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「Face To Face」NO.64「一期一会」

 高54回生 太田沙紀子

 西神中学

 茶華道部

 弘前大学医学部保健学科

 東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科

 東京医科歯科大学大学院保健衛生学研究科

 特任助教

―保健師ー 

 阪神大震災が起こった時、太田さんは小学生だった。彼女の家がある西神地区には多くの仮設住宅が立ち並び、そこで、看護師ではないけれど住民の間を回りながら丁寧に話を聴く女性を見かけ、その女性が「保健師」であることを家族に教えてもらった。

 

 それが「公衆衛生」に興味を持つきっかけとなり、大学卒業後は、日中は保健師として働きながら、夜は大学院に通い、修士・博士の研究に取り組んだ。

 

 保健師として、ケアが必要な高齢者を訪問しながら、「老いる」ということを概念ではなく肌身で感じた太田さん。

 

 「ちょっとしたことを役所に電話して確認する。書類を見て手続きする。医師に現況を説明する。医師の説明を理解する。若い人なら簡単にちゃちゃっとできることが、高齢者とって『非常に難しい』ことであるという現実。頭では理解していたはずなのに、実際に高齢者と接してその深刻さを深く再認識しました」

 

 そして、更に仕事を続けていく中で「人として幸せな最期とはどんなものなか?」と考えるようになる。

 

 「それまでの私は、キャリアを積み上げていく自分というものは頭に描いていましたが、キャリアを積み上げる時間を終えた後の20年、30年の人生というものは想像も出来ていませんでした。億ションに住んでいても『ずっと一人でいて寂しい』と言う人もあれば、長屋に住んでいても、私が訪問している一時間の間にさえ何人もの人が顔を出し、『あら、おばあちゃん、今日はいいねえ』とか『お料理、ちょっと持ってきたよ』とか声をかけてもらい、ニコニコと幸せそうな笑顔を浮かべている人もいました」

 

 そして思いを馳せたのは自分の祖父母だった。

 

「私にとって祖父母は、自分が子供の時に接していた、まだまだ若々しく元気な祖父母です。でも、自分が大人になって自分のことだけに精一杯になっている間に、自分の祖父母も実は『老いている』ということに改めて気づいたのです。ご老人たちは『寂しい』と訴えれば、若い人たちが心配すると気遣ってくれている。若い人たちに心配をかけたくなくて『元気だよ』と言っていると」

 

 三姉妹の次女の太田さんは姉妹にも声をかけ、三人で月一回、「家族新聞」を発行し祖父母に届けることにした。A4の紙にちょっとした近況や写真を添えて。今もそれは続けている。

 

80歳、90歳、100歳の方々のお話に耳を傾け、その人生を追体験させていただきました。そして『人生は有限である』と肌身で感じ、生き方そのものがその人の最期に反映されると知りました。稀有な経験だと思います」

 

―WHOー

 公衆衛生活動は、様々なレベルで行われる。地区、市区町村、都道府県、国、世界と広がり、もっとも大きな「世界」という単位を担っているのが世界保健機構(WHO)だ。

 

 「自分には無縁と思っていたWHOですが、大学院の時に先生が『あなたならできる。チャレンジしても失うものは何もないのだから挑戦しなさい』と勇気づけてくれたのです。私は、彼女のことをメンターとして尊敬しています」

 

 師は励ますだけではなく、受験のためのテクニックや国際人としてのふるまいについても具体的に指導してくれた。太田さんはWHOのインターンに見事に選ばれ、世界に六ケ所あるWHOの地域事務所の中でインドのデリーで研修を受けることになった。研修を受けるためには保健師の仕事も辞めなくてはいけなく、友人たちからは「もったいない」とも言われたが、太田さんは一歩を踏み出した。

 

 太田さんはデリーで仲間と共にプロジェクトを進めながら、「日本の常識は世界の非常識」と痛感したと言う。

 

 「日本では24時間明るく、ネットはいつでもつながり、本はいつでも手に入り、自分にやる気さえあれば24時間いつでも勉強できます」 デリーでは違った。突然の停電は当たり前。ネットもいつ繋がらなくなるか分からない。

 

そしてそんな中、暴動による突然の「非常事態宣言」。街には土嚢が積まれ、ピストルで威嚇され、戦車が溢れている。6人以上で連れ立って出歩くと「集会禁止令」によって逮捕されるよ、と大家さんにも注意された。

 

 だが、バングラディッシュやインドネシアから来ていた仲間たちは、どんなことにも動じない。停電など当たり前のことだし、「非常事態宣言」にも、「そんな時もある」と平然。

 

「私には測り知れない困難を乗り越えてきた彼らは、私とは比べ物にならないほどタフで、私は、改めて自分がどんなに恵まれた環境の中で生きてきたのかと痛感したのです」

 WHOで共に学んだ仲間たちと

―学ぶー

 現在は大学の教員として、研究方法論、統計学、英語を教えながら自分自身の研究も進めている。

 

 一人一人の高齢者には、いくつもの病院、薬局、介護施設が関わっているが、その情報の集積は意外なほどにまだ進んでいない。ネット上にプラットホームを作り、各施設がそこに情報を集め、関係者のだれもが情報を共有できるようにするためのシステム作りの必要性は、保健師をしていたからこそよく分かる。また、介護ケアのレセプト情報の分析から、次世代の介護医療政策に反映すべきものも見つけ出したい。

 

 長田時代、茶華道部に所属していた太田さんは、「茶会に臨むときは、一生に一度の出会いであることを心得て、誠意をもって人に接するように」と教わった。

 「その時から『今』や『この瞬間』に意識を向けて、二度と巡って来ない一度きりの『今』を大切にするようになりました」と太田さん。

 

 保健師時代に接した多くの高齢者から、深く学ぶことができたのも、その「一期一会」に真剣に向き合えたから。

 

 「身近な人と、どれだけ触れ合う時間を持てたか」が人生の最期の時を彩ると、「一期一会」の中から学んだと考えている太田さんだ。(取材・写真・文 田中直美)

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編集後記

 記者ぐらいの年齢になると、自身の親の老い・看取りを通じて「老いる」ということを実感するようになります。でも太田さんが、この若さでそれを心の奥深いところで感じ取り、そして実際の自分の生活にも反映していることに深い感動を覚えました。また、何かと揶揄されることの多い介護保険制度ですが、これが世界的に見たら、現在、どれほど恵まれた優れた制度であるのかということにも気付かせてもらいました。太田さんの研究が、日本の介護制度を更に改善していけるよう強く願ったことです。

 

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「Face To Face」NO.63「全ては自分次第」

 高42回生 永井伸哉

 飛松中学卒

 野球部

 筑波大学卒

 ミズノ株式会社

 長田高校地理歴史教諭

 長田高校野球部監督

 

 昨年、長田高校野球部が春の選抜で甲子園出場を果たしました。永井さんは、その野球部の監督です。

 

 「甲子園が終わった直後は、僕の姿を見て『あっ』と声を上げる人もいましたが、今はだれも気づきませんよ。気づくのは長田高校の同窓生くらいです」と日に焼けた顔で笑う永井さん。そんな永井さんにお話を伺ってきました。

 

―人生の転換点ー

 長田高校に在学している時から、「絶対に高校教師になる」と心に決め、「教育学」を専攻して筑波大学に進学した永井さん。だが、卒業時期が近づくと「ビジネスの世界の方が大きく成長できるのでは」と考え始め、就職活動をしてみたら第一志望だったミズノにあっさりと合格。ミズノに就職した。

 

 赴任先の盛岡の営業所では、人が少なかったこともあり次々とやりがいのある仕事を任せてもらえた。担当製品が野球であったため、高校野球の現場をみる機会が多い。そんな仕事の日々の中で「野球の指導者になりたかった自分」が心の隅にふっとよみがえるようになっていた。

 

 入社3年目。世の中はバブル崩壊後の不況下、社内でも一大改革が始まり、永井さんも野球製品からゴルフ製品に担当替えの命令が下る。

 

その時だ。「会社を辞めて高校教師になります!」と永井さんは突発的に上司に宣言してしまった。心の中にあったもやもやが弾けた一瞬だった。

 

―難関を突破・嬉しい支えー

 「でも、バブルがはじけたその頃は、高校教師への道は超難関で、倍率は80倍から100倍でした」

 

 高校時代の恩師に相談すると「不可能に近いぞ」と言われた。

 

 25歳で会社を辞めて実家に戻った永井さんに、恩師が電話をくれた。妙法寺川公園で待ち合わせをすると、自転車で現れた先生(高15回の故 山本幸信先生)は、かごいっぱいに参考書を積んでいた。「まずはこの本を読め。この問題をやれ」とアドバイスくれた先生。嬉しかった。

 

 一年目の試験には失敗。一年間の講師期間に更に勉強を積む永井さん。一次試験に受かり、二次の面接試験を控えた時期に、既に高校教師をしていた42回生の同級生にアドバイスを求めて電話をした。

 

「彼とは学生時代にはなんの面識もなかったんです。でも二次の面接について、どういう勉強をしたらいいか、どんな質問に対してどんな答えを用意しておいたほうがいいか、40分以上もアドバイスをくれました」。嬉しかった。(ちなみに、その同級生は現在、長田高校の教諭として永井さんとともに母校で勤務している)

 

 そして永井さんは80倍の難関を乗り越えて、晴れて高校教師になった。高校教師8年目に母校長田に戻る。念願だった野球部の監督に就任したのは長田に戻って三年目。36歳の時だった。

 

―イメージを抱くー

私たちOBは「長田が高校野球に出るなんて奇跡!」と思った人が多かったのではないだろうか?でも永井さんは監督就任時から甲子園に出ることを鮮明にイメージしてきたと言う。

 

「県立高校なんだから、ベスト16に入れば上々だろうとよく周りからは言われていました。でも僕の中ではベスト8でもベスト4でもなく、甲子園を目指していました」

 

「甲子園で、長田のユニフォームを着て采配する自分の姿」をイメージし続けてきた永井さん。昨年は、そのイメージを更に具体的に膨らませていたと言う。「試合前に甲子園でミーティングをし、『さあ、行こう!』と選手に声をかける自分」だ。

 

そして、それは実現した。

 

今、イメージしているのは「甲子園で勝利をおさめ、校歌を歌う姿」だと言う。更なる高みをイメージする。

 

―長田野球ー

 昨年の甲子園出場でいろいろなマスコミから取材を受けた長田野球部。その中で「手帳にメモをとる」ことが再三クローズアップされた。

 

 「あれは、実は私のミズノ時代の経験が生きているんです」

 

素直な長田生はアドバイスを「はいはい」と良く耳を傾けて話を聴く。ところが3日後ぐらいに「俺が三日前になんと言ったか言ってみろ」と質問すると答えられないことが多いことに気づいた。

 

「会社員時代にメモをとることを指導されたことを思い出したんですね。『おまえらは賢いけど、それでも忘れる。忘れるんだったらメモをとれ』と言ったんです」今ではそれが長田野球部の伝統になりつつある。

 

 「僕は『野球命、野球が三度の飯より好き』というタイプではありません。どちらかというと、チーム・マネージメント、長田チームの独自性を考え、成果に結びつけることが好き。そして、そのことが、自分自身の学びにもなっているんですね」

 

 そんな永井さんのもとで生まれた野球部のコンセプトが「文武不岐」。そしてモットーが「野球を学び、野球で学ぶ」だ。

 

―壁ー

 超難関だった高校教師採用試験でも諦めなかったのは「高校教師になって野球の監督をする」と自分で考え自分で決めたからだ。

 

「自分の前にそびえる壁を見てひるんでしまう生徒も多いです。でも僕はそんな生徒たちに伝えたい。壁の方だけを見ないで後ろを振り返ってみろ。そこに広い世界があるんだよと」。

 

 高3の秋、クラスでした3分間スピーチで、「将来、指導者として野球部に戻ってきて甲子園にいきます!」と永井さんは宣言した。そして、そのことを級友たちは覚えてくれていた。感動した。

 

 「想像以上に甲子園は特別な場所でした。普通の野球場ではベンチの後ろは壁、上は天井。でも甲子園ではベンチの真後ろに観客席がある。一つ一つのアウトに押し寄せてくる観客席からのどよめき。その一体感は今まで味わったことのない感動でした」

 

 今年の夏の甲子園予選は残念ながら三回戦で敗退となった。だが、永井さんは甲子園で校歌を歌う姿を、ありありとイメージし続ける。挑戦は、まだまだ終わらない。(20177月 取材・文・写真 田中直美)

 

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編集後記

 

 インタビューは長田高校敷地内の神撫会館で行いました。私にとっても懐かしい、唯一古いまま保存されている昔の図書館です。ところが校内の様子はすっかり変わり、どこになにがあるのやら。ウロウロしている時にあったのが練習が終わったばかりの野球部の生徒!「神撫会館はどこですか?」と尋ねると、二人少し顔を見合わせて「分かりにくいのでご案内します」と先導して歩いてくれました。優しくて礼儀正しい後輩にお会いできたのも、嬉しいおまけ付きの取材でした。

 

 

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祝・NDC70 ポカリスエット公募CM準優勝!

いつも爽やかな高校生達が活躍するCMが印象的なポカリスエット。

何と、このCMに長田生が登場しました。その名も「ポカリ鬼ガチダンス選手権」。

全国700以上の作品の中から長田ダンス部70回生有志:NDC70が準優勝したのです!

https://prw.kyodonews.jp/opn/release/201707053442/

 

モダンな校舎をバックに、白いセーラー服が「鬼ガチ」難しいダンスで跳ねまわる。

次々繰られる手書きフリップがちょっと読めないけれど、逆さま太字の「今日」が目に焼きつきます。

見事なフォーメーションに挟まるハートの人文字がとってもキュート。

最後のダイナミックジャンプは弾ける笑顔で若さ爆発!

最後の

●準優勝
<NDC70
ポカリ鬼ガチダンス挑戦!>

https://mixch.tv/m/rxK0hriB

 

今回の参加についてインタビューさせて頂きました。

「部員の一人がキャンペーンを見つけ『この振付、絶対ダンス部得意や!3年生10人皆でやろう!』と提案したのが5月。『引退記念になれば・・』と練習を開始したものの、学校のテストと最後の総体練習と重なって時間がない!部活や家での隙間時間を使い、“振り付けムービー”を見て何百回も練習しました。」

 

「撮影当日は5回の撮り直し。ハートの人文字はらせん階段の4階から撮影です。

ラストシーンは3テイクで会心のジャンプが撮れました。」

 

「準優勝が決まった時は『やばい、やばい!!!!!』。

『すごい〜! CM見たよ〜』の沢山の祝福の声が、家族・友達・先輩から届きました。

審査を経て、3年間一緒にダンスをしてき仲間との作品が認められた事は大きな喜びとなりました。」

 

<CM放送>
・「鬼ガチダンス 結果発表」篇(30
秒)放送:7
月9日(日) 

https://www.youtube.com/watch?v=U5A-5E9eHBc

・「鬼ガチダンス みんなで踊ってみた」篇(30秒)放送:7月16日(日)
※いずれも19:00-19:58放送 「ザ!鉄腕!DASH!!」(日本テレビ系列)内にて一度だけ放送

<WEB動画>

・「鬼ガチダンス選手権 ありがとう」篇(60秒)

  https://youtu.be/cVcsLOgi9UQ

 

最後に卒業生に一言。

『私たち3年生は6月の総体を最期にダンス部を引退しましたが、12年生は8月の全国大会に向けて頑張っています。これからも長田ダンス部を応援よろしくお願いします!』

(文責:41回生 井川千穂)

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「Face To Face」NO.62「ビジネスに命をかける」

 高35回生 荒木篤実

 神陵台中学卒

 サッカー部途中退部

 放送部

 慶応義塾大学経済学部

 VELTRA S.à r.l. (ベルトラ(株)親会社)

 director

―ベルトラー 

 「ベルトラ」という会社がある。113ヵ国338都市のオプショナルツアーをインターネットで予約できる。昨年度は100万人をゆうに超える人々が利用した。今やネットで飛行機もホテルも個人で簡単に手配できる時代だが、では行った先で何をするのか?その「経験」の手助けをしてくれるのが「ベルトラ」。「ベルトラ」を創ったのが荒木さんだ。

 

 日産の社員だった荒木さんが、現在の「ベルトラ」に至るまでには何度かの大きな転換点があった。だが、ずっと変わらないのは荒木さんの「全てを犠牲にしてでもビジネスにかける。仕事が好き!」という姿勢だ。

 

現在のベルトラオフィスの様子。若い社員たちで活気に溢れている 

 

―変遷ー

 日産を退職し、一年先に退職して起業していた二人の先輩と共に新規事業に参加したのは28歳の時だった。

 

 「とにかく日産に勤めていた時から仕事の虫でした。大きな予算を任されている限りいい加減なことはできない。月に2回は完徹が当たり前でしたが、やりたいからやってるだけ。やらされ感はゼロでしたね」

 

 先輩二人は、一人は10歳年上、もう一人は5歳年上。世代も得意分野も違う三人だったが、チームワークは抜群だった。

 

10歳上の先輩は、とにかく先が読める。目の前の事象に右往左往せず10年先の長期的な世界の動きをいつも見ていました。5歳上の先輩はビジネスの種を見つけてくるのがうまい。種をみつけ、どう動かしたらビジネスになるのか考える。そして僕は前線の突撃隊長です。人がしり込みするようなことをやり抜くことに生きがいを見つけちゃうんですね」

 

 三人が最初に起こした事業は、「自動車関係の市場調査」だ。もともと得意の専門分野であるし、外資系の自動車会社が日本進出を狙っている時期と重なり業績は好調だった。

 

 三人が「インターネット」の存在を知ったのは1992年。

「当時の日本でインターネットの存在を知っていた人は1パーセントにも満たないのではないでしょうか?」三人はITコンサルの会社を起業する。コンサルとは言っても当時はまだまだ泥臭く、配線を床に敷くところからスタートしたというのだから、今からみると隔世の感だ。最初の顧客はドイツの自動車会社オペル。BtoB(企業間取引)は額も大きい。業績は順調だった。

 

 だが、3人はあっさりとそれまでの商売をたたみ、よりリスクの高いBtoC(個人向き事業)に転換することを決める。始めたのはゴルフ場の予約サイトの創設だった。2000年のことだ。これも当たった。だが同じような業態の会社が次々と株式公開で資金を集め別の世界へと入っていくのをみて、三人はまたもその事業を売却する。

 

「この時は銀行にもあきれられましたね。何故、売却するのかと」

 

 そして2004年に始めたのが「ベルトラ」の前身「アランワン(Alan1.net)」だ。ゴルフ場予約サイトでの経験を生かし、当時の日本ではまだだれもやっていなかった「アクティビティの予約サイト」の運営を始めた。

 

 創設当時はトラブルも多かった。バリ島で結婚式を挙げた後、親族一同でクルーズをする予定だった人から「迎えがこず、クルーズできなかった」とクレームが来た。すぐさまバリ島に向かったが、お客様はすでに帰国。現地のツアー催行会社とホテルの人に状況を検証。だが、のんびりモードのバリの人たち相手で、その時は埒があかなかった。「あやまりにこい」という顧客のもとへ向かったら「なんだ、ほんとに来たのか」と態度が一変。その後も何度かご利用いただいた。

 

 今では細かい対応策を個々の案件に応じてとることで、クレーム率は限りなくゼロに近づけている。

 

「原始の世界から、『自分の知らない世界を見てみたい』という欲求が人にはあります。今はメディアに情報が溢れているけど、あれは本当のことではない!これは自分の体験です。だから、顧客の皆さんにも、ぜひ実体験をしてきてほしい」

 

―人生の全てを仕事にかけるということー

 社長の座を若い世代に譲った今も、荒木さんの頭の中は一日24時間99パーセント仕事のことで占められていると言う。

 

 インタビュー前の一ヶ月間の海外出張では、パリ、アムステルダム、マニラ、上海の駐在事務所を回り、顔を見て現場の様子を把握。現在、顧客の市場を国内から世界へと広げる道途上だが、どこに出してどこを引くか、迅速な判断が求められている。一年の四分の三は海外を回り、帰国しても時差の関係で「私だけは24時間対応しています」。

 

「とにかく三度の飯より仕事が好き。ふと気がつけば飯も食ってない、水も飲んでない!ということもあるほどで(笑)。さすがに最近は、自分の健康管理には少し気を配るようにはしていますが」

 

 長田の現役生たちにメッセージをお願いした。

 

「学校教育の幅は決して広いものではないです。学生時代の経験で得られるものは、せいぜい5パーセントぐらいでは?仕事をスタートしてから得られるものの方が血となり肉となり、人生の本当の『知恵』も身につく。ぜひ、スポンジのようにあらゆるものを吸収する社会人になってください」

 

 荒木さんには夢がある。一財産残ったら、それで「ビジネスマン養成学校」を作りたい。そのために、家族にも「財産は残さない」と宣言した。

 

24時間働く男に、リタイアという言葉はないようだった。

20176月 取材・写真・文 田中直美)

 

 ベルトラHP

https://www.veltra.com/jp/?cid=ls_test_global_auto&utm_source=ls&utm_medium=text_global_auto&utms=ls

 

編集後記

 私が一昨年ヨーロッパ旅行に行った際、アウシュビッツの見学に利用したのが、たまたまベルトラでした。

 私ではなく夫が手配し「ベルトラ」を使ったと聞いてはいたのですが、それがなんであるかも気に留めていなかった次第です。今回、取材を通して、それが後輩が興した会社だったと知り、がぜん親近感を覚えてしまいました

 

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「Face to Face」(OB御紹介)記事一覧
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NO.63 高42回生永井伸哉
「全ては自分次第」
ーーーーーーーーー
No62 高35回生 荒木篤実
「ビジネスに命をかける」
ーーーーーーーー

NO.61 高15回生 仲誠一
「為せば成る、為さねばならぬ何事も」
ーーーーーーーーーーーー
番外編 NO.60  懇親会担当、42回生ご紹介
ーーーーーーーーーーーーーー
No.59 高61回生 中野瞳
「うまくいかないからこそ面白い」
ーーーーーーーーーーーーーー
NO.58 高17回生 中野正好
「美しいものが好き」
ーーーーーーーーーーーーー
NO.57 高30回生 伊達寛
「保続」
ーーーーーーーーーーーー
NO56 38回生 金盛正樹
 「NEXT ONE」
ーーーーーーー
NO55.34回生佐藤絵里
「叩けよさらば開かれん」
ーーーーーーーーー
No.54 29回生水草修治
「生きる道を探して」
ーーーーーー
No.53 41回生 藤井浩
「ふまれてもふまれても立ち上がれ」
ーーーーーー
 No.52
 31回生 青木稔
「教師として生きるー亡き息子の志を継いでー」
ーーーーーーーー

 No.51 番外編
 41回生奮闘記
 
No,50 高18回生 藤本隆

「我が道を行く」

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N0.49 高43回生 山田洋平

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No.48 高35回生 山田恭嗣

「人とつながり、自然とつながる共感」

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No.43 番外編「再会を果たす」
高43回生 田中英一郎
高43回生 伊藤利尋
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NO.42 高28回生 岩崎倫夫
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NO.41 高44回生 藤田咲子
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「Face To Face」NO.61「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」

 高15回生 仲 誠一

 飛松中学卒

 生物部

 兵庫県立兵庫農科大学卒

 

 キャセイ航空勤務

 

―雑草会ー

 長田高校生物部のOB会を「雑草会」という。仲さんは、学生時代から72歳の現在に至るまで「雑草会」との交流は途切れたことがない。人生の節目節目で、「雑草会」の先輩方の言葉に導かれてきた。

 

 大学時代に、学業を一年半休学して、片道切符でシベリア経由でヨーロッパに渡ったのも、京大探検部にいた生物部の先輩の言葉がきっかけだった。

 

「狭い世界に閉じこもるな。ヨーロッパに出てこい。人生観が変わるぞ」

 

「そうだ。このまま卒業して安泰なサラリーマン生活を送ったとしても、それ以外の何者でもない。違う環境に飛び込み自分を変えてみよう」

 

 仲さんはそう決心する。ゼミの先生に相談すると、働けそうな農場の住所を四ヶ所教えてくれたが、今の時代のようにメールがあるわけではない。それらの農場とはコンタクトもとれぬまま、住所の書かれた紙だけを持ち、同じ農学部の友人と二人で横浜港から「ハバロフスク号」で出航した。

 

―ヒッチハイクの放浪旅―

 とりあえず最初に向かったのは、大好きだった映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となったオーストリアのザルツブルクだった。二人でヒッチハイクを重ね、あのトラップ大佐の屋敷の前にあった湖や、子どもたちが木登りしていた並木道、大佐とマリアが愛を誓ったガラス張りの東屋、そして大佐とマリアが結婚式をあげた教会などを見て感慨ひとしおだった。

 

 だが、そこからは大変だった。教授から預かった住所の四件の農場で働くにはビザが必要だった。三ヶ月間、働く場所が見つからず、時には橋の下で野宿。万事休すと思った矢先、ドイツのぶどう農場を紹介される。当時のドイツでは、ヨーロッパの他の国からブドウ栽培の研修生を多く受け入れていた。スイスの紹介先でその農場の存在を教えてもらったのだった。八ケ月間、ブドウ栽培を学び、修了証書ももらった。次に向かったのは、その農場で教えてもらったオーストリアでのワイン醸造研修。ここで更に三ヶ月間勉強し、ここでも修了証書をもらった。

 

「この時に見聞したヨーロッパの生活様式が、その後の私の人生の方向を決定づけました。

人は働くためではなく、人生を楽しむために生まれてきた。生活の基盤は家族であって、会社での労働ではない。そう心に刻んだのです」

 

―グアム・万博・就職―

 一年半遅れて10月に卒業した仲さんは、農学部の友人6人と一緒に、グアムで農場を立ち上げた。当時のグアムは日本人の新婚旅行のメッカで日本人向けのホテルが建ち、ホテル向けの野菜が高値で取引できたのだ。また、友人の一人がサンスターの社長の親戚で、歯磨き粉用のハッカの栽培をするということで補助金を獲得することもできたのだった。

 

 だが、農場経営は残念ながら一年半であきらめ帰国することになった。サントリーでハッカの香りを人工的に合成できる研究が成功し、天然のハッカが必要でなくなったため、補助金を打ち切られたのだ。

 

 グアムを引き上げてきたのは1970年、万博の年だった。各国の展示パビリオンを解体した資材を本国に送り返す、通関業務の通訳のアルバイトを見つけた。その仕事も終わりに近づき次の仕事を探さねばと思っていた時に、アルバイト仲間から「キャセイ航空は年がら年中社員の募集をしているよ」と教えてもらった。

 

 「当時のキャセイ航空では採用試験もなく、空港営業所の所長の面接を受けただけで、翌日から働きはじめました。その頃のキャセイは労働条件が悪く、社員たちは、航空会社業務を覚えると他社に移る人が多かったのです。そのため、キャセイ航空は『トレーニングスクール』と揶揄されていました」

 

 しかし、勤め始めて二年目に労働組合が結成されると、勤務条件は大きく変わった。基本給が40パーセントアップ。ボーナスも2ヶ月以上アップ。残業もほとんどなく、採用当時から完全週休二日制。有給休暇も全て取得できた。ヨーロッパを体験して、そのライフスタイルに触発されていた仲さんは「絶対に外資系の会社に勤めたい」と考えていたが、その望み通りになった。

 

 万博時代に知り合った従妹の友人、陽子さんと29歳の時に結婚。年休・結婚休暇などを合わせて、新婚旅行のための休暇が40日取れたというのだから驚きだ。こうして、ヨーロッパヒッチハイク時代に心に決めた「家族第一主義」が大前提の結婚生活がスタート。三人の子どもにも恵まれた。

 

「とにかく結婚したからには夫婦・家族が基盤。旅行も全て家族一緒。単身赴任も断りました」。 仲さんの世代で、このような考え方を持ち、それを貫いた人はごく少数派だったろう。

 

 キャセイ航空では60歳まで働けたが、「60歳過ぎてからでは第二の人生をスタートするには遅すぎる。体力・気力の充実している間に再スタートしたい」と五十五歳で依願退職した。

 

―先輩の言葉にまたも触発されるー

退職金で、サラリーマン時代にやりたくても出来ていなかったことを始めた。まずドイツにドイツ語の語学留学。パラグライダーの免許も取得した。余裕のできた時間で学生時代のヨーロッパ紀行も本にまとめた。だが、気づくと退職金をほぼ使い果たしており、ついに病院の食堂の皿洗いを始める。そんな時に、アドバイスをくれたのが「雑草会」の先輩だった。

 

「おまえ、そんな過去を振り返って本をまとめるような作業するのは、まだまだ早いぞ。もっと世の中の役に立つことをしろ」。そう言って勧めてくれたのがJICAのシニアボランティアだった。そしてこれが、仲さんの第二の人生の大きなターニングポイントとなる。

 

シニアボランティアの選考条件は厳しい。3回目の選考試験でやっと合格。その後、2005年から2年間、2009年から半年間、夫婦でバヌアツへ、2013年から2年間は夫婦でミクロネシアへ。観光開発促進業務に取り組んだ。

 

バヌアツは83の島からなる南太平洋の島国で、1980年に英仏共同統治から独立したばかりの若い国だ。仲さんは、最初の赴任時に統治以前のバヌアツの歴史が書かれた本をみつけ、一念発起してそれを英語から日本語に翻訳。2007年に国立文化センターから刊行された。

 

「お金第一主義ではなく、互いに支え合いながらいかに幸せに暮らすかを、バヌアツの人々は私に教えてくれました。現地の人は、人を疑うことをしません。常に他人に対して優しさを持っているのです」

 

バヌアツの人々と 前列左が仲さん(書かなくてもわかりますね ^^) )

 

2015年、バヌアツはサイクロンのため国全体が壊滅的な被害を受けた。仲さんはバヌアツの民話集を翻訳。「ナバンガピキニニBOOK1」を神戸新聞総合出版社より刊行。その収益金を被害児救済のために寄付した。

 

「バヌアツと日本の若者の交流を担いたい。バヌアツの観光開発にも少しでも役立ちたい」。仲さんは、そんな思いから「バヌアツ・ ナバンガ ピキニニ友好協会」を立ち上げた。2017年に仲さんが翻訳刊行された「ナバンガピキニニBOOK2」の収益金を活動支援に役立てている。

 

仲さんが翻訳した「ナバンガピキニニ」絵が独特でとても美しい民話集。ピキニニとは子どもという意味。

絵本の購入ご希望の方は、vnabanga_pikinini@yahoo.co.jp にメールください。

 

 

「私は『お金持ち』ではありませんが『人持ち』です(笑)。大学時代のヨーロッパ放浪で知り合った人々。ドイツへの語学留学で知り合った人々。バヌアツやミクロネシアで知り合った人々。つい先日も、バレーボールの国際大会で一度使っただけのボールがたくさん眠っているという話を聞き、それを友人たちの協力を得て、無料でミクロネシアの子どもたちに送ることができました。これから、私の持つ『人』との繋がりを最大限に生かしながら、みなさんと一緒に楽しくバヌアツと日本をつなぐ仕事を続けることが私の生きがいです」

 

バヌアツに赴任中、「雑草会」の仲間が17名もツアーを組んで訪ねてきてくれた。「雑草会」の仲間たちが一番の宝であることは、もちろん言うまでもない。

20175月 取材・写真・文 田中直美)

 

「バヌアツ・ナバンガ ピキニニ友好協会」のフェイスブックページはここから 

 

 編集後記

 

  生物部先輩の言葉から人生が大きく変わったと話す仲さん。でもそれは、仲さんが人の言葉を真摯にとらえていたからこそと感じました。その延長線上に「人持ち」の今があるのでしょう。その仲さんといつも一緒に行動し、言葉ができなくても、どこの国の人ともコミュニケーションをとってしまうという「陽子さん」。「妻のそんな才能には脱帽」とのことでした。

 絵本、私も購入しました。なんとも言えない味のあるイラストとストーリーです。

 

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「Face To Face」NO.60 懇親会担当、42回生ご紹介

 

懇親会担当回生42回生のみなさん

 後列左より時計周りで

 山下さん、阿部さん、南谷さん、川部さん、小川さん、宇和川さん

今年の懇親会担当幹事は42回生。着々と準備が進んでいます。

今回は、42回生の中から6名の人にお話を伺いました。

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 まずは、個性溢れるメンバーのご紹介。

 

後列左端の山下さんは、とにかく「いい人」で仏のような人柄だそう。笑顔にも出てますね。「面倒なこともなんでも引き受けてくれるし、絶対に敵をつくらない。完璧な官僚で、ボロもだしません(笑)」との評。

後列2番目の阿部さんは、ただいま1歳半の女児のパパ。「同窓会の仕事をして家に帰ると、家のこともやってと妻に言われるのがつらいです」と、本当につらそうな表情をしてみんなの爆笑を買っていましたが、本人はいたって真剣!そんな彼は「同期のマスコット的存在」なのだとか。そして、言葉を選んで話す感性の人。

後列3番目、身長170センチの「高身長女子、南谷さん」が今年の幹事長。現役時代からリーダー的立場を担うことが多かったそう。 びしびしと皆に指令を出し、お酒を飲むと猛獣に変身するとかしないとか??でも普段は「麹菌」をかわいい!っと言いながら育てている夢見る乙女の側面も。

後列4番目の川部さんは、高校時代は「一匹狼」的存在だったそうですが、今は人当たりの良いイケメン。仕事が早くて頼りになるけど、びしっとダメ出しもするそうです。

ぐるっと回って前列右の小川さんは、大学時代からずっとテニスに打ち込むテニス女子。メンバーが好き勝手言っても、それをきっちり文章化してくれる才能の持ち主。

最後は、まあるいお目々がかわいい宇和川さん。なんと、彼女は声優さんです。42回生のアイドル的存在だけれど、企画のアイデアもどんどん出してくれるアイデアレディでもあります。

 

「去年の今頃までは、卒業以来まるっきり接点のなかった僕たちが、突然の濃密な付き合いで、それが楽しくてたまんない」

「みんなとても個性的で癖があるけど、それが集まってほんとに居心地がいい!」

「学生時代は話したことがなかった人でも『長田』というだけで、すぐに楽しく話せるのが不思議!」と、誰もが笑顔・笑顔。

 

インタビューの間も、本音でばしばし突っ込みが入り「長田エネルギー」が満載でした。

 

ここには出席できなかった42回生も、大勢が懇親会の準備に参加してくれています。63日が子どもの学校の運動会と重なって、当日出席できない女子たちも、「自分たちにできることは」と展示物の用意など、見えないところで大活躍。その心意気が「長田」です。

 

42回生からのメッセージです。

―長田の理念「智・徳・体」は世代を超えて繋がる鍵。皆さんにも同様に感じてもらえるよう、イベントを一所懸命準備しています。当日のご参加を心よりお待ちしておりますー

 

いろいろな「しかけ」を作って、みなさんを繋げる準備をしている42回生です。ぜひ参加して、その「しかけ」に乗ってみてくださいね。

20174月 取材・写真・文 田中直美)

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「Face To Face」NO.59 「うまくいかないからこそ面白い」

 高61回生 中野 瞳

 

 飛松中学卒

 陸上競技部

 筑波大学体育専門学群

 筑波大学人間総合科学研究科

 

 

大ジャンプー

 20076月、県インターハイの走り幅跳びで6m44cmの大ジャンプを跳び、日本ジュニア記録(20歳までの日本記録) 、日本高校新記録を出したのは、中野瞳さんが長田高校2年生の時だった。

 

 「直前の練習で踏切のコツを掴んでいました。でも実はあの一本は、助走の出だしでつまづいてしまい、自分の中では失敗だったのです。それで走り抜けようと思っていたのですが、まあいいやと踏み切ってみたら、思いがけない大ジャンプになったのです。私は助走時に考え過ぎる癖があるのですが、無心になって、体にしみ込んだ技術を自然に出し切れたのが良かったのでしょう」

 

 新記録達成の当日はもちろん嬉しかった。だが、翌日からは、挑戦者だった自分から、守りに入っている自分を感じたと言う。

 

―潰瘍性大腸炎―

 大記録を出した翌年、高校2年の冬から、実は体調の変化はあった。だが、だれにも心配をかけたくないと一人でがんばっていた中野さんは、高校3年の6月に入院してしまう。潰瘍性大腸炎だった。すでに4月からインターハイの予選が始まっており、だましだまし練習を続けていたが限界に達してしまったのだ。

 

入院は3週間に及び、体重は15kgも減ってしまった。退院しても、跳ぶどころか歩くことさえままならない。少女の頃には野球をしていた中野さん。ついついがんばりすぎて足をぱんぱんに腫らしてしまっていた。そんな中野さんの足を、いつもマッサージしてくれていたのがお母さんだった。陸上を始めてからも足のマッサージを続けてくれていた母。15キロも痩せて、みるみる筋肉が落ちていく足もマッサージしてくれた母。ベッドの上で横たわっていた中野さんは気づいていなかったが、母の目は涙で一杯だった。ずいぶん後になってから知った。

 

「でも、あの時、病気になって良かったと思います」と中野さんは控えめな笑顔で語る。

「ご飯が食べられること、スポーツができること。今まで当たり前だと思っていたことが、どんなに幸せなことかと気づけたのですから」

 

スポーツでの推薦は厳しくなったため、筑波大学のAO入試にチャレンジすることにした。

 

「ベッドの上でも、パソコンを持ち込んで、テスト科目である小論文の作成に力をいれることができました。入院中は自分と向き合える時間がたっぷりとあります。そういう時間が持てたことに感謝しています」

 

筑波大学に進学した中野さんだが、潰瘍性大腸炎は難病指定も受けている病気で完治することは難しい。うまくコントロールしていかなくてはいけない。

 

34月に再発することが多く、冬の間にトレーニングで鍛えた体力が落ちてしまいます。落ち込みそうになっていた時に、私と同じ病を抱えた水泳選手の上田春佳さんが、ロンドンオリンピックに出場したことを知りました。同じ病気でもやればできるんだ!と勇気づけられました」

 

筑波大学の大学院に進学した中野さんは、競技選手、特に女子選手の体重コントロールなどを中心にコーチングの研究に励む。卒業後は「原点に帰ろう」と決心して、地元神戸に戻り、兵庫県教育委員会の嘱託職員として働き始めた。

 

―転機―

自分でも原因は分からない。でも、なんだか心がモヤモヤする。神戸に帰った中野さんは、そんな自分に困惑していた。そんな時にお母さんが「モヤモヤしたまま競技を続けているのを見ているのは辛い。自分でやりたいことをやりなさい」と声をかけてくれた。

 

中野さんは、その時に自分の心が見えた。本当は世界に向けて、環境の整った筑波でがんばりたい。でも、自分で決めて神戸に戻ったばかり。職場の人に迷惑をかけるわけにもいけない。無意識のうちに、自分の心に蓋をしていたのだった。

 

「おそるおそる職場の上司に話をしたところ、『挑戦しなさい』と後押しして下さったのです。本当にありがたかったです」

 

―支えてくれる人―

今、筑波に戻った中野さんの目標は東京オリンピック出場だ。

 

「幸いにして私を支えてくださるスポンサーさんたちが、いろいろな形でサポートしてくださっています。食品メーカーからは栄養補助食品の提供や栄養士さん、フィットネスクラブからはパーソナルトレーナー。入浴剤、オーダーメイドのインソールの提供。デザイナーの方がグッズをデザインしてくださったりもしています」

 

入り込むとオーバートレーニングになりがちだった中野さん。疲労を溜めないように自分の体の声を聴くようになった。高校時代・大学時代は心配をかけたくなくて、母にはなかなか相談できなかった。それが反対に心配をかけてしまっていたことに気付いた中野さん。今は一番の相談相手は母だ。

 

東京オリンピックのピットに立ち最高の跳躍をする姿を、お世話になった方々に見ていただきたい!その夢を叶えるために筑波でトレーニングの日々を送っている。

 

「私は長田高校に育ててもらったと思っています。その恩返しもしたい。長田高校での仲間も素敵な人ばかり。誰もが個性的で、そして、互いにその個性を認め合っている。様々な分野で、皆が目標を持ってがんばっている。本当に良い影響をもらいました」

 

少しでも恩返しをしたいからと、長田高校創立100周年記念の運営スタッフにも手をあげた中野さんだ。

 

「競技や研究、人生において、うまくいくと信じて取り組んでも、うまくいかないことが多いと感じています。しかし、だからこそ面白く、そこに魅力があると感じています。失敗を生かすかも殺すも自分次第。失敗を失敗に終わらせず、そこから学ぶことで成長し、その後の大きな成果につながると信じています」

 

2016年2月 初めて一人で海外遠征に行く

  

2016年9月の全日本実業団(@長居陸上競技場)で優勝

 

 

 

編集後記

どんな時も感謝の気持ちを忘れず、置かれた状況の中で「良かった」と思えることを自然に探している中野さん。記者には眩しいような姿でした。「いつも心に太陽を」。中野さんを見ていると、なぜか自然とこの言葉が心に浮かんできた私です。

 

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「Face To Face」NO.58「美しいものが好き」

 高17回生 中野正好 

 歌敷山中学卒

 美術部、生物部

 

 武蔵野美術短期大学

 牛山美容文化学園

 カネボウ化粧品美容研究所

―キャッツー

 おそらく、ほとんどの人が知っている劇団四季のミュージカル「キャッツ」。役者たちが身も心も猫に変身するあの独特のメイク。それをファンデーションの開発から全て関わり、役者さんたちが自分でメイクできるところまで指導したのが中野さんだ。

 

―変貌ー

 神戸にいた頃の中野さんは、通知表に「おとなしすぎる。恥ずかしがり屋である」と先生にいつも記入されるような少年だった。「勉強は得意でなかったけれど、音楽と絵は本当に好きで得意だった。だからこのどちらかで身を立てようと思っていました」

 

 長田で理数系のCコースに進んだ中野さんだが、選択科目で美術を選んでいる生徒はなんと3人しかいなかった。その美術の授業での川端先生の「絵は、画家になるだけが道ではない。意外とつぶしがきくんだよ」とのアドバイスがきっかけで、音楽ではなく美術の道に進もうと決心する。

 

 東京の武蔵野美術短期大学に進学した中野さんが最初にしたこと。それは日本橋の高島屋に行って、真っ赤なセーターを買うことだった。

 

 「真っ赤なセーターを着る。指輪をジャラジャラはめる。大きなイヤリングも付ける。神戸での自分とは全く違う人間になりました」

 

当時の新宿はアングラ文化全盛の時代。まだ『丸山明弘』だった頃の美輪明宏が演じた『毛皮のマリー』を観た中野さんは演劇にも魅了され劇場に通った。

 

だが、そんな中野さんが美術学校で何よりも魅了されたのは、デッサンで描き続けた人間のヌード。「一番美しいのは人間だ。その人間を美しくするメイクを学びたい」。中野さんは牛山美容文化学園に入学することを親にも相談せずに決めた。

 

「東京では真っ赤なセーター、指輪ジャラジャラだった僕も、神戸に帰省するときは、全て外しておとなしい僕になっていましたから、親もさぞかしびっくりしたことでしょう」

 

―中野さんの仕事WAY

美容学校一年、インターン一年の期間を経て、理事長・校長の推薦を得てカネボウに就職した。試験時期の関係で、卒業から就職まで半年ほどのモラトリアム期間があったが、その時に、たまたま友人に誘われて土方巽の劇団でアルバイトをする。

 

「観ることが大好きだった演劇を、演ずる側の視点から見せてもらった。この時の経験が後々の僕につながっていきます」

 

カネボウでは入社直後から、毎朝自分の顔にメイクしてから出社した。

「何事も自分でやってみなくては分かりません。どれぐらいで化粧崩れするのか、テクスチュアーはどうなのか、メイクの理論ももちろん勉強しましたが、『実感』を大切にしました」

 

周囲の人たちは「男のくせに」とびっくりしたが、上司は評価してくれた。

 

81年、82年の2年をかけて、世界の美容業界で最も高い権威をもつCIDESCOで、新しいメイク理論が認定され、「国際シデスコ大賞」を受賞。「おそらく、今でも日本からは僕一人のはずです」

 

カネボウのメイク研究所所長とカネボウメイクスクールの校長を兼任。カネボウメイクスクールには、大手他社メーカーからも多数勉強に来ていた。「門戸を開いて、ついでに優秀な人材はヘッドハンティングしていました(笑)」

 

「そしてありがたいことには、カネボウのトップは僕が個人として外の仕事・・主に劇団ですが・・をすることを奨励してくれた。『外で通用しなくてはだめですよ』とまで言ってくれました」

 

60才で定年を迎えた時、どうしても残留してほしいと請われた中野さんは、夕方から夜にかけてだけ働き、他の時間は自由でいられるカネボウ美容研究所の顧問という立場であればと条件を出したが、「なんと給料が跳ね上がりました」とのこと。

 

メイクの神髄はなんですか?と質問してみた。

「欠点をカバーするためのメイクではなく、美点を強調するメイクが基本です。でも強調するというのと化粧を濃くするというのはまた違う。つくるところは徹底的につくりこむが、手を入れなくても美しいところにはあまり手をいれない。極言すれば、きわめつけの美人はノーメイクが一番美しい」だそうだ。

 

 中野さんのメイク作品の一つ

 ライトを当てると発色する特殊な化粧品で

 男女二人のボディメイクをしている。
 

 

―自由に美にのめり込む今ー

 現在70歳の中野さんだが、一日が24時間ではとても足りないほど忙しい。今も日本全国の美容学校に講師として招かれ、舞台やオペラでのメイクも指導する。熱心な生徒は中野さんの自宅にまで勉強にくるがその面倒もみる。「昔から『えこひいきの中野』と呼ばれていましたが(笑)、熱心な生徒は徹底的に面倒をみます。夜遅くまで自宅に生徒が押しかけてきます。でも妻はカネボウ時代の部下だったので、僕の仕事を理解し好きにやらせてくれました。感謝ですね」

 

 更に最近は若かりし頃好きだった陶芸や絵にも回帰し、日展にも入選した。さらにさらに時間のない中野さんだ。仕事を終え帰宅して絵を描き始めるのが夜中の1時、はっと気づくと既に朝の7時になっている。

 

 個展に出品した陶器の照明作品

 雲海に取り囲まれる富士山頂をイメージした絵画
 

 神戸での学生時代、歌敷山中学の窓から見える瀬戸内海と淡路島の美しい姿に心奪われ、長田に通う山陽電車の窓から見える海にいつも感動していた。

 

「美しいものが好き。これが僕の原点です」

 

長田時代に得た親友二人とは、今も一年に1.2回は必ず会う。中野さんが東京の大学に進学した後、「お前、ずいぶん変わったな」と驚かれたが、ずっとずっと親友のこの二人は人生の宝だ。(20172月 取材・写真・文 田中直美)

 

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編集後記

 

 長田OBとしては珍しい職業の中野先輩。でも、お話を伺っていると、一つの物に打ち込む真摯さ、やり抜く根性はやはり長田OBと感じました。私もメイクしていただいて、別の人格になってみたいと思ったことです。インタビューの後も、大きな荷物を持ってすぐに富山へと旅立たれた中野先輩。まだまだ教えを乞う後輩たちが、日本全国で待ち受けています。

 

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「Face To Face」NO.57「保続」

 高30回生 伊達寛(ゆたか)

 垂水東中学卒

 生物部・生徒会執行部(文化部長)、

 応援団・弁論部

 信州大学農学部畜産学科

 信州大学大学院農学研究科林学専攻

 グンゼグリーン(株)

 

―いなかの匂いが好きだったー 

幼少時、岡山の高梁(たかはし)がいなかだった。毎年、春と夏にはお墓参りを兼ねて遊びに行く。成羽川の清流にはあゆが上ってくる。あゆ漁の鑑札を持っていた叔父の背中を追い、川に網をかける様を観察していた。その頃の伊達さんは、まだ幼くて魚釣りは出来なかったが、川の浅瀬の石にくっついている貝のカワニナなら採ることができた。泥を吐かせてから出汁を取りお味噌汁にしてもらった。

 

なんとも言えない「いなか」の匂い。それは離れに飼っていた牛や、田んぼの草の匂いが混然となったものだったのだろう。伊達さんは、そんな「いなか」の匂いが大好きな少年だった。

 

 「昔はいなごも食べたし、用水路の水も飲めたんやけどねえ」と母が語るのを聞いたのが、「環境」というものに関心を持った最初のきっかけだったかもしれない。「農薬を使うようになって、いなごはいなくなったし、用水路の水も飲めなくなった」という母の言葉が心に残った。

 

―生物部、文化部長、応援団、そして弁論部ー

 長田時代は生物部だった。生物部には立体顕微鏡とプランクトンネットが在ったので、プランクトンを採取して観察し、水質との関連を調べるため水質調査をしたいと考えていたが、化学部の顧問の先生の管理下にあった試薬は使わせてもらえないものが多くて、それはあきらめざるを得なかった。

 

生物部以外にも、生徒会執行部の文化部長を務めていた。サッカー部が全国大会出場をかけた決勝戦に出ることになり、応援のための「授業の集団エスケープ」を生徒たちが計画。それをエスケープにならないよう、休校にしてほしいと学校側と交渉したのが当時の生徒会長。これがきっかけで、部員がいなくて休部になっていた応援団を伊達さんたちが再結成。生徒指導の広田先生がすでに社会人になっていた先輩にお願いしてくださり、応援団の振り付けを習った。サッカー部の全国大会出場時には間に合わなかったが、野球部の夏の甲子園予選では応援部デビューを果たすことができた。

 

「部活を引退した後も、放課後にどこか集まれる場所が欲しいよね」と友人たちと相談したのは2年生も終わりに近づいた頃だろう。それぞれが、生徒会執行部、バトミントン、テニスに打ち込んでいが、引退が近い。「こうなったら、部室があるのに休部になっている部を復活させよう」と仲間4人で再興させたのが弁論部。日々放課後に部室に集まって、いろいろ意見交換してメンバー同士の絆を深めた。現在、関西と首都圏での同級生の集いに、その弁論部の仲間の絆が活かされている。

 

―安曇野サイクリングー

 大学受験での第一志望は北海道大学だった。「獣医の資格をとって牧場経営をするというのが、その頃の僕の夢でした。でも、残念ながら不合格。自然に囲まれた環境で大学生活をと、二期で受験した信州大学に合格したのです」もしあの時、第一志望だった北大に合格していたら、その後の人生は大きく変わっていただろうなと、振り返って今、そう思う。

 

 大学時代はユースホステル部に所属して、登山、バックパッキング、サイクリング、スキー、キャンプ、などで信濃路のアウトドアを満喫した。その中でもとりわけ記憶に残るのが、大学に入って最初に行った安曇野へのサイクリングだ。

 

 あまりに気持ちの良い5月の天気に、「安曇野へサイクリングに行こう!」と急きょ、皆で決定。授業をさぼって出かけることになった。伊達さんはまだ自転車を持っていなかったが、その日の授業はどうしてもさぼれないという仲間がサイクリング車を貸してくれた。

 

 大糸線沿線を、豊科、穂高、大町と快適にサイクリング車を飛ばす。ところが帰り道のある場所から、突然、どうにも疲れが出たのか、こいでもこいでも自転車が前に進まない。リーダーだけが伊達さんに付き添い、他のメンバーには先に行ってもらうことになった。

 

 しばらくは必死でがんばっていたが、そのうちリーダーが「お前、ちょっと自転車を降りてみろ」と言う。自転車を降りてリーダーが車輪を回してみたら・・なんと!ブレーキが壊れて後輪がずっとブレーキがかかったままの状態になっていたことが発覚。ブレーキのかかった後輪のまま、一生懸命、走っていたのだった。「そこまで走ってきただけでもすごかった(笑)」第一回目のサイクリングでは、高校時代に鍛えられたど根性が役立った。

 

―「林学」に目覚めるー

 伊達さんが最初に入学したのは「農学部畜産学科」だ。だが、当時の信州大学農学部はゼミの門戸が広く、他学科のゼミも選択できた。伊達さんは林学に惹かれ「森林環境研究室」に入る。

「もともと僕は環境問題に関心があったのですが、開発か自然保護かと、当時論争になっていたものが林道問題でした。そんな時に出会ったのが森林環境研究室の菅原先生で、『自然を守るためには、ある程度人が手を入れることが必要。そのためにも林道は必要なものである』というお話を聴いたときに、自然か経済かという二律背反の対立軸ではないのだと、とても腑に落ちたのです」

 

 その後、院にまで進みながら「北アルプスの自然を守る会」、首都圏の学生・市民団体「グリーンドラフト」に所属しながら自然パトロールや森林作業ボランティアを続けた。作業は午前中のみで、午後はフリータイムで山村を楽しむのが会の運営方針。「森林作業はレジャーだ!」が合言葉だった。

 

―環境に関わり続けてー

 菅原先生の推薦を受けて「グンゼグリーン」に就職。都市計画における緑化に関わり続けてきた。自らの性格を「愚直」という言葉で表現する伊達さん。伊達さんのFacebookには、日々、季節に応じて小さな変化をみせてくれる多種多様な花・葉・実・樹木の写真がアップされている。それらは全て、伊達さんが通勤途上に目にしたものだ。「花の名前は知っていても、葉や実には無関心な方がほとんどです。でもどの樹木にも名前がちゃんとある。すこしでも、みなさんに関心を持ってもらえたらと思い、日々、写真をアップしています」

 

 樹木医の資格も取得した伊達さん。林学用語の「保続」―森林環境(自然)の恵みを永続的に享受するためには、樹木の長い成長期間をみこした視点を持ち続けることが基本であるーの概念をモットーとしてきた伊達さんの、地道で堅実な活動はこれからも続く。(20171月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 Facebookで日々紹介されている木・実・花が通勤途上のものであるとは驚きでした。それほど多種多様だったからです。自分の住んでいるマンションの植栽の木の名前さえ、全ては知らない私。つつじや椿が花を咲かせていれば目にとめるけど、それ以外は空気のように存在していることさえ意識していない。みなさんも伊達さんのページにアクセスしてみてください。きっと新しい発見がありますよ。

https://www.facebook.com/yutaka.date?fref=ts

伊達さんの着ていたあったかそうなセーターが、そのまま伊達さんのお人柄のように感じられたインタビューでした。

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