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「Face To Face」NO.90「我以外皆我師」

 高52回生 西内啓(にしうちひろむ)

 桃山台中学卒

 東京大学大学院

 データビーグル取締役

 

 

 

 昨今、話題に上ることが多い「ビックデータ」「AI」。だれもが簡単にデータを分析したりAIを造ったりできるような、そんな仕組みを作るために起業した西内さん。入り口は「統計学」と出会ったことだった。2014年度ビジネス書大賞を受賞した「統計学が最強の学問である」は、シリーズ累計50万部を超える。

 

―統計学に出会うー

 東大に行くことになったのは、ある意味ちょっとした偶然だった。父親が外科医だった影響で最初は医学部を目指していたが、センター試験が終わった段階で地元国立大の医学部入試判定はギリギリのC。「試しに、このセンター試験の得点で、B判定を貰えるところと探したら東大の理兇世辰拭これなら、なんとか親も納得してもらえるかもと(笑)」

 

 大学一年で「統計学」に出会った。

「私は、もともと人間に興味があります。そこで、遺伝子や脳に関する授業を受けてみたがなんか違うと感じ、心理学や認知科学の授業を取り始めた。この分野では、色んな仮説を統計学を使って実証していきます。人間とは、もともと多様で個性にあふれたもの。でも、データを集めることによってある傾向が読めてくる。それを面白いと感じました」

 

 博士課程の進学時に、新設された医療コミュニケーション学科の第一期生となる。その後、論文のテーマに選んだのは「20代、30代の女性に禁煙を薦める、効果的な動機付けはなにか?」

 

「『煙草が健康に悪い』ということは、もう出尽くしたメッセージ。何かもっと別のアプローチがあるのではないか?データを分析した結果出たのは『公共の場が完全に禁煙になったら自分も禁煙するだろう』という意識が、20代30代の女性の禁煙には最も強力な動機付けになりそうだ、ということでした」

 

 博士途中から、東京大学大学院医学系研究科医療コミュニケーション学分野助教を任じられた西内さんは、大学病院医療情報ネットワーク研究センター副センタ―長を兼務。その後、大学の職を辞してハーバード大学がん研究センター客員研究員として留学する。

 

―研究から仕事へー

 かねて、「研究」が自分の本当にやりたいことではないのではないかと感じていた西内さんは、留学後、「やはり、研究ではなく『世の中を良くする仕事をしたい』」と考えている自分を再認識。帰国後はビックデータやデーターサイエンスを扱う仕事を頼まれては手伝っていたが、これは仕事になりそうだと見通しがついてきた段階で起業。

 

 「統計学が最高の学問である」を出版したのはこの頃。

 

「初版は数千部でした。統計学の本など、そんなに売れないだろうと」

ところが、売り出したら、出版社も驚くほど、首都圏だけではなく地方でも売れた。1万部、2万部と増刷していたが、あまりに伸びるので「切りのいいところで10万部にしておきました」と出版社。それが、あれよあれよというまに25万部。最終的にはシリーズ累計で50万部売れた。

 

「コミュニケーション科学の分野で、人は、大別して『いつ、どこで、誰がどうした』といった具体的な情報が得意な人と、『要するに何』といった抽象的な情報を扱うことが得意な人がいるという考え方があります。そして日本人は、比較的前者が多い。今までの統計学の本が後者を対象とした表現になっていたのを、私は前者の人たちを読者対象として、具体的、かつ共感しやすい表現にしました。そこが売れた理由かもしれませんね。また、データの分析というものを、『そろそろ勉強しなくては』と考えだした人が多くなってきていた、という社会の流れもあったでしょう」

 

「統計学が最高の学問である」は、大学入試のテキスト文章にも、何度か使われたそうだ。

 

―データビークルー

 代表取締役を務める株式会社データビークルを2022年から2023年にかけて上場させることが、直近の目標だ。

 

 データビークルでは、だれもがクリックするだけで、簡単にデータ分析できるようなソフトの開発を目指している。

 

 「たとえば、企業がBIツール(ビジネスインテリジェンスツール)を利用しようとしたとき、単なる『見える化』で終わりになってしまうことが多い。データを自動で分析したあと、『見るべきポイントはここだよ』『これが関係しているから見た方がいいよ』ということを全て『日本語』でおしえてくれる。専門家でなくても、みんなが使いこなせるソフトであることが重要です」

 

 「日本企業では『IT系』と言いながらもやってることはただの技術者の派遣だったりしますし、ゲームを除けばほとんど世界中で使われるようなソフトウェアを生み出すことができていません。我社が日本から最初に生まれるそうした会社の1つになれればと。作りたい製品のアイデアは山ほどあります」

 

「私は製品開発の最高責任者です。技術には強いと自負しています。その代わりマネジメントは不得意。なので、マネジメントや営業が得意な人と組んでいます」

 

 「大学進学時、最低限東京に、できればアメリカの大都市に進出してほしい。世界にはこんな仕事についている人もいるのかと、めちゃくちゃ視野が広がります。キャリアの選択肢が増えますよ!」西内さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2019年10月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 「プライベートの楽しみは?」と質問してみたら「今は『統計学が最強の学問である』の漫画化を進行中なのですが、その脚本を考えているのがめちゃくちゃ楽しいですね」とのこと。ハリウッド映画の脚本の書き方をまず勉強したそうだ。そしてピックアップしたのが「バディもの」といわれるパターン。「世の中、数字じゃない!」と息巻く熱血営業マンと優秀だけど大学を中退したダメ人間がバディを組みながら、統計学で仕事をパワフルに変えていくというストーリーだそう。乞うご期待です!

 

データビークル https://www.dtvcl.com/

 

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「Face To Face」NO.89「日本企業の経営管理・管理会計を進化させたい」

 高36回生 池側千絵

 多聞東中学卒

 美術部

 同志社大学文学部英文学科卒

 ストラットコンサルティング会社代表取締役

 

 大学卒業後、外資系企業の財務担当から社会人スタートした池側千絵さん(旧姓田中千絵さん)は、やがてレノボ・ジャパン、日本ケロッグなど世界の業界トップ外資系企業の日本子会社CFO(最高財務責任者)を務めるに至る。しかし、実際にお会いしてみると、「日本の優しいお母さん」のような風貌だ。

 

―P&Gで学んだ外資流仕事のやり方ー

 「英文科なのに、意外と英語ができないのね」。大学生時代の海外旅行で、外国人と話している様子を横で見ていた母親にそう言われた池側さんは一念発起。ロンドンへの語学留学を決意する。ホームステイ先の家族の方に「英文学を勉強して、仕事は何をするの?」と質問され、またもや一念発起。「そうか、企業で働くなら、英語を学んでいるだけではだめだ」と語学学校でビジネスの初歩や簿記も学んだ。

 

 男女雇用機会均等法が施行され、数年経過した状態での就職活動。池側さんがこだわったのは「男女同給料」という基準だった。商社や銀行でも女性総合職採用はスタートしていたが、まだまだ旧来の形が継続しているように見受けられた。ましてや、P&Gのような職種別の求人は皆無だった。

 

 留学から帰国後も簿記の勉強を続けていたこと、数字が得意だったこともありP&Gではマーケティング部門が人気だったが、あえてファイナンス(経営管理)部門を希望。今につながる道を歩き始めた。

 

 「マーケティング・営業・研究開発・生産など事業部門の人たちと一緒にプロジェクトチームに入り、彼らが仕事をする上での数値的目標の設定や達成の支援をし、どういう資金の使い方をすればよりよいリターンが得られるかを一緒に考えて意思決定をしていくのが仕事で、非常に充実した気持ちで成長していくことができました。今思えば、グローバル企業で活躍する本来的なCFOの役割に通じる仕事に携わることができたのです」

 

 P&Gでは、入社2年目には、米国本社に日本子会社の利益計画の状況を報告するチームに所属。5年目には管理職に、32歳で洗濯洗剤部門のファイナンス部長になった。その後娘二人を出産する。女性活躍で先進的なP&Gでも、当時子供を持つ管理職女性は多くはなかった。上の娘を出産したあとには、「管理職女性が出産」と日経新聞の女性欄から取材が来たほどだ。

 

 「出産しても働き続けようと思ったのは、私が28歳の時に日本に赴任してきていたフィリピン女性上司の影響が大きいですね。4人の子どもと夫とメイドさんを伴って赴任されていましたが、妻としても母としても人生を楽しみながら仕事をこなされていました。今でも彼女はフェイスブック友達ですが、お孫さんがたくさんいるようです。」

 

 「長田高校の後輩女性たちも、職場で活躍されている方が増えていると思いますが、私の経験では、管理職になる打診があったら是非受けることをお勧めます。仕事の計画を自分で立てやすくなり、子育てなどプライベートの予定とも両立しやすくなります」

 

 「とはいえ、神戸で自分の親との二世帯住宅に住み、車通勤だった私はかなり恵まれた環境だったとは思います。」

 

―ファイナンスヘッドとしてー

 夫が東京の会社に転職することになったことを契機に、かねてから東京に出たいと考えていた池側さんは、18年務めたP&Gから日本マクドナルドに転職。フランチャイズ事業部門の財務部長となる。以降、レノボ・ジャパン、日本ケロッグ、ウォルマート西友と、外資系企業の日本子会社のファイナンスの要職をいくつか務めてきた。

 

 特に、レノボ・ジャパンでCFOをしていた際、日本企業との合弁事業を通して日本企業の経理財務・事業企画の担当者たちと机を並べて仕事をする機会に恵まれた。

 

 「外資系企業のCFOは、日本企業でいうところの経営企画・経営管理・経理財務全般を担当し、全社的視点で経営管理をリードします。一般的な日本企業ではそれらの機能が違う部門に分かれています」。

 

 レノボでの経験から、外資系企業と日本企業の業務・役割の違いや、互いに学べる事項について調べてみたいと思い始めた。

 

 その後、日本企業の友人に勧められて中小企業診断士の資格を取得。慶應ビジネススクールにエグゼクティブ向けの土曜日中心のコースが設立されたことを知り入学。そこで、日本企業に勤める友人をたくさん作り、社外での勉強会に参加。講演・執筆活動も増えていった。

  

ウォルマート西友を最後に会社員生活をやめ、経営管理・管理会計のコンサルティング会社を起業したのが2019年4月。同時に、企業に所属するコンサルタントとしても、現在は活動している。

 

―これからー

 外資系企業ばかりで仕事をしてきた池側さんにとって、今の日本の大企業の経営管理・管理会計機能の状況は歯がゆい。ITインフラにしても、パソコンが持ち歩けず、オフィスに長くいないと仕事ができない企業があり、これでは子育てと両立がしにくいと感じる。訪問する企業においても、女性幹部と出会うことが少ないのが現状だ。

 

 「外資系企業で私が経験してきた経営ノウハウをもって、日本の企業のお役に立ちたい。経理財務の仕事の中の単純な部分は、これからはどんどん自動化されていくでしょう。ファイナンスの高度な知識を持って、事業の業績管理や意思決定を支援する仕事ができるようになっていく必要があります。日本企業には優秀でまじめな人が多いのですが、人材の流動性が低く、学びなおすことも少ないので、会社の外でどんな新しいことが起きているのか、知らされていないケースが多いと思います。私は、そこをお手伝いしたい。今、日本も日本企業も弱っていると感じています。日本企業は同業の欧米企業と比べて営業利益率が低い状況です。現在、日本企業の経営企画部向けのコンサルティングをさせていただいていますが、ただアドバイスを述べるだけではなく、日本企業に合った形で実際にプランを実行するところまでお手伝いしています」

 

 日本の、とりわけ、これからの日本を背負う若い人たちに学んでもらいたいことがたくさんある。そのための講演・執筆にも力を入れている。

 

「いつでも私に連絡をとってください!」これが若い世代の長田OBへの池側さんからのメッセージだ。

 

 

編集後記

 インタビューの最後に「プライベートでの楽しみは何ですか?」と質問してみたら、帰ってきた答えは「仕事と研究が趣味です」。だからこそ、いつまでも勉強を続けることができるのだと、記者はひたすら感心。ただ、仕事・研究そのものというよりは、それを通じて交友関係が広がっていくのが楽しいとのことでした。

 

 

ストラットコンサルティング株式会社(問い合わせはホームページから http://strat.jp/ )

 

 

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「Face To Face」NO.88「ニュースの中の物語を探して」

 29回生 田中規雄

 鷹取中学卒

 硬式テニス部

 横浜国立大学経済学部卒

 夕刊フジ

 産経新聞

 

 

産経新聞の論説委員になって14年。一面コラムの「産経抄」を月曜日から金曜日まで担当している田中さん。新聞記者としてのスタートは夕刊フジだった。新聞としては、かなり軟派ともいえる夕刊フジの記者から論説委員に。その道筋をお聞きしてきました。

 

―夕刊フジー

 新聞記者ってかっこいい。なんとなくそんな風に思い始めたのは、長田時代かもしれない。

 

入社試験に合格した夕刊フジに就職した。「他に受けていたのは、なんとアパレルのワコールやワールドでした。ファッションになんて全く興味がないのに、女性相手の仕事がしたいと思っていたんですから可笑しいでしょう?」といたずらっぽく笑う田中さん。

 

 モットーはケセラセラ。小心者なのにとんでもないことをしでかす。そう自己分析する田中さんだ。

 

 夕刊フジでは、人手不足もあったのか、入社当初から紙面1ページをまるまる任された。必死で書いて、書いて、書きまくって、それを上司が直しまくる。そんな風に実戦の中で鍛えられた。

 

 夕刊フジには10年ほどいたが、任せられた特集の一つが「体験コーナー」の記事だった。とにかくいろんなことを実体験してそれをリポートする。いろんな面白いことをさせてもらったが、その中の一つが「一日ホスト」。

 

 「こられたお客様は、僕が一日だけの体験ホストだなんて知りませんからね。他のホストと違って僕だけが安物のビジネススーツ。『あら、銀行員??』なんて言われました」

 

 ホストの一日体験中の若き日の田中さん

 なんだか楽しそう??!
 

 そして、もう一つ任せられたのが、とにかく誰でも会いたい人に会ってインタビューして記事を書くという仕事だった。

 

 「これも楽しい仕事でしたね。とにかく『新聞記者』という看板をしょっていれば、たいていの人が会ってくださる」

 

 とりわけ記憶に残る人は、大学の先輩でもあるノンフィクション作家の沢木耕太郎さんだそうだ。「とにかくかっこいいんです。話し方もかっこいい。顔もかっこいい。話す言葉と顔がマッチしすぎてかっこいい。赤坂の地下にある喫茶店でお話を伺ったのですが、インタビューの後、その階段を駆け上がっていく後姿がまたかっこいいんですよ」

 

 記事の最期を「階段を駆け上がっていく、その後姿。『くそ!かっこいい!』」と締めくくった田中さん。デスクはその部分を削ろうとしたが、田中さんは断固としてそこは譲らなかったとか。

 

 女優のジャンヌ・モローに、パリの彼女のアパートメントでインタビューしたこともある。手違いでフランス語の通訳がこなくなり、なんと彼女と二人!

「行きのエアーフランスで『ペリエ(水)』を頼んだら「ピロー(枕)」が出てきた僕ですからね」。つたない英語でのインタビュー。エッフェル塔が見える彼女の部屋には山のような本が積んであったそうだ。(今の若い世代の長田OBの方々はジャンヌ・モローをご存じないかもしれませんが、ぜひ検索してみてください。私や田中さん世代では知らない人はいない、妖艶なフランスの大女優です)

 

―葬送ー

 夕刊フジで10年間働いた後、産経新聞の社会部に異動になった。他の記者仲間は、もっと若い時期にサツ回りなどはこなしている。社会部記者として修業するには、ちょっと遅いスタートだった。サツ回りに行っても周りは若い記者ばかり。「オレ、大丈夫か?って思いました(笑)」

 

 そんな時に任されたのが「葬送」というコーナーだった。アメリカから戻ったばかりだった当時の社会部長がアイデアを出したコーナーだった。

 

 「米英では、死亡記事をとても大事にしている。弊社でも読みがいのある特集にしたい」

 

 社には喪服を常備。出社したら、まず当日の朝刊の死亡記事を読む。そして、「この人」と決めた方のお葬式に出向き、葬儀の場に映し出された亡き人の人柄を描きだす。お葬式の会場で長いインタビューはできない。ほんの23分お時間をいただくのが精いっぱいだ。

だから、質問は事前に練りに練った。

 

 毎日、毎日、葬儀に参列して記事を書くのが仕事。日本で初めての「葬儀記者」と呼ばれた。

 

「これは、今思えば、一日に一話書く、まさにコラムと同じ形でしたね」

 

―ロンドンへー

 2年間の葬儀記者を務めた後、アメリカのデューク大学への社費留学を経てロンドン支局に赴任した。

 

 「赴任して10日目に起きたのが、あの、ダイアナ妃の急逝という大事件でした」

 

 それは、言葉で伝えきれないほどの大きな渦だったと田中さんは振り返る。イギリス全体が熱に浮かされたような異常な状態になっていた。

 

 「『ケンジントン宮殿の前が、ダイアナを悼んで花の海になっている』という表現を見て

『嘘だろ!』と思いましたが、実際に行って驚きました。そこはまさに花の海でした」

 

「僕は自慢ではないですが、いわゆる『特ダネ』というものをスクープしたことは一度もない。でも、いろんなニュースを『読み物』として書く。それが得意でした」

 

 日本ではまだ全く知られていなかったハリーポッターの作者のJK ローリングは、生活保護を受けながらカフェで作品を書いた人。そんな『読み物的ニュース記事』を次々と書いていた。

 

 海外旅行は新婚旅行だけだった田中さんにとって、このアメリカ留学から続くロンドン支局時代は、見るもの聞くもの全てが面白かったと振り返る。

 

―怖い夢ー

 産経新聞の産経抄は大先輩の石井英夫さんが35年に渡って執筆されていた名物コラムだった。その石井さんが奥様の看病のために突然の引退。

 

 「後任者は大変ですよ。誰が書いても酷評されるのは目に見えていますから。なので、最初はチームが結成されて皆で順番に書いていました」

 

 やがてチームからは一人抜け、二人抜け、いつしか月曜日から金曜日までを田中さんが書く、今の体制になった。

 

「私はほとんどまとまった休みを取れず、どこにも行っていません。神戸にさえ、父の納骨の日に帰っただけ。病気にもなれないという気合からか、インフルエンザにもかかったことがありません」

 

 ときどき「書けない夢」を見るそうだ。

 

コーヒーを飲んでも、図書館に行っても、散歩してもだめ。ああ、どうしようと思った時に絶好のアイデアを思いつき、その瞬間に目覚めてほっとする。でも、そのアイデアを思い出せたことは一度もないそうだ(笑)

 

「新聞、読んでね!」田中さんから現役長田生へのアドバイスだ。(20198月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 アメリカに留学した時、一人娘のお嬢さんは2歳だったそうです。いきなり現地の保育園に入園。日本語も英語もままならないお嬢さんは、迎えに行くと、涙も枯れはて、真っ白な画用紙を前に呆然と座っていたとか。最初に覚えた英語が「Don’t touch me!」絶対に幼稚園に行かない、と泣き叫んだお嬢さんも、一週間ですっかり慣れたそうです。そのお嬢さんも今は立派な救急救命医。その話をされた時の田中さんは、すっかり優しいお父さんの顔でした。

 

 

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「Face To Face」NO.87「世界が君を待っている」

 入学時59回生 卒業時60回生 

 村田英理子(旧姓 平木)

 歌敷山中学卒

 女子バレー部

 ICU大学

 日本製鉄

 

―高2での留学ー 

 その気持ちは忽然と湧いてきた。「すぐに留学したい!」。高校一年生の夏休み。5歳年上の大学生だった姉が、アメリカ留学するのを見送ったあとのことだ。帰宅するやいなや、その気持ちを両親に伝える。留学生の選抜試験のほとんどは春に終わっている。「なんで、今のこの時期にそんなこと言いだす??」と驚きながらも、さっそく情報を集めてくれた母(実はこの母も長田OB。いずれ、ご登場いただく予定の逸材です)。内閣府が運営する日本青少年育成協会の留学生試験が秋にあることを発見。受験した。

 

 村田さんはアメリカで生まれ、4歳まで現地の幼稚園に通っていた。その時は、バリバリのキッズ英語のネイティブスピーカーだったそうだが、帰国後全て忘却。日本人として、普通の公立中学で一から勉強をし直した。英語の面接では「お父さんはどんな人ですか?

」と尋ねられ、「He is a nice guy」としか答えられなかった村田さん。「私、こんなに英語がしゃべられへんのや!と再認識しました」と村田さん。それでも、選抜試験に落ちる気は全くしなかったというから逸材です。

 

 試験に無事合格。日本全国から25名選ばれ、高校二年生の夏休みに出発した。最初の一ヶ月はシアトルで合宿。その後、アメリカ全土のホームステイ先に散らばる。村田さんはカンザス州に向かった。

 

 「シアトルからユタに、三列シートのプロペラ機に更に乗り換えカンザスへ。降り立ったら、何もない草原が延々と続いている。その真っすぐな道を三時間車で走ってホームステイ先につきました」 人口数百人の小さな村で、村田さんは初めての日本人だった。

 

 「正直、『行けばなんとかなるでしょ』となめてかかってましたが、見事に打ちのめされました。人生で最初の挫折です」

 

 なんとかなったのは数学と美術の授業だけ。毎日、電子辞書を持ち歩いて必死だった。一ヶ月ほどたった頃、美術の授業で突然糸が切れ、涙が止まらなくなり大声で泣きわめいた村田さん。チリからのもう一人の留学生に「どうしたの?」と声をかけられたら、ますます涙が止まらなくなった。

 

 「でも、この時に何かがふっきれました。以後、電子辞書も持ち歩かなくなった。何も正しい英語を話さなくてもいいんだ、とやっと思えるようになったのです」

 

 「正直、一年間の留学では、自分らしさを発揮できるほどにはなれなかった。でも、だからこそ、絶対に国際舞台で、日本の代表として活躍していきたい」という強い目標を抱くようになりました」

 

―鉄ー

 高校三年生の二学期に帰国した村田さんは、担任の先生の勧めもあって、もう一度高校二年生の二学期からやり直す。そしてICUに進学した。

 

ICUは帰国子女が半分で、英語と日本語が入り乱れていました。その中で、改めて認識したのは、『自分は日本人として世界の舞台にたちたい』ということ。一時は外交官を目指した時期もありましたが、日本を誇れる企業で働こうと思いました」

 

 選んだのは鉄だった。「鉄は国家なり」ともいわれるほど、鉄は国を支える製品であることを知り、就職先として決めた。

 

 最初の配属は「厚板」と呼ばれる船や橋に使われる鉄板の製造管理。男性ばかりの職場に初めての若い女性。「最初はおじさんたちの間で完全に浮いていました。でも、いろいろノウハウを教えてもらいながら、扉を開けてもらえるようにそうっとノックする。少し開けてくれたら、もう少し開けてもらえるように努力する。半年ぐらいでドアが開き始めて、一年でしっかり開きました(笑)」

 

「鉄は生き物」と言われるほど、一生懸命立てた操業計画は毎日のように崩れた。理論よりも、人と人のハートの繋がりが助けになると実感した日々だった。

 

 製造管理を3年半弱務めたあと、海外営業に移る。自分で希望を出した異動だった。対象国はメキシコ・ロシア・ドイツ・デンマーク・韓国にアセアン諸国と数えきれない。100個前後のプロジェクトが常に同時進行していた。

 

 「現場で一生懸命作った厚板を、今度は売る立場になり、お客様にどのように喜ばれているのを知ることができました。だからこそ、工場の人のために、1トンでも多く注文をとりたい、と思いました」

 

―アスリートフードマイスターー

 大学時代に知り合い、結婚した夫はプロラクビー選手(村田毅、ジャパンラグビートップリーグ所属 日野レッドドルフィンズ主将)だ。今年の4月に4300g越えのビックベイビーの長男が生まれたばかり。だが、産休中でさえ、村田さんの活動は止まらない。サッカーや野球、ラグビーなどのトップアスリートの奥さんたちがフードマイスターという資格を持っていることを知った村田さんは、結婚後、2017年から自分も勉強を始める。

 

 「総合職をしながらプロ選手を支える奥さんは少ない中、仕事も家庭も中途半端にしたくないという思いから、短時間で効率よく質の良い食事をつくるためでした」。村田さんの作る食事で、旦那様の怪我もへり、パフォーマンスも上がったそうだ。

 

 長田高校野球部員のために行ったアスリートフードマイスターとしての講演が好評で、この夏は、高校の養護教諭向けに講演を行うという。

 

「私の場合は、留学したために2学年にまたがったので、人のご縁が二倍になりました。なんにもしていないでヘラヘラしている子が、実はめちゃくちゃ優秀・・そんな人たちの集団って、とても刺激的ですよね。長田では人生の財産のようになる、本当にかけがえのない友人・先生に出会います。今、この時を全力で楽しんで!」村田さんから現役長田生へのメッセージだ。(20197月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 取材日程の調整に入った段階で、あと2週間後が予定日であることを明かしてくれた村田さん。「大き目なので少し早く生まれてくると思います」というご本人の予想通り、予定日より3日早く生まれたご長男ですが、私の予想をはるかに上回る4300g越えのビックベイビーでした。村田さんは、私の先輩でもある長田OBのお嬢さんですが、その先輩がアメリカ駐在の旦那様に帯同してアメリカへ行った時、「アメリカでの出産と子育てを経験したくなったので、三人目を産みました」と年賀状をいただいてびっくりした記憶があります。その時生まれた赤ちゃんが村田さんです。今回の取材で、その偶然を知り、ご縁の不思議を痛感しました。

 

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「Face To Face」NO.86「努力はいつからでも実を結ぶ」

 55回生 丸山健太郎

 井吹台中学卒

 陸上部→空手部

 同志社大学政策学部

 日本航空 パイロット

 

 

 乗り物好きだった父の影響で、自動車、電車、飛行機と、やはり乗り物が大好きになった丸山さん。いつしかパイロットになりたいと思い始める。だが、夢がかなう一歩手前で、時代に翻弄されることになった。そんな丸山さんにお話を伺ってきました。

 

―中途半端だった高校時代ー

 長田時代は最初、陸上競技部だった。一年先輩は400メートル×4リレーでインターハイで優勝した伝説の学年だ。鉄剤を注射しながらがんばるようなストイックな雰囲気の中、記録が伸び悩み、スランプに陥った丸山さんは、2年生の夏に退部。といって何も運動しないのも、と考え、当時、もう少し自由な雰囲気だった空手道部に入部、卒業まで続けた。

 

 勉強も中途半端だったと振り返る。一浪したあと京都大学を目指したが、これも夢かなわず、何かもやもやした気分を抱えたまま、同志社大学の政策学部一期生として入学した。

 

―すばらしい先輩たちとの出会いー

 「京都には『Good Samaritan Club』という、当時でもすでに30年以上の歴史のある、英語で観光案内をするボランティアサークルがありました。京都大学、同志社大学、立命館大学の三校で構成され、入部するには厳しい面接があって、僕の友人は落ちてしまったほどです」

 

 丸山さんは、たまたま手にしたビラを見て「せっかく京都に住んでいるし、英語も好きだし、ボランティアも素敵やん」という軽い気持ちで入部したとか。だが、ここで出会った同期や先輩たちに強いショックを受ける。

 

 「どの人も、何に対してもものすごく一生懸命で、かつ、自分の将来に対して明確な目標を定めていました」

 

 就職ではがむしゃらにがんばり、重工業、自動車、商社と次々に内定をとったが、自社でパイロットを養成していた日本航空に迷いなく決めた。パイロットになりたいという夢に一歩近づいた瞬間だった。

 

―長い道―

 訓練はすぐに始まる訳ではない。同期の60名弱はランダムに5つのグループに分けられ、順次、訓練がスタートする。丸山さんは第五グループだった。最初の一年四カ月は福岡でグランドスタッフを経験した。この時知り合った他社のキャビンアテンドの女性と24歳で結婚。「パイロットになったら留守がちになってしまうので、彼女の芯の強いところに惹かれました」と丸山さん。

 

 やがて訓練スタート。まずは座学で学び、いよいよアメリカの実機訓練が始まるというところで、まさかの日航の破綻となった。

 

 「第一グループと第二グループは実機訓練中で、すでに必要なライセンスの一部を取得していましたが、僕たちは、この先訓練は無いと言われてしまったのです。」

 

 だが、丸山さんは「がんばっていればいいこともある」と、決してくさることはなかったし、妻も「私は何も心配していない。あなたならなんでも出来る」と明るかった。

 

 日航のグループ子会社である運航会社に出向した丸山さんは、まずは、パイロットやCAのスケジュール調整をする部門に配属になった。日々起こるイレギュラーに対応しながらスケジュールを組む。ホテル、パイロットの食事、タクシーの手配など全てをこなす。運航を支えるためには、このような仕事をこなす人々の力もあってこそなのだと知った。

 

 どんな形であれ、大好きな飛行機を飛ばすためのスタッフの一人として働ける毎日に感謝していた。

 

 そして、入社して7年後、再び訓練が再開されることになった。訓練は座学からのやり直し。アリゾナのフェニックスでのプロペラ機、小型ジェットでの訓練を終え、ライセンスを取得したのち、日本でシミュレーターを使った訓練。そしてグアムの実機を使った訓練を終え、晴れてパイロットになったのは入社10年目だった。

 

 今は、機長昇格を目指して、日々、勉強中だ。

 

「離着陸の技術だけではなく、機を任されるリーダーとしての判断力を磨くべく日々精進しています。『ようこそ私の飛行機へ!』とお客様に、自信を持って言えるよう、決して妥協せず、最高のサービスを追求し続けます」

 

 「失敗を恐れないで。すべてがあなたのためになります」これが丸山さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2019年6月 取材・文・記事 田中直美)

 

―編集後記―

 「高校では落ちぶれて、先生方からも若干見放されていました。でも、人生は、どこかで取り返せることもある、ということを後輩に伝えたくて」と、神撫会東京支部に連絡をくださり、取材を受けてくださった丸山さん。

 お話を伺う中で「後輩たちの役に立ちたい」という気落ちがひしひしと伝わりました。

「素直」であることが、おそらく自分自身の長所、とお話くださった丸山さん。何年か先には、乗り合わせた飛行機での「機長挨拶」で丸山さんの声を聞く長田OBも出現しそうですね!

 

 

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Face To Face NO85「1%のひらめきと99%の努力」 

 49回生 春本雄二郎

 白川台中学卒

 日大芸術学部卒

 松竹京都撮影所

 映画監督

 

 

「映画監督」。誰もが知っている職業だけれど、いったいどうやったら成れるのか?実際にはどんなことするのか?ぼやっとしたイメージでしかない。実際に「映画監督」になった春本さんでさえ、監督になってみて初めて知ったこともあったと言う。

 本人曰く「根拠のない自信」に溢れていた青年時代。なんども反発し、反省し認められ、そして自信を失い、また考えることを繰り返してきた。

 初監督長編映画「かぞくへ」は、日本で最も大きな映画祭の一つである東京国際映画祭に公式出品され、フランス・ヴズ―ル国際アジア映画祭では、最優秀アジア映画賞を含む三冠を受賞した。次回作の準備も着々と進む春本雄二郎さんにお話を伺ってきました。

 

 ―サードからセカンドへー

  気に入った映画はビデオテープが擦り切れるほど何度も観る少年だったが、「人の人生に影響を与えられるような映画を作りたい」と考えたのは二十歳の時。自分が本当にやりたいことは何なのかと、初めて真剣に自分自身に向き合った時間だった。当時、唯一、映画を教える大学だった日大芸術学部映画学科に進んだ。

 

 就職したのは、松竹京都撮影所の演出部。「鬼平犯科帳」「必殺仕事人」などを助監督として経験した。助監督にはランクが三つある。チーフ、セカンド、サードだ。まず、サードでは小道具や美術を担当する。セカンドでは衣装やメイク、エキストラの手配&演出。そしてチーフになると現場全体のスケジュールを管理し、全てを「回す」。

 

 当然、サードからの出発。「監督になる!」と心に決めていた春本さんは、ずっと現場以外での勉強を続けていた。監督は認めてくれていたが、先輩助監督たちからは生意気な態度が反感を買っていた。次第にメインの仕事ではない小さな作品を担当されられることが多くなる。そんな中、一人の先輩助監督が「なんとかしてやろう」と、セカンドとしてのチャンスをくれた。

 

 「ずっとサードしかさせてもらえないのは嫌だろう?だが、それはお前の人格の問題だよ。今のままだと、監督になった時にだれも一緒に作ってくれないよ」

 

 当時、追い詰められて気持ちでいた春本さんは、今こそ挽回のチャンスと意気込む。だが、自分でもできると考えていたセカンドの仕事でいざ現場に立つと、何をしたらいいのか分からない。その優秀な先輩助監督が全て一人でこなしていく。居場所がない。あせった。まずは先輩の仕事ぶりを完全にコピーすることから始めた。一ケ月間は針のむしろ。だが、三ケ月で全方位に目を配り、四手五手先を読む術を身に着けた。

 自他ともに厳しい先輩が褒めてくれた時は嬉しかった。「油断するなよ」と一言付け加えることも先輩は忘れなかった。

 

―セカンドからチーフへ。そしてリセット期間ー

 東京のプロデューサーに声をかけられ、幸いにも出向という形で東京で仕事をさせてもらった時期がある。京都では時代劇が中心だったので、現代劇を扱う東京に出ることは願ったりのオファーだった。京都の撮影所のスタイルしか知らなかった春本さんにとっては新鮮な体験だった。東京ではフリーのスタッフが集まるのでまさに一期一会。徒弟制度が色濃く残る京都とは対照的だ。東京では慣れないスタッフ同士でも意思疎通できる柔軟さが必要だった。改めて大切なものはチームワークだと実感した。

 

 やがてチーフになった春本さん。

「とにかく大切なのは精神力、体力。絶対に途中で集中力を切らしてはいけないんです。撮影現場では何が起こるか分かりません。先の先まで読んで、穴のない状態にしたつもりでもイレギュラーが起こるのは当たり前。そんな時に、パニックになってはいけないし、怒りの感情も起こしてはならないのです」

 

 2009年、30歳の時に、春本さんは京都の撮影所を辞めフリーの助監督として東京に出た。あるプロデューサーが呼んだくれたのだ。だが、このフリーの助監督時代は大変だった。とにかく目の前の仕事の処理で精一杯。やがて「自分が今何のためにこの仕事をこなしているのか」が見えなくなってきたと感じた春本さん。自分は「人の人生に影響を与えるような映画を撮りたかったのではないのか?」と自らに問い直す。そして決めたのは全てリセットするために一年間休職するという選択だった。2012年の2月の話だ。

 

 最初の三ヶ月はとにかく何もしなかった。「廃人のような生活」と春本さんは言う。そして次に始めたのは、とにかくありとあらゆる仕事をして社会を覗いてみるということだった。ゴミ収集、ひたすらネット注文の商品を箱詰めする仕事、マンションの造園、ジムのフロント、スーパーの鮮魚売り場、などなどなど。こうした仕事のかたわら春本さんはシナリオを書き始めるが、なかなか満足のいくものは書けない。しかも、アルバイトでは生活費を稼ぐだけで物理的に時間を大量に消費せねばならず、シナリオを考える時間をとるのが非常に厳しい。

 

 助監督として二、三ヶ月、働いてお金をためては二、三ヶ月シナリオを書く生活スタイルで働こうと決め、映画作りの資金を貯めながらシナリオを更に練った。

(実はこの時に練っていたシナリオは次回作品。テーマが深すぎ、資金も足りないと感じ、いったん寝かした)

 

  35歳の時に、とにかく、自分の力を表現する名刺代わりになる映画を一本撮ろうと決意する。そしてそれは、その映画製作を無償で協力してくれるスタッフ、俳優陣にとっても名刺代わりになる作品だ。初監督で初めて知ったのが、編集の終わった作品の音調整に膨大な手間と時間がかかるということ。そして海外の国際映画祭に出品するための字幕制作に、予想以上の時間とお金がかかるということだった。

 

 とにかく作品は出来上がった。4つの国内映画祭に応募した。そして、日本で最も大きな映画祭の一つである東京国際映画祭から、最終選考に残っていると連絡が来たのだ。

 

 「これは、自分としては全くの予想外の快挙でした。そこから最終選考の結果が出るまで一週間、だれにも言わずに結果を待っていましたが、緊張のあまり吐き気に悩まされたほどでした」

 

 その後の結果は最初に書いた通りだ。

 

「僕はメジャーな映画を撮るつもりはありません。商業ベースに乗るためには、有名作家による原作、有名俳優が必須です。でも僕は、『人を丁寧に見つめ、いま描くべき社会的メッセージを内包した映画』を作りたい。そのためにも、資金を全て自分で用意しています。もちろん、資金集めは非常に大変です」

 

 夢を語るにあたっては「熱く」「大胆」。だが、行動は「冷静」かつ「繊細」。春本さんは、自分のことをこう自己分析した。第二作のキャスティングも既に始まっている。

 

「情報が簡単に入る今の時代こそ、見る、触れる、やってみるの経験を大事にしてほしい。そして、他人の物差しではなく、あなた自身の大きなオリジナルの物差しを作ってください」春本さんから、現役長田生へのアドバイスだ。(20196月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 映画監督である春本さんも、こうしてインタビューを続けている私も、根本のところで「人」が好き。「人」に興味がある。という点で深く共通するものを感じました。もっと、お話を伺いたかったですが、時間切れとなり残念でした。

 第一作「かぞくへ」の劇場公開は終了してしまいましたが、今は鑑賞希望者3人以上で、無料でDVDを貸し出しています。

https://haru-gumi.amebaownd.com/pages/2196423/page_201808191645

次回作応援のためのクラウドファンディングも始まっています。一月500円の応援から可能。返礼は映画のチケットやお名前のクレジットなど。コーヒー一杯の値段で、あなたも同じ長田生として春本さんの夢を応援してみませんか?https://haru-gumi.amebaownd.com/ 

私も、次回作をいち早く拝見したいので、上映会参加の特典付きにさっそく申し込みました ^^) 

追記

なんと、この取材の後、第二作目「嘘に灯して」が、日本でもっとも権威のある「フィルメックス」の

新人監督賞ファイナリストの10作品に選ばれたとのニュースが入りました!

https://new-directors.jp/2019/

今、まさに最終審査の真っ最中です!

 

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Face To Face  NO84 総会 担当回生(44回生)ご紹介

ー平成の申し子、44回生ー

平成元年に長田高校に入学。平成最後の年となった2019年の神撫会東京支部総会運営を、まるで運命のように担当することになった44回生。

 

取材の317日現在での中心メンバーは6人。最高裁判所に勤務する松本さんは、昨年より「今度は僕たちが担当回生だ」と責任感をもってリード。奇しくもパナソニックに共に務める松本さん(松本さんが二人!)と中尾さんはデーターに強いということで名簿担当。紅一点の福澤さんは受付、自動的に本谷さんが会計。理論派のワインバーオーナーの松下さんがまとめ役という構成。もちろん、まだまだこれからもメンバー募集中。この記事を見て、「私も手伝いたい!」と思った44回生は、松下さんにまでメールを!

メールはこちらから!

インタビュー当日は松下さんと本谷さんが幹事会に出席されていたので、お二人にお話を伺いました。


向かって左が本谷さん。右が松下さん

撮影場所 リースリング

http://www.winebarriesling.com/access.html

最近は長田生がやたらに出没しています。

皆様もぜひ!

■■■

 

松下さんは、新宿西口でドイツワインのワインバーを経営して10年。きっかけは、長田時代の世界史の黒河先生の授業だったそう。先生の影響でヨーロッパの歴史に興味を抱くようになった松下さんは、最終的に北大の大学院でドイツ史を学び、ドイツが好き過ぎて渡独。7年間、ドイツの飲食店で働きながら暮らした。現在は、新宿西口でドイツワインのバー、「リースリング」のオーナー。自らドイツ料理にも腕をふるう。ドイツの歴史について質問したら話は止まりません!

 

松下さんとは硬式テニス部つながりの本谷さんは、「まじめなナイスガイ」。AGCに勤める技術屋さんで、高校時代はひたすらテニスに打ち込んでいた。「いじられても、大人の心でさらっと流し、場をなごませるキャラ」だとか。

 

二人とも、幹事会には緊張して臨んだそうですが、「先輩たちが元気でびっくり。やりたいようにやらせてくれるし、困った時には、すぐに頼れる前年度の先輩もいて、心丈夫です!」との嬉しい感想。

 

そんな彼らの今年のテーマは「平成の長田高校」。彼らにぴったりのこのテーマを、どう料理して私たちに味わせてくれるのか、乞うご期待です!(2019年4月 取材・写真・文 田中直美)

 

 

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Face To Face No.83「やってみよ、だめなら直せ」

 高27回生 岩田直樹

 舞子中学卒

 硬式テニス部(途中退部)

 香川大学経済学部卒

 りそな銀行代表取締役社長兼執行役員

 一条工務店代表取締役社長

 

 

 2003年のりそなショックの翌年、2004年にりそな銀行の執行役員に、2008年のリーマンショック翌年、2009年にりそな銀行3代目社長に就任。その時、岩田直樹さんは53歳だった。長田時代は「成績も部活も全て中途半端な生徒でした。将来に悩むこともなく、友人たちとも適当な距離感で付き合い、可もなく不可もない毎日を送れたらそれでいい、そう考えていた思います」と語る。そんな「ごく普通の高校生」だった岩田さんが、どんな道筋で変化していったのか。お話を伺ってきました。

 

―中堅どころー

 第一志望だった神戸大学に不合格。浪人はだめ下宿が必要な私立大学もだめと両親から言われていた岩田さんは、当時の国立二期校だった香川大学に進学。寮生活が始まった。

 「とにかくバンカラで、入学式の日には、寮の門扉の柱の上にバケツを持った先輩が待ち構え、母親が付き添う新入生が来ると、バケツの水をぶっかける。そんな洗礼が待っている寮生活でした」

 

 最年長の6年生が絶大な権力を持つ寮生活で、厳しい上下関係と礼儀、そして先輩が後輩の面倒をみる伝統を身をもって体験し、社会生活での基本を叩きこまれた。

「でも、ここでも、私は寮長になるようなタイプではなく、中堅どころ、という感じでしたね」

 

 協和銀行に就職したのも、ゼミの先輩がリクルーターとして来てくれたから。たまたま3人いた同期のゼミ生のうち、残り二人は卒業できるかどうか微妙な状況で、岩田さんに決まった。決して主体的に就職活動をしたわけではなく、なんとなく流れで始まった銀行員生活だった。

 

―仕事の面白さにめざめるー

「第一の転機は、入社3年目の25歳の時に、法人取引先新規担当に配属されたことでした」。

通常は、既存企業への融資を担当し勉強したあと、30歳を過ぎて巡ってくる部署だった。25歳の若造が就く部署ではない。最初の半年は一件もお客さんがとれなかった。

 

「半年後に、なんとか初めてのお客さんと取引が出来ました。今でも覚えています。CAD(コンピューターによる設計支援)の会社で2000万円を融資しました。伸びる企業を見つけ出し、融資し、黎明期から大きく成長していく姿を見守る。仕事の面白さに目覚めました」

神戸の元町支店をスタートに心斎橋支店、38歳でロンドンに転勤したときも、ずっと法人新規開拓を担当。43歳で帰国して支店長になるまで、ずっと法人担当で「『法人取引の男』と思われていたと思います」、と岩田さん。(注:法人取引の対義としては個人取引がある)

 

帰国後は中目黒、蒲田、大阪の難波と支店長を歴任した。協和銀行と埼玉銀行と合併して、協和銀行があさひ銀行と名前を変えた直後、本部に戻って法人部部長となった岩田さん。その、一か月後に、あさひ銀行は更に大和銀行と合併し、りそなとなる。だが、合併による資金不足対策も及ばず、その二ヶ月半後に「りそなショック」が勃発した。中堅の都市銀行だったりそなの破たんは、社会的影響が大きすぎると、時の政府の判断により、注入された公的資金は合計3兆円に上った。2003年のことである。

 

「合併の後遺症で旧行の主導権争いが顕著だったのが、このりそなショックで吹っ飛びました」

 

―再生への道―

「りそなショックで常務以上は全員退任。りそな再生のためにJR東日本の副社長からりそなの会長に来てくださった故細谷英二氏に出会えたことが、私の人生の第二の大きな転機となりました」

 

細谷さんは、国鉄が民営化した際の裏方のトップ。りそなの会長就任を打診された時には、周囲の人たちが皆、「やめておけ」と口を揃えたにもかかわらず、チャレンジとして決断して来てくれた人だった。

 

細谷さんの最初の一言が「りそなの常識、世間の非常識」だった。

 

これからりそなは改革していかなくてはいけない。だが、ごく一部の意識の高い行員、改革していきたいが具体策の考えられない行員、傍観者的行員、と内部の状況は様々だった。そこへガツンと喝を入れ、改革の軸を作ったのが細谷さんだったのだ。

 

細谷さんが来て半年後、岩田さんは法人部部長から、マーケティング戦略部部長となる。ここは店舗企画、法人企画、個人企画、各種商品企画など、さまざまあった営業の全ての企画を統括する部門で、抱える部門長だけでも20人越えだった。

 

「やってみろ、だめなら直せ」という細谷さんの言葉に、岩田さんは数日後、会長室にアポイントもなしに乗り込み、5分だけ時間を下さいと食い下がって「『やってみろ、だめなら直せ』というのは本気ですか?」と質問した。

 

「いやあ、あの時、細谷さんは顔を真っ赤にして本気で怒ったね。『おれが本気でもないことを言うか!』ってね。そうなんだ。梯子ははずされないんだな。なら、こっちも本気でやってやろうじゃないか!そう発奮しました」

 

半年後、執行役員になった岩田さんは、更に4年後、細谷会長に呼ばれた。りそなの2代目社長が退任するので、3代目の社長になれと言う。

 

「私自身、自分はNO2の男だと自認していました。とりあえず、一度家族にも相談させて欲しいと話し、帰宅して妻に『大変なことになった』と言ったところ、妻の返答は『お父さん、とうとう首ですか?』でしたね(笑)」

 

3兆円の国への借金を返済しなくてはいけない。これは大変な重圧でした」

 

4年の社長の期間を経て、借金返済の目途も立ってきた。4代目社長に後を託し、引退した2年後には3兆円の借金が全て完済された。

 

「私はある意味、とても小心者です。そして、人からどう評価されるかも気になる。良い評価が欲しい。だからこそ、細心の注意を払って物凄く準備します。経営者は自信満々であってはいけないと思っています。充分ではないと思っているからこそ、様々な手を考えるのです」

 

―第二の道―

現在は、大手ハウスメーカー一条工務店の社長を務める岩田さん。社長に、と話をいただいた時、お断りするつもりでいたが「マニラにある工場を見学に来てください」という誘いに乗ってしまった。「実は、工場見学が大好きなんですね(笑)」

 

そこで、まる3日間、オーナーからの熱い想いを聴き、それを体現する大規模工場を見学し、社長を引き受けることを決心した。

 

「銀行では、一度ご融資すれば長期に亘って利息(収益)を頂けます。でも、ハウスメーカーは大げさに言えば、一棟売れてなんぼの短期決戦。その毎月毎月が勝負のような世界が面白くて、チャレンジしようと思いました」

 

「普通の高校生」だった岩田さんは、ずっと進化し続けている。(20193月取材、文 田中直美)

 

 

岩田さんが、銀行時代に夫婦のコミュニケーションとして始めた自転車。すっかりはまって「ヴェント・アッズーロ(青い風)」というチームを作るに至った。最近は忙しくてなかなか乗れていないが、一生の友と思える自転車仲間とも出会い、生涯の趣味にと思っている。二年前には妻と自転車で四国のお遍路八十八ヶ所巡りを結願した。

 

編集後記

 岩田さんは、私の長田時代の硬式テニス部の一年先輩です。当時、ブルーの布製のショルダーバックを斜め掛けしていた姿が何故か記憶に鮮明で、インタビュー時にそのお話を持ち出したら、「ああ、良く覚えていますよ。実はあれは僕が自分で作ったんです。履かなくなったジーパンのリメイクです。こう見えてお裁縫好きだったんですよ(笑)」という衝撃のお答え!岩田先輩のチャーミングな側面を発見したインタビューとなりました。

 

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Face To Face No.81「やんちゃと生真面目」

 河合伸一

 三中25回生 高3回生

 京都大学法学部

 弁護士

 最高裁判所判事

 

 河合さんは、裁判官、弁護士、最高裁判所判事、そして再び弁護士、という人生を歩んできた。それは、河合さんの「真面目で細かいところまで気になる」性格と、「やんちゃ」な性格が表裏一体となりながら、それぞれの仕事に邁進させたと、妻でもあり弁護士でもある徹子さんは言う。今は閑静な住宅街で奥様と二人で暮らす河合先輩にお話を伺ってきました。

 

―歩んできた道ー

 「小学生時代は本当にやんちゃでしたね。先生にも怒られてばかり。それも教室の後ろとかじゃなくて、机の上に立たされちゃう。あれは恥ずかしかったなあ。級友たちはともかく、他の組の連中にも廊下から見えちゃうからね」と愉快そうに笑う河合さん。

 

 三中に入学前後は戦争だった。妹をオンブした河合さんは、機銃掃射で後ろから撃たれながら神戸電鉄のトンネルをめざした。走る河合さんの背中を、弾があたって跳ねる線路の敷石の音が追いかける。神戸の大空襲では、火の中をたった一人で裏山まで走った。どうしょうもない空腹とともに残る戦争の記憶だ。

 

 河合さんたち三中25回生は、最後の三中での入学生。卒業するときは高3回だった。

 

 「家が貧乏だったからね、地元の国立大学である神戸大学に行くつもりだった。京都大学なんて考えたこともなかった。でも、学年主任の先生が『京都大学を受けてみたら』と勧めてくれたんだよ」

 

 進学した京都大学法学部の友人が「司法試験」なるものを受けると言う。お前も一緒に頑張ろうやと誘われ、「司法試験っていったいなんや?」と雑誌で調べた河合さん。じゃあ、俺もやってみるかと、5人グループで勉強を始めたが、仲間は次々と脱落。「みんなに司法試験を受けると宣言していたからね。全員が辞めてしまったらカッコワルイと思って僕だけがんばったんですよ」。そして三回生で司法試験に合格。

 

 だが、その段階でも法律家の道に進むつもりはまだなかった。とにかく安定したサラリーマンの職に就いて稼ぎたい。超就職難の時代だった。

 

 「その頃、京大のゼミの先生で大隅健一郎という先生がいらした。一流の商法学者で、とにかくその先生の推薦がもらえると一流企業に就職できる。お願いに行ったら激怒された。『司法試験に通っているんだろう?推薦をもらってからどこの会社に行くか考えます、なんて言うやつに推薦はやれない!』。恥ずかしかったですね。そして司法修習生になりました」

 

 司法研修所で徹子さんと出会い結婚。裁判官となってすぐにハーバード大学へ留学。氷川丸で一ヶ月近くかけて渡った。一年間の留学生活の後、帰国。司法研修所付判事補となる。

 

 「この頃生まれた次女が、心臓が生まれつき悪くてね。大きな病院で治療を受けさせたかったが、裁判官には地方勤務がある。それで裁判官を辞めて弁護士になりました」

 

 河合さんの扱った案件ではイトマン事件が有名だが、阪神で活躍したランディ・バースとの契約に関わったのも河合さんだ。

 

 「バースの件でアメリカに行った時は、ファーストクラスの席だった。タイガースが用意してくれていたんだが、あの時は驚いたね。なんせ、その前にアメリカに行った時は氷川丸で一ヶ月の航海だからね。アメリカ人向けのシートは大きくて、僕が座ると体が埋もれてしまうぐらいだったよ。当時はキャビンアテンダントではなくスチュワーデスさんだけどね、これが女性なのに、みんな薄っすらと髭が生えていたのにびっくりしたね」

と昔を懐かしむ。

 

 経済通として知られた弁護士として活躍していたが、62歳の時に、最高裁判所判事に任命される。妻と4人の娘に「承けてもいいか」と尋ねたら、すぐに次女と末娘から葉書で返事が来た。

 

 心臓が悪かった次女は裁判官になっていた。来た葉書に書いてあったのはたった二言。「いやだ。困る」。劇作家になっていた末娘の葉書には「たとえお父さんが殺人を犯しても、父であることに変わりはありません。お好きな道を」。妻はあわてて長女と三女に電話して「当たり障りのない返事を書くように」とお願いしたと笑う。

 

―靴ー

「裁判官である時は、とにかく『公平中立』であることが第一。私生活であってもそのことは常に意識していました」

 

 ある日、靴を磨いていた妻が驚いて言ったという。

「裁判官の時は靴のかかともまっすぐにすり減っていたけど、弁護士になってからはかかとが傾いて減っているわ!」

 

「夫の本質は裁判官に合っていると思います。でも、子どもの時はかなりのやんちゃだったようで、それが弁護士時代には役に立ちました。たくさん喧嘩もしてたくさん仲直りした子ども時代。その経験が依頼者の役にたったと思います」

 

 2002年に最高裁判所判事を退官、東京弁護士会の弁護士となる。2004年旭日大綬章を叙勲。2017年に弁護士資格を返上。

 

 引退後の生活はいかがですか?とお尋ねすると、「楽だねえ」とニッコリ。毎日、妻の手料理を楽しむのが最高に幸せとのこと。

 

 「学生時代は、力一杯、好奇心を持ってできることはなんでもやってください。早くから進路を決めすぎないで。君たちはものすごい広い可能性を持っている。無限ですよ」

河合先輩から現役長田生へのアドバイスだ。(2019年1月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 河合さんを推薦くださった中25回生のみなさんは、今も有楽町にある「東京六甲倶楽部」で二ヶ月に一回、集まられるそうです。最初はただ集まっていましたが、仲間の一人が「孫や健康の話に終わるのはやめよう。毎回、何かテーマをもって勉強しよう」と言い出し、言い出しっぺの福留さんが、毎回、資料も用意してミニ勉強会を開催されているとのこと。そして、お仲間の尽力で、河合さんの旭日大綬章も母校に寄贈され、他の運動部や文化部の優勝旗などと共に飾られているとのことです。

 大先輩のインタビューに最初はちょっと緊張しましたが、河合先輩のチャーミングな、そして時々いたずらっこのような笑顔と、今も明晰なそのお話しぶりに楽しくお話を伺うことができました。「妻の方がうんと記憶力がいいからね」と奥様にもご同席いただきました。ありがとうございました

 

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