを越えるー

  就職は商社を選んだ。海外への憧れもあり入った商社だったが、実際に従事した仕事では英語を使う機会はさほど多くはなく、入社7年目に米国研修員として米国で1年間生活した際に、はじめて本格的に英語を使うようになったというのが正直なところだ。

 

 社内留学制度でMBAを取得したいと考えるようになったのは何時ごろからだろう。「常に自分の一生のスケールで何をすべきか、何をしたいのかを考えよ」という先輩の言葉にも刺激を受けた。米国での研修時代に、1000人以上の社員をマネジメントするまだ30代の社長の姿を間近に見て、将来自分は、彼のようにたくさんの人の人生の一端と生活を担う責任を果たせるのだろうか、と痛感したこともある。30歳になった自分の理想と現実のギャップを埋めたい。その方法の一つが海外MBAだと栗田さんは心に決めた。

 

 海外MBAを取得するには、最初に超えなければならないハードルが二つある。一つは社内で選抜されること。もう一つは志望する大学の試験に合格することだ。大学合格のためには、一般的には1300時間の程度の準備が必要とされていた。

 

「『約一年間は週末も含めて僕はいないものと思ってくれ』と妻に伝え、平日出勤前、通勤時間、帰宅後、週末に勉強しました」

 

 一年後の受験で倍率およそ10倍の希望大学の入学試験には見事合格。だが、なんと社内選抜が最終面接で落とされてしまった。「正直、この一年をもう一度繰り返すのは無理と思いました」

 

 だが、MBA取得の先輩から、入学の権利を翌年まで留保する方法があることを教えてもらい、交渉の末、なんとか大学には一年待ってもらえることに。社内選抜も、過去には2回目のチャレンジで合格していた人もいることを知り、もう一度チャレンジすることに。そして翌年、晴れて2年間の留学に出発した。

 

―貢献するー

 80ヵ国以上、一学年850名のクラスメイトと学ぶ2年間は、想像以上の変化を栗田さんにもたらした。会社を離れ、日本を離れ、一個人として未知の世界でもがいた。

 

 勉強はもちろん睡眠時間を削って頑張った。マーケティングや財務の経営理論はもちろんのこと、リーダーシップ・チームワークや交渉・コミュニケーション能力向上のための授業も用意されていた。その中でもユニークなものが三日間氷山の中で行う、「危機的状況の中でリーダーシップを発揮する」ためのプログラムだ。

 

事前に三ヶ月に渡る身体的トレーニングを行った上でプログラムに参加。期間中は参加者が交代でチームのリーダーを担う。「他のメンバーの状況を正確に把握し的確に指示をだす」「密なコミュニケーションで互いの信頼関係を築く」「メンバーを励まし鼓舞する」。これらのことを身体的・精神的窮地の中で確実に実践できるよう学んだ。

 

大学一年生の時に阪神淡路大震災に罹災し、家が半壊した栗田さんにとって、その時に受けた大きな支援は忘れられないものだった。だからこそ、留学中に起きた東日本大震災では、今の自分が、米国で出来ることは何かと必死で考えた。留学生仲間とチャリティイベントを行い、40000ドルを集めた。「米国企業のマッチング制度を利用すれば、集めた金額と同額の寄付を企業から集めることができる」と教えてくれたのはMBA仲間だ。自らの勤務先の制度を活用して協力してくれた。街の教会に、コインで一杯になった貯金箱を届けてくれた小さな男の子のことも忘れられない。

 

この二年間で得た一番の財産は、世界中から集まった多様な価値観を持つ友人と過ごした時間だ。優秀でありながら謙虚。失敗しても挑戦し続ける姿。「Get out of Comfort zone(今に安住するな)」「How can you contribute(貢献できるか)」。互いに常に鼓舞しあった言葉がしみこんでいる。

 

 ウオートン校で一緒に学んだ仲間たち

 

―朝活ー

 2011年に帰国した栗田さんは、「一人で出来ることは限られている。互いに刺激しあって化学反応を起こす場を日本でも作りたい」と考え始める。

 

そんな中、海外MBAを経験して「海外ビジネススクールのように、様々な人々が出会い、刺激的・継続的に学べる場を作りたい」と活動を始めていた仲間と意気投合。現在、共同幹事として「MBA朝活」を主催している。月一回の開催は継続的に続けられ、すでに45回を迎えた。出勤前の早朝715分から八時半まで、虎ノ門カフェで開催している。

 

栗田さんたち共同幹事の意気に感じ、そうそうたる経営者たちが講師を無償で務める。ビジネスの側面だけではなく、講師それぞれの生きざまや価値観まで語られるのが魅力だ。

 

「自分の可能性を自分で狭めてしまってはいけない。強い想いがあれば、賛同、アドバイス、もしくは支援してくる人が必ず現れ、強いエネルギーを貰って実現への道が広がります」栗田さんから現役長田生へのアドバイスだ。(取材・文・写真 高28回生 田中直美)

 

編集後記

 「MBA朝活」に私も参加してきました。私は朝5時起きでしたが、参加者の女性の一人は4時半に起きて子どものお弁当を作ってから来られたとか。「新しい刺激を受けて勉強したくて」とのこと。参加者は20人ほど。活発な質問が飛び、講師も的確な答えを即答。投資会社経営者による金融界のお話でしたが、門外漢の私にも充分に理解でき、有意義な朝でした。みなさん、講義のあとは一目散に仕事場へ。若いエネルギーに元気になりました。商社マンとしての本業も充分すぎるほどにいそがしいであろう栗田さんが、毎月一回のこの会を開催し続けるエネルギーはその「想い」にあるのだろうと痛感した時間でした。

 

「MBA朝活」の様子

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「Face to Face」(OB御紹介)記事一覧
長田OBの魅力と卒業後の人生の軌跡をお伝えします
メールはこちらから!
NO79 高28回生 上門一裕
「コミュニケーションが基本」
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NO.78 高31回生 寺門孝之
「宇宙全託」
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No.77 高54回生 鈴木美央
「楽しいは強い」
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No76 高46回生 栗田直樹
「自分をストレッチさせろ」
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No75 高35回生 水谷和郎
「災害医療に導かれて」
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No74,高30回生 谷川直子
「エッセイストから小説家へ」
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No73 高62回生 宮本千尋
「大切なものを大切に」
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NO72 番外編 担当回生43回生ご紹介
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NO71 高28回生 伊藤裕二
「次の世に花開くものを見極める」
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No70 高62回生 上杉絢郁
「誰かの役に立つ喜び」
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NO69  高19回生 竹添昇
「挫折と挑戦」
ーーーーーーーーーーーーーー
N0.68 高54回生 竹内健太
「長田スピリットで志高く生きる」
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No,67 高44回生 村平進
「とらわれない」
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No,66 高62回生 小倉加世子
「道は未知」
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No,65 高26回生 陰山恭行(芸名 陰山泰)
「持てる個性を発揮する」
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No,64 高54回生 太田沙紀子
「一期一会」
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NO.63 高42回生永井伸哉
「全ては自分次第」
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No62 高35回生 荒木篤実
「ビジネスに命をかける」
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NO.61 高15回生 仲誠一
「為せば成る、為さねばならぬ何事も」
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番外編 NO.60  懇親会担当、42回生ご紹介
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No.59 高61回生 中野瞳
「うまくいかないからこそ面白い」
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NO.58 高17回生 中野正好
「美しいものが好き」
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NO.57 高30回生 伊達寛
「保続」
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NO56 38回生 金盛正樹
 「NEXT ONE」
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NO55.34回生佐藤絵里
「叩けよさらば開かれん」
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No.54 29回生水草修治
「生きる道を探して」
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No.53 41回生 藤井浩
「ふまれてもふまれても立ち上がれ」
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 No.52
 31回生 青木稔
「教師として生きるー亡き息子の志を継いでー」
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 No.51 番外編
 41回生奮闘記
 
No,50 高18回生 藤本隆

「我が道を行く」

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N0.49 高43回生 山田洋平

「聞こえないけど、聴き上手になる」

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No.48 高35回生 山田恭嗣

「人とつながり、自然とつながる共感」

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No.47  高19回生 石田幸司

「人生は気楽が一番!」

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No.46 高58回生 富澤美緒

「ものは考えよう。どんなこともなんとかなる!」
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No.45 高61回生 富澤由佳

「努力は素質を上回り、気力は実力を超える」
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No.44 高38回生 近藤稔和

「前へ」
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No.43 番外編「再会を果たす」
高43回生 田中英一郎
高43回生 伊藤利尋
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NO.42 高28回生 岩崎倫夫
「舞踏家として生きる」
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NO.41 高44回生 藤田咲子
「咲子が咲いた 『ブルームス』」

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NO.40 高40回生 小森伸昭
「思考し、変化し、成長し続ける男」
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NO.39 高62回生 谷山実希
「あきらめなければ夢はかなう」
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NO.38 高60回生 谷山雅美
「まず、やってみる!」
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NO.37 高23回生 瀧和男
「妥協しない。信ずるところを貫く」
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NO.36 高36回生 山中勘
「おもしろい会社」つくったる
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NO.35 番外編 40回生担当幹事ご紹介
「なんとかなるやろ!」
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NO.34 高38回生 大志万容子
「日々を営む人の美しさを伝えたい」
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NO.33 高6回生 岩間一昌
  「人生はおもしろい」
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NO.32 高33回生 南山えり
「人生の流れには逆らわない。流されながら自分のできる精一杯のことをする」
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NO.31 番外編 吉地 恵(きちじめぐみ)
「行きあたり、バッチリ!」
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NO.30 高37回生 樋口博保
「一期一会」がおもしろい!
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「Face To Face」NO.75「災害医療に導かれて」

 高35回生 水谷和郎

 太田中学卒

 水泳部

 山口大学医学部

 神戸百年記念病院心臓リハビリセンター長

 (旧 鐘紡記念病院)

 

 

 阪神淡路大震災が人生の転機となったと語る人は多くいるだろう。水谷さんもその一人だ。だが、水谷さんの場合、その転換点は震災10年後に訪れた。揺り起こされる記憶が、水谷さんの医師としての仕事に、専門の循環器内科とは全く別の側面である災害医療という新たな一面を加えることになった。そしてそこから更に4年後、一冊の本との出会いで、水谷さんの災害医療は更に深化することになる。

 

1995年ー

 1995117日。水谷さんは医師になって3年目。兵庫県立淡路病院で当直の朝を迎えていた。淡路病院は淡路の救急病院で、連日、島中から救急の患者ばかりが搬送されてくる。日常から野戦病院の趣があり、毎日の医療に少し自信が出て来た頃だった。

 

 早朝5時半に目がさめポケベルをチエック。テレビをつけたその時に、遠くからゴーっという音が近づきドンと縦揺れがきた。とっさに思ったのは「東海地震がきた!名古屋が大変だ」ということ。当直室の扉を開けると非常扉が全て閉じて廊下が緑の部屋になっていた。

 

 ドアを開け開け一階に降りたがいつもと変りない。情報源はテレビのみ。京都が震度5。だが、淡路・神戸の情報は出てこない。情報を得るために淡路の広域消防に電話した。救急要請が11件あり、生き埋めが何件か出たようだ、との情報を得る。最初の患者さんが来たのが65分。軽症の患者さんがバラバラと自力で来院した。

 

 様子が変わってきたのは7時過ぎから。次々に救急外来の患者が運ばれ、あちこちで心臓マッサージが始まっていた。

 

「この時、外科部長だった松田先生が栗栖先生に『映像で記録をとれ』と命令しました。正直、なんで?と思いましたよ。一人でも多くの医師の手が欲しいのに」

だが、結果としてこの時撮られた映像が水谷さんの人生の進路を大きく変えていく。

 

この日の来院患者数68名。死亡7名。重傷20数名。混乱は午後14時ぐらいにはほぼ終息した。ライフラインが切れなかったこと、救急病院だったため、普段から科を超えて協力する体制があったこと、明石大橋開通前で、非番の医師たちも病院の近くに住む人が多く、駆けつけてきた医師が多くいたことも幸いした。

 

震災当日撮影された映像より 中央が水谷さん

 

2005年ー

 震災後3年目ぐらいから、なぜか震災の話をすると泣いてしまうようになっていた。何故そうなのかは自分でも分析できない。とにかく、自然災害によって突然命を絶たれ、亡くなった方々の時間が止まってしまった理不尽さが悔しかった。

 

 震災10年後のその日、水谷さんは兵庫県立姫路循環器病センターに勤めていた。看護詰所のテレビで10年目の黙祷が始まったその時、突然の号泣がこみあげ止められなかった。

 

 「当時、姫路の循環器病センターは地域の災害拠点病院に指定されていました。でも、指定されているだけで何も準備はされていなかった。僕はそのことに気付いていましたがそれまで気付いていないふりを自分自身にしていました。でも、その時、急にスイッチが入ったんです。震災当日、淡路病院で経験した自分だからこそできることがある」 

 

 水谷さんの災害医療活動がスタートした。

「まずは病院のスタッフにあの時の映像を見てほしかった。阪神・淡路大震災当日の病院での映像記録では、唯一のものです。現場で何が起こっていたのかを知って、そしてどう行動すべきなのか、自分事として考えてほしかった」

 

 映像を公開することには葛藤の連続が有ったと言う。「でも、現状ではだめだ。これでは亡くなった人たちが報われない」。

 

姫路循環器病センターでの初めての講演の日、水谷さんはいつもの白衣ではなくスーツを着た。淡路病院のスタッフとして今日は講演するのだという意志表示だった。

 

 病院内の反響は凄かった。災害医療に対応しなくてはという機運が一気に盛上がる。水谷さん自身も、もっと勉強をしなくてはと日本集団災害学会のセミナーを受けることにした。だが、勤務医は平日に休みをとるのが難しい。そうだ、自分が学会発表をすれば休みを貰えてセミナーを受けられる!

 

 意気揚々と出かけた学会で、まさかの肝心のビデオが動かず発表は失敗。「だがまぁ、一回だけのことで、専門外だしいいか。セミナーを受けるという目的は果たすことができた」と帰途につこうとしていた水谷さんに、長崎大学付属病院と松山赤十字病院から「映像を貸して欲しい」と声がかかった。

 

 「それなら、ぜひ私の話を聴いてください!」この時の講演が口コミで広がっていった。

 

2016年11月12日 鳥取県立厚生病院で講演する水谷さん

 

2009年ー 

 NHKのスペシャル番組「阪神・淡路大震災 秘められた決断」を観て、本、「災害エスノグラフィー;阪神・淡路大震災秘められた証言」を買う。それは鳥肌が立つほどの衝撃だった。

 エスノグラフィーとは、本来、民俗学のフィールドワーク手法の一つ。それは、京大の林先生が震災当日の神戸市役所職員のそれぞれの一日を克明に聞き取り、その話し言葉のまま時系列にどこでどんなことが起こっていたのか記録した書だった。

 

 水谷さんは、体験した人にしかわからない体験の「温度差」が気になっていた。あの映像に写っている人を全てインタビューして淡路病院での災害エスノグラフィ―を作ると決心。既に13名のインタビューを終え、後は4人だ。驚いたことには、だれもがあの20年前の一日を克明に記憶していた。

 

 あの日の映像だけでは伝えきれないこともある。映像を見た人自身のバイアスがかかるからだ。だが映像にエスノグラフィーを加えることで、その映像に写っていなかった時間にその人が何を体験し、どう考え、どう行動していたのかが克明になり、疑似体験がより深いものになる。「他人事」のあの震災の日を「自分事」として捉え、その時、医療従事者として自分に何ができるのか考え抜くこと、また現場で実際に起こっていたことを疑似体験することによって、知識を増やしておくこと。知らないことは出来ないのだから。

 

 現在、神戸の百年記念病院で心臓リハビリセンター長として勤務しながら災害医療の啓もうに力を注ぐ。正直二足のわらじは厳しい。だが、この活動を止めるつもりはない。(20187月 取材・文・写真 田中直美)

 

―編集後記―

 水谷さんが取材された災害エスノグラフィ―を拝見しました。大通りだけ巡回し、その裏道の惨状に気付かなかった消防署員の後悔、いつもとは全く違う様子を呈する医療現場では、違う動線をすぐに構築することが必要なこと、通常であれば、まだ手を尽くすはずの患者さんの治療を、より軽症で命が助かる希のある人を助けるために治療を止める勇気が果たして自分に持てるかどうかなど、「習う」災害医療ではなく「自分事としてシュミレーションする」災害医療の大切さを水谷さんが啓もうする意味を痛感しました。

 「震災当日の医療現場のフィルム」。他にはないこの貴重な資料を生かさねばと奮闘する水谷さん。ありがとうございます。

 

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Face To Face No.74「エッセイストから小説家へ」

 高30回生 谷川直子

 飛松中学

 生物部

 筑波大学第二群比較文化学類卒業

 

 

 

 現在、五島列島在住の谷川直子さんは、小説家・文芸評論家として著名な高橋源一郎の元妻として、また、彼との離婚を挟んで罹患したうつ病を克服した後、第49回文藝賞を受賞、作家デビューした女性として知られています。その谷川さんの半生を五島列島福江市でお聞きしてきました。

 

―エッセイストー 

 大学生時代、谷川さんは詩人になりたかった。だが詩人で食べていくことは至難の業だ。卒業後、父の勧めで神戸の会社に就職したにもかかわらず、わずか八カ月で勝手にそこを辞め、土曜美術社「詩と思想」編集部に転職した。両親は激怒。ボストンバック一つで家出同然に上京した。少しでも詩に近い所で働きたいという一念だった。

 

 高橋源一郎と出会ったのは谷川さんが25歳の時。彼の小説をよく読みファンだった谷川さんのことを知る編集部の人が、会う場を作ってくれた。

 

 「初対面とは思えませんでした。文学の趣味が似ており話がはずみました」

 

 ほどなく結婚。だが、当時の高橋はまだ収入的には駆け出し。原稿料が振り込まれているかと、どきどきしながら銀行の記帳に通うような日々だった。

 

 この頃、競馬と出会ったのが人生の最初の転機になったと谷川さんは言う。

 

「あまりにも生活が苦しく『競馬でお金をふやせるかも』という高橋の意見で、生まれて初めて競馬場に足を運びました。私はそこで美しい馬の虜になったのです。競馬の面白さに目覚め、奥の深い競馬を徹底的に学びました。ちょうと武豊氏が活躍している時代で中央競馬会も女性客に目を向け始めていました。JRAPR誌などでエッセイを、サンケイスポーツで予想コラムを執筆するようになり、初めて文章でお金を貰うようになったのです」エッセイスト谷川直子の誕生だった。

 

―うつ病の克服―

だが、高橋源一郎との結婚生活は14年間でピリオドを打つ。離婚する3年ほど前から「寝られない。食べられない。ひきこもる」生活が続いていた。初めて診察を受け入院・治療が始まったのが発症後三年。

 

「病名がついて薬を貰えたことを、とても嬉しく感じたことを覚えています」と谷川さん。

 

 多才でいろんな新しい世界に自分を導いてくれた高橋を、谷川さんは尊敬していた。だが、結果として他の女性を選んだ高橋との離婚と、その前後の日々は想像以上のダメージを谷川さんに与えていたのだ。

 

立ち直るきっかけとなった日のことは、鮮明に記憶に残っていると言う。

 

「すばらしいカウンセラーと出会えていたことが幸いしたと思います。回数を重ねるカウンセリングの中で『自分は自意識過剰である』と気づいたのです。『人に良くみられてたい。人よりすぐれていなければいけない。捨てられた奥さんというレッテルを貼られたくない』」そんな自分の心の奥に気付きました」カウンセリングが始まって2年の時が経っていた。

 

もちろん、うつ病は気付き一つで回復するような単純な病ではない。だが、この日を契機として徐々に回復し、その後3年で全快することができた。

 

―五島列島へー

 この頃、五島列島生まれで五島列島の役所で働いていた大学時代の同級生と再会。彼との再婚を機に、谷川さんも五島列島に移り住む。

 

 「私はエッセイストではなく作家になりたいと考え始めていました。お世話になっていた編集者に相談すると『まずは何か賞をとってください』と。移住当初は、一年ぐらいで賞をとってみせると意気込んでいましたが、結果としては賞を戴くまでに7年の年月がかかりました」

 

 2012年、「おしかくさま」で文藝賞を受賞。小説家谷川直子の誕生が人生の第二のターニングポイントとなった。

 

 谷川さんの小説には「おしかくさま」「断貧サロン」のような、新興宗教をとりあつかったコミカルな作品と「四月は少し冷たくて」「世界一ありふれた答え」のようにうつ病患者の患者視点からみた、繊細で美しい文章で綴られた作品がある。

 

 「私が自身のうつについて語ると、『自分の家族もうつです』と相談の反響がすごかった。うつを克服することができた私だからこそ発信できる何かはないか?そう考えました」

 

 また、うつを契機に「宗教」を見る目も変わったのだと言う。

 「うつが克服できるなら神でもなんでも信じたいと思った時期もあったのですが、ある時、救ってくれるのは神ではなく自分自身、と気づいた時から何かが大きく変わりました」

 

 五島列島に移住し、ひきこもって小説を書いては応募・落選を繰りかえしていた七年間。まるでプライベートビーチのように誰もいな海岸に一人、引いてはうちかえす波に癒されたこともあった。

 

 移住生活十二年になる今は、映画館もない島の生活に、アートや文化の飢えを感じることもあるという谷川さん。書きたいテーマはまだたくさんある。だが、島の生活では都会のリアルは手に入らない。流行りの食べ物も洋服もネットの中でだけの出会いはもどかしい。あと二年で夫の定年を迎えるが、どこで暮らすのがベストか思案中だそうだ。

 

 「高校時代に、自分の肉体の限界に挑戦することが、後々の人生をいかに生きるかにつながってきます。限界までがんばってください」谷川さんから現役長田生へのアドバイスだ。(201712月 取材・写真・文 高28田中直美)

 

編集後記

 「五島列島に住む谷川直子さんにお話を伺ってみたい」。それも理由の一つとなって、今回、私の長田時代の友人三人で五島列島への旅が実現しました。旅人の眼に映る美しい大自然とおっとりとした島人は、生活者である谷川さんにとっては、また違う側面を持つことも知った旅でした。「移住当初、ばりばりの島言葉はイタリア語にしか聞こえなかった」そうです(笑)

 インタビュー前夜に脱稿したという「私が誰かわかりますか」が8月に朝日新聞社から発刊されます。長崎の架空の都市を舞台に、介護する長男のお嫁さんたちが登場する物語だそうです。最新刊は「ゆうべ不思議な夢をみた」文蔵ブックス、ぜひご一読を!

 

 

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Face To Face No.73「大切なものを大切に」

 高62回生 宮本千尋

 伊川谷中学卒

 水泳部

 広島大学理学部地球惑星システム学科

 東京大学大学院理学系研究科地球惑星システム学科

 

 

―理科好き少女―

 子ども時代、ゴールデンウイークや夏休みの度に、両親は宮本さんと弟二人をキャンプに連れていってくれた。「これは食べられる。これは食べられない」。母は植物を手にしながら教えてくれた。星好きの父は、近くの天文台が主催する定例会に宮本さんを頻繁に連れ出し、一緒に望遠鏡を覗いた。

 

 こうして理科好き少女に成長した宮本さんは、中学時代に、大学で地学を専攻した理科の先生に出会った。話を聞いていくうちにフィールドに出て自然の中で学ぶ学問に魅力を感じた。恩師が大学で学んできたのと同じようにフィールドで学べる学問をやってみたい。広島大学理学部地球惑星システム学科に進学することを選んだ。

 

 「生まれて初めて家族の下を離れ、部屋に帰っても誰もいない、食事の用意もない、話す人もいないという環境の中で、夕食もお弁当もいつも用意してくれていた母に改めて感謝しました。初めて一人で作って一人で食べたカレーのまずかったことは忘れられません」

 

 ひどい反抗期もあったし兄弟げんかもよくしていたが、それさえ懐かしく、毎晩部屋で一人泣いていた。高校時代までどちらかというと人とかかわるのが苦手だった性格が「積極的に人とのつながりを自らもつ」性格に変わっていったのはこの頃だ。

 

―出会いの縁を広げてー

 広大時代は、とにかく目一杯やりたいことをやった。勉強、部活のラクロス、アルバイト。ラクロスでは山口、岡山、四国など幅広い地域の他大学の学生ともつながりができた。せっかくできたその新しい縁が途切れないよう、積極的に関わりを持ち続けるようになっていた

 

 たまたま雑誌で読んだ嵐の二宮くんのインタビューがとても心に残っているそうだ。

「人も物も仕事も全て『縁』。出会えたのも縁。別れたのはきっと縁がなかったから。でも、一度別れてしまっても縁があればきっとまた会える」

 

 学部四年生の時に、指導を受けていた広大の教授が東大の教授に異動になった。宮本さんは先生を追いかけて東大へ行くことを決心する。研究対象はPM2.5と黄砂などエアロゾルと呼ばれる大気中の微粒子だ。地球環境や人体に様々な影響を与えるエアロゾルが、アジア圏さらには地球全体にどのような影響があるかを解明することを目指し、研究している。

 

 「東大の大学院に進学して上京したことは、私の人生での第二の転機となりました。上京してからのこの三年間は、これまでと比較にならないほどのスパンで新たなものや人に出会っているように感じます」

 

 そうした新しく出会ったものの一つが「柏の葉サイエンスエデュケーションラボKSEL)」だ。

 

―科学で地域活性化!ー

 「柏の葉サイエンスエデュケーションラボ」は、2010年に東大の柏キャンパス院生が、

「科学を通して地元の人と交流し地域を活性化したい」と始めた活動だ。現在では、イベントに参加してくれた人たちの中から会の運営に携わってくれる人も現れ、学生と合わせて20人ほどで活動している。昨年から宮本さんはその学生メンバーの代表になった。

 

 「私は広大時代にも、所属専攻が主催していた『サイエンスカフェ』のスタッフを経験していました。同じような活動がないかと、上京後にパソコンで検索してたまたま見つけたのが『柏の葉サイエンスエデュケーションラボ』でした。東京での、こういった活動を行う団体やイベントの多さには驚きました」

 

 KSELの活動の一つが、「理科の修学旅行 」だ。小3〜小6ぐらいの子どもたちを、20人から多い時には40人ほど、10名ほどのスタッフで、一泊ないしは二泊で山や海に連れていく。

 

 「子どもたちの好奇心に合わせてスタッフは走り回ります。基本的には自由研究で、子どもたちは自分で課題を設定して自分で研究します。中には帰宅後も家で研究を継続する子どももいます」

 

 「今年の夏も修学旅行するよ!」と宣言したら、子どもたちの眼がいっせいにキラキラしてとても嬉しかった、と宮本さん。

夏の修学旅行、集合写真

 

 

KSELでは、更に手作りの科学館「Exedra(エクセドラ)」を開館した。エクセドラとは、古代ローマ時代、貴族の舘の中庭にあった皆で座れる円形の椅子のこと。「科学に気楽に触れて語れる場所をつくりたい」というスタッフの想いから名付けた。宮本さんは副館長を務める。

 

 大家さんのご厚意で6室のアパートを無料で提供いただき、それをメンバーたちがDIYで改装。クラウドファンディングで目標額だった約60万円を寄付で集め、トイレ、水道を使えるようにした。水道工事は技術を持つ社会人スタッフが協力してくれた。科学館は今も改修工事続行中。宮本さんは、ほぼ毎週末、柏に出かけている。ありがたいことにメディアの取材も増え、つい最近では韓国のテレビ番組でも紹介された。

 

 10年後は地元神戸でも科学のコミュニケーション団体を作りたい。科学への好奇心を大人にも子どもにも広め、そのことで地域活性化の一翼を担いたいと思い描いている。

 

Exedra 館内の様子

 

 「長田時代は、とにかく朝から晩まで部活の水泳に打ち込む毎日でした。あの3年間以上に必死になってがんばったことは未だないような気がします。ちょっとくじけそうになった時や怠け心が出た時、当時を思い出すと『まだまだ頑張れる』と思います。高校時代は、自分の好きなこと、大切だと思えることに一生懸命に取り組んでください。その一生懸命さや自分の興味関心が、今はまだはっきりみえない未来を形づくって行くと思います。そして、その中で出会えた人を大切にしてください。人は何よりの財産だと、私は思います」

 

宮本さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2018年5月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 宮本さんたちが利用したクラウドファンディングは、偶然にも「Face to Face」No45

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=119 で紹介した富澤由佳さんが勤めるREADYFORでした。「Face to Face」の記事を読んで、先輩が務める会社だったと知ったそうです。

 また、No.70でご紹介した上杉さんhttp://nagata-tokyo.jugem.jp/?eid=174 とは同じ62回生の水泳部ですが、卒業以来、なかなか会う機会がなかったそうです。今回、この取材がきっかけで「久しぶりに連絡を取りランチしたいねと盛り上がりました 」と嬉しそうに話してくれた宮本さん。「縁」がどんどんつながり、若い世代のOBが新しい何かを造り出してくれそうで嬉しいインタビューとなりました。

 

 

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Face To Face No.72 番外編 43回生ご紹介

 

インタビューに答えてくださった43回生の皆さん。前列右から時計回りに、原さん、高橋さん、山田さん、高野さん、坂本さん、海山さん

 

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 6月9日に渋谷東武ホテルで開催される総会の今年のテーマが決まりました。

 

 「A mi manera

 アミマネーラ、人生を謡おう!」

(注 A mi manera スペイン語で私の人生)

 

 ゲストはスペインの笛吹き男、41回生の藤井浩さんと、東京オリンピック代表を目指す61回生の中野瞳さん。

 

〜人生は難しいことだらけ。でも、そのことを楽天的に楽しんでしまおう!〜

そんなコンセプトを決め、準備に邁進中の43回生の皆さんにお話を伺いました。

 

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 運命に導かれるように総会幹事となった面々!?その糸口は様々でした。普段は滅多に出ない家の電話を珍しく取ったら、先輩からだった人。フェイスブックをスクロールしていて、たまたま指が触って先輩に「友だち申請」してしまった人(笑)。所属事務所のHPから見つけ出されてしまった人!

 

 「正直なところ、最初はなんかちょっと面倒だなあと顔を出しましたが、メンバーが集まってみたら長田パワーが爆発。誰もが、何も言わないでも貢献しようとしてくれ、困った時にはだれかが助け舟を出してくれる。ただの飲み会では、ここまで深くぶつかり合うことはなかったと思います。高校生に戻った気分で、途中からは猛烈に楽しくなってきました」と口を揃える。

 

 写真のメンバーをご紹介。(前列右から右回り)

原さん:幹事長。学生時代のマドンナ。気配り名人で支えたい気分にさせられちゃう!

高橋さん:書記と裏リーダー?優しくて仕事が早くて完璧。

山田:企画。人脈がすごい。43回生だけではなく広く人と人を繋げてくれる。

高野:会計。優しすぎて、仕事を引き受けすぎる人!右腕も左腕も仕事が一杯(笑)

坂本:副幹事長。どっしり構えた縁の下の力持ち。みんなを見守りイザという時には出動。

海山:総合司会&シナリオ制作。要所要所でぐっとひきしめ、雰囲気を作ってくれる。

 

「今までの総会では、どうしても若い人たちの参加が少なめでした。でも、若い人たちにも神撫会東京支部への愛を育んでほしい。全ての年代の会員の皆さんが楽しめ、『長田の卒業生で良かった』と思っていただける、そんな総会を目指しています」

 

インタビューの後、更にメンバーが加わって、代々木公園でお花見を楽しんだ43回生の皆さんでした。

(2018年4月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

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Face To Face No.71「次の世に花開くものを見極める」

 高28回生 伊藤裕二

 垂水中学卒

 一年生までバドミントン部

 慶応大学法学部中退

 フォーラムエイト代表取締役社長

  

 

 

 フォーラムエイトは、構造物設計など、主に土木・建築設計を支援するソフトウエア販売会社だが、現在はバーチャルリアリティーなど、独創的な汎用ソフトの開発にも力を入れている。伊藤さんは2003年に第二代社長として就任。この14年間で売り上げを10億から33億に伸ばした。そこへ至る道のりと未来への展望をお聞きしました。

 

―助走期間ー

 端的に表現すれば「本好きのワル」な少年時代だった。小一と中一の時の担任の先生は、そんな伊藤さんを叱るだけではなく認め伸ばしてくれた。今もそのことに感謝し、いつかお会いしてご恩返しをしたいと思っている。

 

 家業は「船のエンジニア」。船のエンジニアとはいっても、船のエンジン等本体のメンテナンスではない。船は接岸するとクレーンで荷下ろしが始まるが、荷下ろしの荷役は100人ほどもおり、万が一、クレーンに不具合が起きて作業が停滞すると大損害が発生する。そのため、エンジニアは船のそばで作業を全て見守り、電気系・機械系のトラブルに対応する。

Watch」と呼ばれる仕事だ。日本全国の港へ、父は請われれば何処へでも赴いた。

 

 伊藤さんは、中学生の頃から父の助手として時に家業を手伝い、高校生の頃には、ちょっとした稼ぎになるほどになっていた。

 

 慶応大学法学部に進学した伊藤さんは、東京でアルバイトで生活費を稼ぎながら本漬けの生活を送るようになる。一冊50円ほどで買える古本を山のように買いこんでは、引きこもりのように本を読み続けた。だが、3年生の初めに大学を中退し、神戸に帰ってしまった。

 

 「東京で安い賃金でアルバイトして自分の生活を立てるのに疲れてしまったんですね。親父の仕事を手伝えば、月の半分も働けば自分の食い扶持ぐらいはなんとかなる。そう考えてしまいました」

 

 だが、そうは言ってもそれでは将来の展望はないと、サラリーマンとして働こうと思い直したのが22歳だった。

 

 「これからはコンピューターの時代だ。今、まさに旬の学問で、今から努力して勉強しても十分に追いつける」。そう考えて最初に就職した会社は2年で倒産してしまったが、次に入社したのが今のフォーラムエイトの前身となる会社だった。入社してすぐに第二種情報処理試験に一発合格。コンピュータープログラミングの分野に興味を持ち、更にプログラミングをやってみようと決意する。

 

―二度のターニングポイントー

 そんな伊藤さんが「人生の第一のターニングポイント」と言うのが結婚だ。社内恋愛・社内結婚・そしてすぐに長男の誕生と、今までの生活が一変した。守らなければならない家族が出来たことで、仕事へのモチベーションが否応なく上がったと言う。当時は給料も安く貯金もない。顧客から希望のあったソフトウエアを受託・プログラミングし、一件100万円位を2件こなして、それで結婚式と新婚旅行の費用を捻出した。

 

 「本当は、当時も副業は原則禁止だったんですが」。やっぱり当時も少しワルだったようだ(笑)

 

 第二のターニングポイントは、大阪支社の立ち上げ・経営を任されたことだった。大阪支社立ち上げは他の人に決まりかけていたが、たまたま社長がその話を持って来たときに担当者が留守だった。東京出身者は、実は大阪に行きたくない。自分は神戸出身で大阪に戻りたい。さっと手を上げ決まった。

 

 「私は当時、独立も少し頭にありました。しかし、売れそうなアイデアはあるが資金がない。大阪で事業立ち上げ、社内で『起業家』のように活動できたことが私の人生の第二のターニングポイントとなりました」。大学中退で会計の知識が全くなかった伊藤さんは、放送大学で「会計学概論」を学んだ。

 

 大阪に営業拠点を立ち上げ、更に福岡、札幌と国内展開していくなかで、いつしか大阪支社の売り上げは東京本社を超すほどに成長する。創業社長の引退にともない、代表取締役社長に就任したのは46歳の時だった。大阪時代の部下を7人連れて東京に戻る。以降、業績を三倍に伸ばしたのは冒頭で述べた通りだ。伊藤さんが入社時は16人だった社員も現在ではグループ全体で240名になる。

 

―これからー

 昨年、還暦を迎えた伊藤さんだが、まだまだ10年はしっかり活躍したいと思っている。

フォーラムエイトの強みは全てのソフトウエアが自社で開発されていること。「ブラック」なイメージの強いIT業界だが、フォーラムエイトは「ホワイト500」というホワイト企業の認定も受けた。健康スポーツ有給休暇や禁煙手当などの施策もスタートしている。

 

伊藤さんは一般社団法人コンピューターソフトウエア協会のスタートアップ運営委員会の委員も務める。

 

 「私は、結局、独立起業することはありませんでしたが、若い人たちの起業は応援したい。世界を変える革新的なソフトウエアを生み出すベンチャー企業を育成し、成功に導く支援事業です。資金面での援助と先輩としてメンターの役割を果たします。諸行無常盛者必衰。委員を務めるIT企業の社長の面々も、皆、大きな成功と失敗を経験しています」

 

 「私は高校時代に、友人と深く人生を語ったり考えたりすることはせず、楽しく遊んで時間を過ごしました。今振り返ると、それはちょっともったいなかったな、遠回りしてしまったなと思っています。現役生の皆さんには、ぜひ高校時代に深く思索してほしい。そう思いますね」

 

新婚当時は、10円の豆腐や、一パック10円の卵を見つけてきては、乏しい家計をやりくりしてくれた妻。息子二人も独立した今は、二人で旅行したり観劇したり、レストランでおいしいお酒と食事を楽しむ時間が至福の時だそうだ。

 

 

フォーラムエイトに展示されている電車運転のシュミレーター

フォーラムエイトHP http://www.forum8.co.jp/

 

20183月 取材・写真・記事 田中直美)

 

編集後記

フォーラムエイトにあるバーチャルリアリティーのジェットコースターを体験させていただきました。前後左右に動く椅子に座りヘッドギアのようなグラスを装着してスタート。ジェットコースターが苦手で、もう一生ジェットコースターに乗ることはないと思っていた私ですが、バーチャルなのでチャレンジ!バーチャルと分かっていても怖かった〜。途中で「もう降ります〜」と叫びました(笑)

 

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Face To Face No.70「誰かの役に立つ喜び」

 高62回生 上杉絢郁(あやか)

 舞子中学

 水泳部マネージャー

 慶応義塾大学総合政策学部

 JR東海 人事部

 

 

 

―走るマネさんー 

 とにかく、水泳部のマネージャーとして全力を尽くした長田時代だった。

 

 放課後の練習は、選手たちの練習メニューをマネージャーがホワイトボードに書くことから始まる。

 

 メニューを決めるのは、顧問をされていた谷川先生と明部先生。上杉さんは、お昼休みになると職員室に飛んで行き、とにかく先生がメニューを作ってくれるまで粘った。「メニューを作らないと、上杉は帰ってくれないからなあ」と苦笑しながら先生は作って下さる。このために上杉さんは毎日お弁当を午前中に早弁し、選手が放課後の練習をすぐに始められるよう備えた。

 

 マネージャーの最も大切な仕事は選手たちのタイムの測定だ。25mプールのスタート地点でじっと立ったまま測定しても、おおまかなタイムは測定できる。だが、それではターンのタイミングは水しぶきで判断するしかなく、壁にタッチした瞬間で計測される実際の競技とは微妙にずれる。

 

水泳は、選手のひとかきひと蹴りがタイムに影響を与える繊細なスポーツ。何秒で25m地点を折り返したかを選手自身が正確に知ることが練習にはとても重要になる。そのため、上杉さんは得意なダッシュを武器にプールサイドを走り、壁にタッチした時間を正確に計測した。 夏の一日練習では、上杉さんがプールサイドを走る距離は数キロにも及び、たくさん転んで、足は傷だらけになったと言う。

 

 タイム計測と同時に、練習中の選手に泳ぎだしのタイミングを伝える仕事もこなさなくてはいけないが、これをタイム計測と同時にこなすのが難しい。練習はレベル別の基準タイムをもとに進められる。たとえば、A,B,Cのグループで、それぞれの基準タイムが35秒、40秒、45秒だとすると、それぞれ35秒、40秒、45秒おきに選手が泳ぎ始める。選手の横を小走りに走りながらタイムをとり、さらに、その基準タイムには声を出して次の泳ぎ始めのタイミングを知らせる。

 

 最初はストップウオッチ1個から始め、最終的には、時間計測用のストップウオッチ3個、タイム用のストップウオッチ3個の計6個を持って走り回った。

 

 「走るマネさん」と選手たちから慕われ、大事な試合では「一緒についてきてほしい」と選手から声をかけられた。その時の嬉しさは忘れられない。

 

―学生トレーナーー

 大学入試の進路では、初めて親に逆らって自分の意志を通した。地元の国立大学に行って欲しいと言う両親の希望には添わずに、東京の私立大学を選んだのだ。

 

 長田の「情報」の授業で新鮮な驚きを感じ、ぜひプログラミングを勉強したいと思った。だが、文系でプログラミングが学べるのは、当時は慶應義塾大学だけだったのだ。

 

 両親の反対を押し切った形の上京だったため、両親の援助を頼らず自活することとなった。最初に東京に出て来たときは、「冷蔵庫も洗濯機もなくて、部屋は真っ白な小さな箱でした」。アルバイトして少しずつ揃えていけばいい!そう考えていた。

 

 大学一年生の時は、アルティメットサークル(フライングディスクを使った競技)でプレーヤーとして活動していたが、長田高校での「人を支える喜び」の経験が忘れられず、競走部(慶應では陸上部のことをこう呼ぶ)にマネージャーとして入部する。

 

 当時の競走部は、後にリオ五輪で銀メダリストになった山縣亮太選手や、リオパラリンピックで100メートル、200メートル、幅跳びに出場した高桑早生選手も在籍していた。

選手のサポートをお願いしていたプロの女性トレーナーはいたが、140名の選手全てを管理することは厳しく、怪我が絶えなかった。

 

 「他校にはある学生トレーナー制度を確立して、なんとしても、怪我をしないで選手たちを試合に出させてあげたい」上杉さんは、同期の男子部員と共に、「学生トレーナー制度」を立ち上げることを決意する。

 

 最初は紙ファイルで140名の身体や怪我の様子を管理していたが、より管理しやすいシステムとして、怪我の記録、筋肉の動きを計測した数値、食事の記録をタブレットで簡単に入力できるようにした。

 

そして、学生トレーナー制度を後輩に受け継いでいくための教材も作成した。少なくとも10年は続く体制を作り上げたかったから。卒業後も上杉さんとご同期が立ち上げた学生トレーナー制度は継続し、設立から7年目に突入している。

 

 最後の引退試合でサポートしたトレーナたち

 

JR東海ー

 現在、上杉さんはJR東海の人事部で働き、採用担当として日本中を飛び回っている。祖父は、一生を国鉄にささげ、こだま0系の開発に尽力した人だった。祖父危篤の報に新幹線に飛び乗った上杉さんは、「おじいちゃんが作った新幹線のおかげで間に合ったよ」と心の中でつぶやいた。こうして今自分がJR東海で働いていることを祖父は知らずに亡くなったが、何かご縁があったのかなと思っている。

 

 上杉さんが、今一番尊敬しているのが、先輩の新幹線運転士さん。「常に相手以上に相手の立場に立って、思いやりのある言動のできる人です」

高校や大学での経験を通じて、人を支えることの楽しさを実感した。自分がどんな立場に立っても人の心を温められる、そんな大人になっていきたいと思っている。

 

 「今を全力で楽しんで、長田高校で起こる人との出会いを大切にしてください。今しかできないことや、今しかできない繋がりを大切にしたその先に、きっと皆さんが目標とする誰かや、なしとげたい何かが待っていると思います」上杉さんから現役長田生へのメッセージだ。(20182月 取材・文・写真 田中直美)

 

編集後記

 インタビューの終わった後の雑談で、「『Face to Face』の取材って楽しそうですねえ」と上杉さん。「めっちゃ楽しいですよ!一対一で深いお話をしっかり聞くことができるし、なんでも質問できる」と私。「私もやってみたいなあ」「大歓迎!どんどんライターとして参加してください!」

 

 という訳で、上杉絢郁さんにも、これから記者として登場していただくかもしれません。もし、オファーが来たときには、このかわいい後輩をよろしくお願いします!そして、引き続き、私のこともよろしくお願いいたします。

 

 

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