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2020年度神撫会東京支部総会・懇親会 中止のお知らせ

神撫会東京支部会員各位

 

来る6月13日に予定されております2020年度神撫会東京支部総会・懇親会につきまして、昨今のコロナウィルス流行の終息が見通せない現状を受け、参加される会員皆様の健康と安全を最優先に検討した結果、開催を中止させて頂く事と致しました。

 

奇しくも長田高校100周年を祝う年であり、担当幹事45回生を中心として節目に相応しい会となるよう準備を進めておりました。このような記念すべき機会を断念しなければならない事は苦渋の決断であります。
参加を予定して頂いていた会員の皆様にはご迷惑おかけいたしますが、何卒ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。

 

なお本年の総会附議事項につきましては、後日会員の皆様に提示・承認頂ける手段等を検討中です。

 

会員の皆様とは、2021年度総会において長田高校の新たなる100年のスタートを祝える事を楽しみにしております。

 

神撫会東京支部長 南山宏之

 

<今後の予定>
・長田高校100周年記念式典
2020年11月7日(土) 記念式典:神戸国際会館 祝賀会:ANAクラウンプラザホテル神戸

 

・2021年度 神撫会東京支部総会・懇親会
2021年6月12日(土) 渋谷東武ホテル

 

以上

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「Face To Face」NO.95「継続は力なり」

 高10回生 村上吉弘

 鷹取中学

 陸上部

 大阪ガス

 奈良大学文学部(通信制)

 

 

 現在、80歳の村上さんは、70歳からフルマラソンに出場しはじめ、今も年に2,3回はフルマラソンを走り続けている。長田時代は陸上部。卒業後も趣味としてジョギングを楽しんできた。「継続は力なり」をまさに実践している村上さん。全日本マラソンランキング年齢別では79歳の部で全国8位だ。今は奈良に居を構える村上さんに、お電話でいろいろお話を伺いました。

 

―新聞配達ー

 村上さんは4人兄弟。三つ年上の姉は長田高校の高7回生。そして、弟が二人、でうち一人は16回生。

 

「私は10歳の時に病気で父を亡くし、母が女手一つで4人の子どもを育ててくれました」

 

まだ、戦後のどさくさが収まらない時代だった。中学時代から続けていた朝の新聞配達で、毎朝4時半に起床。家庭の経済事情が厳しいこともあり、どちらかというと友だちづき合いは避けていた高校時代だったと振り返る。

 

「高校時代で思い出せるのは、陸上の練習ぐらいかもしれません。今の時代とは違って部員は数人。専門の顧問の教官もいない。観音山のグランドはまだ出来ておらす、狭い校庭をただなんとなく走っていました。駅伝になると、サッカー部、バスケット部、テニス部などから助っ人を頼んでメンバーを組みましたが、めっぽう早いやつがいて『お前、陸上部やのに遅いな』と言われてショックでした」

 

大学進学はあきらめざるを得ず、就職担当の先生の勧めで大阪ガスに就職。学びたい気持ちはあり、神戸大学経済学部第二課程(夜学)の試験は受け合格していた。だが、働きながらの通学は時が過ぎるとともに難しくなり、専門課程の単位を半分ぐらい取得した段階で、出席時間の不足で試験が受けられない状況となり、中退となった。

 

大阪ガスでは事務方の総務の仕事を続けたが、一番楽しかったのは広報部の仕事だったと言う。

 

「10年ほど就きました。毎月発刊の社内広報誌の編集が仕事です。わずか4名で毎月の広報誌をつくるので、いつも時間に追われ家に持ち帰って仕事したりもしましたが、自分にはとても向いていたのか、楽しくやりがいがありました」

 

60歳の定年まで勤めあげ、そのあとも3年ほど嘱託で働いた後、完全引退をした。

 

 65歳の時に、奈良大学文学部文化財歴史学科に通信制ができることを新聞で知り、第一期生として入学した。4月に入学して夏休みには「卒論のテーマを出すように」と言われ少々面食らったが無事に2年後には卒業することができた。23科目と卒業論文で60単位。全国から800人あまりが入学したが、卒業できたのは47名だった。

 

「卒論のテーマは『中世における今井町の自治活動と町民のくらし』。私は奈良在住だったので、近くに史跡や文化財が多数あり、体験学習にはもってこいでした。ランニングで史跡、寺社巡りしたことも何度かあります」

 

―マラソンー

 高校時代陸上部だった村上さんは、大阪ガスでも陸上部に入ったが、夜学に通っていたこともあり、中途半端で辞めてしまった。

 

 でも、その後も走ることは好きでずっと趣味として続けていた。40代には、手ごろな大会があれば10キロメートルぐらいのレースに参加。年齢別では入賞できるようなレベルになっていたと言う。65歳の時に、友人に誘われて、初めてホノルルマラソンでフルマラソンに挑戦した。3年連続で出場し、お祭り気分で楽しかった。

 

 シニアのランニングクラブに所属し、70歳を機に、本格的にフルマラソンにチャレンジすることを決めた。2010年(71歳)の時に、平城遷都1300年記念事業としての奈良マラソンが始まる。村上さんは、第一回から2019年開催の第10回まで連続出場。80歳で「10回連続完走賞」を授与され、新聞でも大きく報じられた。

 

 「神戸マラソンも懐かしい所を走るので積極的にエントリーし、今回7回目を完走しました」

 

 実は、この神戸マラソンで不思議なご縁が生まれたのだ。

 

 「調度、ゴールの1キロぐらい手前のところでしょうか。長田高校の大きなのぼりを持って応援してくださる方がいるのに気がついたのです。なんで?!と驚き近づいたところ、OBがたくさん出場しているので応援されているとのこと。嬉しかったです」

 

 一方、その応援旗を持って立っていた長田高校創立100周年記念事業役員のTさん。

「私たちが旗を持って立っていたら、一人の年配の方がさっそうと、全く疲れた様子もなく、私たちのところに来られました。なんと卒業生とのこと。感激してお写真を撮って、立ち去られたあとにタイムを見てびっくり!この場所で、このタイムなら5時間ぎりだよ!しかもあの余裕!すごい!」(実際には40キロ手前で足がつって動けなくなり、立ち止まってストレッチしながらのゴールで完全にペースダウンで、ご本人としては不本意な出来だったとのことで、なお驚きです)

 

神戸マラソンで母校の応援旗を見つけ駆け寄ってくださった村上さん

ーーーーーーー

 

 Tさんの夫もランナー。「奈良マラソンはアップダウンがはげしく、しかも極寒の時期に行われる過酷なレース」とのこと。神戸マラソンの時もゴール手前は神戸大橋の過酷な上り下りの後なのに爽やかに現れて、Tさんはびっくりしたそうです。

 

 「すごい先輩に出会った。ぜひ『Face to Face』でご紹介いただきたい」という連絡をいただき、今回の取材となりました。

 

 現役長田生へのアドバイスを、とお願いしたところ「孫以下の年齢の現役高校生にアドバイスするようなことはあまりありませんが・・月並みですが、自分のやりたいこと、好きなことに徹底的に取り組む、ということでしょうか。紆余曲折でいろんなことがあっても、先憂後楽、苦労した後には、必ず道は開けると思います」とのことでした。(取材・文 田中直美 写真 Takatsu Kaori)

 

編集後記

 実は、電話取材当日、奥様よりお電話をいただき、急遽ペースメーカを入れる手術を行うことになり、取材延期希望とのこと。びっくり、そして心配でしたが、2週間後には、「すでにジョギングぐらいはできるように回復したのでインタビュー可能です」とのメールが届きました。体調管理が何より大切なので、これからは決して無理しないでマラソンを続けていきます、とのお言葉でした。村上さんの所属するマラソンクラブには、偶然にも私の同期である28回生のS君も所属とのこと。長田のご縁にびっくりです。先輩!いつまでもお元気で走り続けてくださいね。

 

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第二回長田サロンが開催されました:高38回生 近藤稔和さん 「現代社会における法医学の役割〜虐待から孤独死まで〜」

第二回長田サロンは日本橋に場所を移しての開催です。
ガラスの仕切りがモダンな「みなと銀行 Mポート」は、兵庫県にゆかりのある方々が首都圏で拠点として使う事のできる新しいスペースです。

会場にいらした近藤先生は、お体も(お顔も)大きく、引っ張られたマスクのひもが今にもちぎれそう。
でもその大きな声での講義が始まった途端に、場内が静まりかえりました。

プロジェクターで映し出されるのは、目を背けたくなるような虐待された子供達の解剖写真。
小さな体につけられた、おびただしい数のあざ。
次から次へと出てくる事例に添えられる親の言い訳がむなしく聞こえます。

先生が向き合っている高齢者の問題も多岐に渡ります。
孤独死、虐待、認認介護、徘徊からの事故死・行方不明・・・
数多くのグラフや表が、その問題の大きさを実感させてくれました。

先生の最初の言葉「死因を解明することは、その人の人権を擁護すること」が何度も頭をよぎりました。
何故防げなかったのか。 社会として連携する事の大切さを、一人一人が自分の事して考えた一時間でした。

質疑応答では、参加者自らの体験からの質問などが出されました。
  Q: 解剖して頂くまで1日以上待たされましたが。
  A: 解剖医が少ない為ですが、私は早くご遺体をお返しするために、徹夜で解剖する事もあります。
  Q: 解剖してもらったら費用はかかるのですか?
  A: 全国的にご遺族から費用を頂くことはありません。(Y市を除く)
などなど、時には笑いも交えてくださるのは先生のお人柄。
重いテーマながらも、最後は和やかに拍手喝采で終わりました。

 

引き続いての懇親会は、セミナー会場のビルから徒歩10秒のお寿司屋さんで行われました。

くじ引きで席決めしたから、テーブルのメンバーは歳も仕事もお立場もバラバラ。
でも"長田生"という共通項は強い! あっという間に打ち解けて、飲み物の注文が間に合わないほど(笑)
こんな豪華なちらし寿司が出てくるのは、さすが"築地"をうたうお寿司やさんです。

いつまでも話は尽きないながら、あっという間に近藤先生がお帰りの時間となりました。
次は先生ご自身が聴講側として参加したい、との嬉しいお言葉を最後に頂きました。

次はどんな講師が登場するでしょう。引き続き長田サロンにご期待ください!

(文責 高41回 井川千穂)

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「Face To Face」NO.94「始まりはボランティア」

 49回生 小西さやか

 平野中学

 陸上部

 広島大学工学部

 広島大学大学院

 ノエビア 

 一般社団法人日本化粧品検定協会

 

 

 人に尽くすことが大好き。いつも「窓際のトットちゃん」のように空想を巡らせている少女だった小西さんは、いくつかの転機を経て、化粧品の専門家になった。全卒業生女子の関心を集める?その道筋をお聞きしてきました。

 

―あだ名ー

 3月30日生まれの小西さんは、学年で他の生徒と一回り違うこともあり、小学校低学年での成績はよくなかった。「いつもボーっと何かを空想して、先生の話は全く聞いていませんでした」。ついたあだ名が「ぼー」。

 

母は薬剤師、父は高校の数学教師。これはいかんと父がつきっきりでドリル学習を始めたのが小学校四年生の時。一年生の足し算引き算からやり直した。小学校5年で塾に通い始めた時は、成績順にクラスと席が決まるその塾で、一番下のクラスの後ろから2番目の席だった。が、算数の面白さに目覚め、6年生の卒業時にはトップ。そのまま中学・長田へと進学した。

 

―浄水ー

 水に興味が出たのは小学校3年生か4年生の時に国語の教科書に掲載されていた「足尾銅山鉱毒事件」を読んだことがきっかけだった。空想の世界で、水が原因で起こる病気から世界中の子どもたちを守っていた。

 

 空想を実現すべく、大学は、水処理・水環境の研究が一番進んでいた広島大学工学部化学科に進む。大学4年生で青年海外協力隊の水処理部門に応募するが、残念ながら最終の身体検査で落ちてしまった。

 

 大学院に進み、教授の推薦を受けて、東京の青山にある国連大学の補助研究員になった。月のうち、一週間は広島の大学院で、三週間は東京の国連大学で研究する生活。東京に行っていても大学院での研究も仕上げなくてはいけない。広島に戻った時は、一週間、ほとんど寝ないで研究室にこもっていた。

 「寝不足と不規則な食生活から額にできるにきびがひどく、今も少し跡が残っているほどです」

 

 国連大学では、広島大学の博士課程に進み博士号を取得した後に就職することが決まっていたが、1〜2年契約で毎年自分のポストを探し続けないといけない世界。しかも周りの人材が優秀で、この中でがんばってポスト争いをするのは自分には向かないと感じ始める。大学院2年生の卒業を目前に、博士課程に進まず就職することを決意。地元神戸の化粧品会社ノエビアの研究開発職に就いた。学生時代にあれほど悩んだにきびが、入社して一週間ほどででなくなった。この時の経験が、のちほどの化粧品検定協会の立ち上げにつながる。

 

―ボランティアー

 話は少し戻るが、幼少期からボランティアに目覚め、ガールズスカウトに所属。高校一年生のときに、阪神淡路大震災が起こり、当時、クラスの委員だった小西さんは、クラスメイトにボランティア活動を提案し、休校になっていた三ヶ月間、ボランティアに勤めた。

 

 小西さんは、国連で働く夢を諦めた後も、ノエビアで働きながら長期の休みごとにボランティア活動を続けるようになった。ベトナムに中古のランドセルを送るボランティア。フィリピンで大学に通えない子どもたちがスポーツ推薦で大学に入れるよう野球を教えて支援する活動、インドのマザーテレサの家でのボランティア活動などなど。

 

 マザーテレサの家で、あるシスターの言葉が心に刺さった。「ここには、世界中からボランティアの方がいらしてくださいます。とても感謝しています。でも、あなた方のもっと身近なところにも支援を必要としている人がいることにも目を向けてください」

 

 世界を舞台に、誰かの役に立つ自分を長らくイメージしていたが、すっと目からうろこが落ちるような気がした。

 

―日本化粧品検定協会ー

 30歳で結婚。ノエビアを退職して、通販の化粧品会社に2年半務めた。

 

 この頃、ふと思い出したのが、若い頃、あれほど悩んでいたニキビが、就職して間もなく急激によくなったことだった。そもそも若い人の額にできるニキビは過剰な皮脂が原因。だが、化粧品の基本的知識のないままに、当時流行っていたオイルを、それもなけなしのお金をはたいて買った高級なオイルが、実は逆効果だったことを今さらながらに思い出したのだ。

 

 長く化粧品会社で働き気付いたのは、実は一般の人たちが正しい知識を持っていないために、間違った化粧品の使い方をして反対にトラブルになっているということ。

 

 化粧品の基礎的な知識を4択で選ぶクイズ形式の簡単なアプリを作って、楽しみながら知識を得たら役に立つのでは?問題は自分で考えたものを大学教授の先生に監修してもらい完成させ、さらに、知人にアプリを作ってもらった。それを、当時流行り始めたばかりだったフェイスブックに載せたところ、爆発的に広がったのが、今の「一般社団法人日本化粧品検定協会」の母体となった。

 

 もっと学びたいという意見が多く寄せられた。また、各化粧品メーカーでは、独自に作ったテキストで自社内研修するのが一般的で、共通して使えるテキストがなかった。特に、ベンチャー企業などでは、テキストもなく、独学で化粧品を開発している人が多かった。そこで、メーカーに偏らない、中立の立場で事実だけを伝えるテキストを作ろうと、皮膚科医、メーカーの研究員、化粧品の歴史研究家など幅広い人材の協力を得て「コスメの教科書」を完成させた。

 

 だが、出版してもらおうと企画書を書いて出版社に持ち込んでも、無名の検定のために本を出してくれるところはなく、ほとんどの出版社に断られてしまった。それでも諦めず、当時たまたま取材してくれた主婦の友社の編集者に事情を話したところ、「原稿ができているなら100冊買い取りが条件で出版してあげる」という提案をうけ、なんとか出版にこぎつけた。書店に本が並ぶと、伊勢丹ヒューマンソリューションズとイオンの教育担当者から、化粧品担当社員の教育にテキストを使いたいとオファーがすぐにあった。

 

 以降、ついには「一般社団法人日本化粧品検定協会」を立ち上げ、検定試験も始めた。第一回は東京、大阪の2都市のみで開催し1級、2級の検定試験の受験者は合計で500人満たない程度だったが、今や日本全国20都市で試験を行い、受験者延べ数は47万人に及ぶ。

 

 「私にとって、スタートはいつものボランティアの延長でした。なので最初の2.3年は無報酬で、ほとんど寝る暇もないほど働きました。今はスタッフも20名に増えています」

 

 小西さんが、初めて「化粧品の検定試験を作りたい」と話したとき、だれもが「そんことできるわけない」「そんな試験、受ける人がいない」と言ったという。その時、心にあったのは「すべての大事業は、最初は不可能と言われた」という、トーマス・カーライルの言葉だったと言う。

 

「とにかくひとまずやってみる!」これが小西さんから現役長田生へのアドバイスだ。

 

日本化粧品検定HP

https://cosme-ken.org/thirdclass/  

 

 

編集後記

 インタビューをさせていただいた6週間前に、無事に第一子を出産したばかりの小西さん。なんと、陣痛が8分おきになっても、仕事の打ち合わせをされていたそうです!

 これからは、検定試験で資格をとった人たちが、その資格をいかして働ける仕組みづくりにも力を入れていきたいと夢を語ってくださった小西さん。

 バリバリ働くキャリア女性をイメージして取材に伺いましたが、インタビューさせていただいた小西さんは、小学校時代のあだ名、「ぼー」そのままのおっとりとした控えめな女性でした。(2020年2月 取材・文 田中直美 写真;ご本人提供)

 

追記 

 震災時の長田高校でのボランティアについて、小西さんの陸上部の一年先輩である小林正典さんが書かれたSNSの記事を偶然見つけました。ご本人の了解を得て、ここに転記します。

 

「高2だった当時、自宅の被災は軽微だったが、高校に行って認識の甘さを思い知った。

翌週の修学旅行はなくなった。(先生方のご尽力で三年生時に小豆島へ行った)教室は被災者で埋め尽くされていた。電車は止まっていたので、陸上部の仲間たちと、毎日走って学校まで行き、体育館に集められた食料や救援物資を配ってまわった。配水車が来る度の長蛇の列。帰り道には、焼け落ちた長田から新長田の街を歩き回った。久しぶりの学校再開日の不思議な感覚が、昨日のことのようだ。

 初めてのボランティア経験だったが、前向きなものじゃなく、『ただ、やるべきことがあるから』という感覚だった」。

 

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「Face To Face」NO.93「遊びこそ最高の学び」


 高51回生 山本晋也

 ひらの中学卒

 神戸大学工学部情報知能工学科

 リクルート

 株式会社レセオ 代表取締役

 神戸大学客員准教授

 

 山本さんは、長田生にはかなり珍しい「破天荒型」だ。だが、そのヤンキーな長田生は、卒業後20年経った今年、乞われて長田の現役2年生320名を前に講演をするほどの大人になった。令和元年の今年、今までの「自分中心」の人生から「世界の中で役に立つ自分」を目指して大きく舵を切った山本さん。そんな山本さんにお話を伺ってきました。

 

 

長田高校で講演した時に、現校長、中村先生と。

なんと、中村先生は高校2年生の時の担任の先生!

「お前が、まさかこんなに成長するとは!」と大いに驚き喜んだ中村先生。

 

―長田のヤンキー―

 茶髪にピアスでバンド。禁止されているアルバイトを鶏肉店で。稼いだお金でバイク。厳しい母にはもちろん猛反対された。「校則でバイクは禁止でしょ」「日本の法律では16歳でバイクに乗れるやん。法律と校則とどっちが上や?!」。

 

 が、派手な行動で、他校の生徒にバイクに乗っていることを「チクられ」早朝の校長室に父と共に呼び出される。「前代未聞で規定がない。ルールを作るまで自宅待機。他の生徒に悪影響を与えないよう、とりあえずは風邪で休んでいるということにしなさい」

 

 ところが、駅に向かう帰宅途上で次々と登校してくる級友に会う。「どないしたんや?」「え〜、いや、ちょっと風邪で」

 

 「どう考えてもおかしいですよね?風邪ひいた僕が父親と一緒に学校から駅への道を歩いてるなんて。でも、言霊ってあるんですかねえ。家に着いたとたんに本当に立ち上がれないほどの高熱が出たんです。卒業まではバイクには乗らないと母親とも約束し、免許は学校に預けました。

 

 2年生の二学期に、学年主任の千葉先生に「お前はこれからどうするんや?」と聞かれ「3年生になったら勉強モードに入って神戸大に行きます」と答えたところ「お前はな、入学試験では一番やったんや。かっこよく卒業したらどないや。受験をなめたらあかんぞ。3年からでは間に合わん」と諭される。

 

 「かっこいいことが大好きな俺は、その時から発奮しました。千葉先生の言葉が僕を大きく変えてくれたんです」。そうして現役で神戸大に合格。卒業式の日には千葉先生から免許を手渡されて泣いた。

 

ヤンキー時代の山本さん。どれか?なんて書かなくてもはっきり分かりますね!(笑)

 

―オーストラリアで考えるー

 だが、これで「破天荒」が終わったのかと思いきや、話は終わらない。山本さんの「破天荒」はまだまだ続く。

 

 大学一年生の時、たまたまラーメン店で隣に座ったおじさんのコップにお水を注いであげたことから話がはずみ、その時に「大学時代に海外に行っておけばよかったと思っている」とアドバイスされる。そうか!やっぱり海外か!と早速調べると一年間のワーキングホリデーで約200万円かかる。

 

 「おかん!やっぱり海外や!」「ええねえ。でも費用は自分でなんとかしなさいよ」

 

 夏休みに須磨の海でパラソルを貸すアルバイト、夕方からは塾の講師、夜はホスト。

だが、無理がたたって倒れる。「こんな自分の時間を切り売りするような働き方じゃだめだ」

と気づいた山本さん。

 

 そこから、自分の時間を切り売りする仕事だけではなく、仕組みや仕掛けによってお金を稼ぐという方法にチャレンジ。家庭教師登録代行ビジネス、ボーリング大会やBBQなどのイベント企画、服の販売などを行う。学生の未熟さゆえのトラブルも多かったが、持ち前のポジティブな姿勢でなんとか乗り越え、最終的に留学の資金を自力で貯めて渡豪した。

 

 「この一年間のワーキングホリデーで、『自分はこの先どうやって生きて行くのか?』ということを真剣に考えました。オーストラリアに来るまでは、神戸大学工学部の大学院に進学して大企業に研究室推薦で就職するというレールが敷かれていましたが、本当にそのレールは自分が歩みたい人生なのかと。そして考えた結果、『旅をするような自由な人生を送りたい。そのためには時間とお金をコントロールできればいい。そのためには自分で起業しようと。』」

 

 起業のなんたるかを学ぶにはリクルート社が良いと教えられ、オーストラリアからリクナビで登録。登録はできたものの会社説明会や面接に行かないといけないことを知り、急遽帰国し、就活に関するなんの予備知識もないままにリクルートを受験。

 

 「会場に行ってびっくりしましたね。僕以外は、みんな髪の毛も真っ黒にして、スーツをびしっと着てる。僕はといえば、髪の毛は茶髪で、着て行ったスーツは予備校講師時代の派手なスーツ。まー面接までには黒髪、黒スーツに合わせましたが(笑)」

 

 その年は、「超氷河期」といわれた就職難の時代だったが、SPIテストで偏差値トップをとって入社。鳴り物入りで入社したにもかかわらず、「アポ電を毎日100件かけろ!」の言葉に「命令され管理されるのは嫌!」とわずか半年で辞職。

 

 これからはやはりITの時代だと、ITベンチャー企業に就職する。「ここでは、僕は『修行』のつもりでITの基本技術を学びました」

 

 その後、2006年に25歳の時に「レセオ」を起業。まずは当時、はやり始めたブログを使って、各社の人事部が学生に向けて自ら発信するポータルサイトを立ち上げた。ある日、リクルートから連絡があり、その詳細とノウハウを尋ねられる。

 

「当時、ライブドアや村上ファンドなど、経済が浮足立っていた時代で、こりゃ、このシステムを買収に来たなと、勝手に感じました。ところが、その後なんの連絡もなく、リクルートの元同期から連絡があり、次のリクナビに人事ブログが標準装備されるというニュースを聞かされました。ビジネスの厳しさを思い知らされましたね。」

 

 その後は、HPのSEO対策(検索エンジンで上位にランキングされるための手法)に力を入れ、WEBマーケティングで安定して利益を上げられるように成長した。

 

 2011年からは、神戸大学からの依頼で「起業家精神育成ゼミナール」を発足。神戸大出身の若手起業家たちが学生を相手に、実務的な起業のノウハウを自ら考えだせるよう指導するためのゼミで、実際に多数の若手起業家を輩出。功績が認められ昨年からは神戸大学客員准教授となり、文部科学省が主導する国立大学からエッジ(際立った)人材を輩出するプログラム「エッジネクスト」プロジェクトの一部に組み込まれた。

 

―天才バンク―

 令和元年5月1日。山本さんは「天才バンク」を立ち上げる。

 

 「今、時代の流れは変わりました。もともと日本は三方良しの文化。古事記にもあるじゃないですか。天岩戸を開いたのは、八百万の神々がそれぞれの得意分野の知恵を絞って、問題を解決した。これからは、それぞれが持つ「天から授かった才能」を持ち寄って力を合わせて問題解決していくことがムーブメントになる。僕はそのプラットホームを作る。

人間、だれもが天から授かった才能をもった天才。その天才たちが自分の才能を持ち寄って協力して仕事をする。あとから気づいたのですが、実は、これは長田高校の初代校長、近藤英也さんが創った教育理念、「神撫教育」の2番目に書かれている内容そのままです。「知徳体」は有名ですが、「一芸一才」もなかなか深いですよ。長田高校の教育理念は本当に素晴らしいと思います。今から15年ほどかけて、この天才バンクを通じて、ベーシックインカムを創るくらいの社会的イノベーションを起こしていきます。僕には、その道がしっかり見えています」

 

 天才バンクがイノベーションを起こす分野として最初に選んだのが「教育」の分野。現在の教育分野の課題である、所得格差、地域格差など取っ払うために、民間でできることをはじめようとしたのが、「天才バンク寺子屋」。とは言っても、はやりの「無料学習アプリ」とはちょっと違う。「何かの天才」たちが、若者や子どもたちに向けて「自分の『天才』」を発見するための指南」をする教育プラットホームだ。開始半年、口コミのみですでに1000人以上の老若男女がオンライン上で集まっている。

 

 「これから本当に大きな変化が、日本、そして世界に訪れます。現在の常識は、未来の非常識かもしれない。自分の感覚を信じ、常識を疑うことを恐れず、自分の人生という物語の主人公になって、どうか自発的で楽しい「遊び」のある人生にして欲しい。是非天才バンクで一緒に遊びましょう。これが、長田高校在校生、卒業生みなさんに送るメッセージです。ありがとうございました。」

 

編集後記

 写真を見ていただいたらお分かりのように、山本さんはナカナカのイケメンです!「僕はしゃべることと未来を見通すことの天才」とのこと。26歳で結婚し、子どもは現在4歳と2歳。「少子化と人口減少で、日本の未来は暗いと世間は口を揃えて言うが、そんなことはない。少ない人口を受け入れて、その枠でうまく回る仕組みをつくればいい。発想を変えるだけ」。熱く語る山本さんの話を聞いていると、頭の固い記者も、「そうかも?」と思えてきた取材でした。(2020年1月 取材・文・写真 田中直美)

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「Face To Face」NO.92「大きな耳、小さな口、優しい目」

 高43回生 高野重好(しげよし)

 苅藻中学

 柔道部

 福井大学・大学院

 (株)神鋼環境ソリューション

 

 

 長田時代に打ち込んだ柔道。震災をきっかけに人生観が変わった高野さんは、その柔道を生かして青年海外協力隊としてパラオへ。そこでパラオ柔道連盟を創設する。帰国して15年経過した今も交流は続き、今年、令和元年度外務大臣表彰の授賞式に出席するために再びパラオの地を踏んだ。

 

―長田柔道部ー

 柔道部顧問の吉地先生と言えば、まさに泣く子も黙る長田の名物鬼体育教官。「練習量も中身も、全く妥協なしの厳しさでした。でも、先生の『勝つ、そして、克つ喜びを教えたい』という気持ちが痛いほど伝わりました」

 

 4人の仲間と共にひたすら柔道の練習に明け暮れた毎日。その吉地先生が異動になると知った、2年生の冬のある日のことが鮮明に記憶に残る。

 

「当時、神撫台グランドとつながる階段をダッシュするのが僕たちのルーティン。その時、階段の上で一息ついていた僕は、紺色の大きな吉地先生の車が駐車場に入ってくるのに気づきました。確か車のナンバーは『55-03』。『go go おっさん!』(笑)。その車の入ってきた正門を見つめながら、僕は思わず涙しました。その瞬間から、吉地先生は『厳しいおっさん』から『優しい恩師』に変わったのです」

 

―震災ー

 福井大学の寮に暮らしていた1995年1月17日。阪神・淡路大震災が起こる。長田にあった高野さんの実家は一階が全て二階に押しつぶされた。

 

「早起きだった両親は、既に起きて一階にいました。父は倒れた梁の下敷きになり亡くなりました。その傍らで、父に守られるように倒れていた母は太ももを梁にはさまれ、救出された当初は意識があったものの、その後、クラッシュ症候群で意識をなくし西神医療センターに運ばれて緊急手術。術後も一ヶ月以上の集中治療室という瀕死の重傷を負いました」

 

この時を境に「生きている間に精一杯生きよう。やりたいことに挑戦しよう」と心に決めたと言う。

 

―海外青年協力隊ー

 大学院を卒業後、神鋼パンテツク(現 神鋼環境ソリューション)に入社した高野さん。6年が過ぎようとしていたある日、電車の吊り広告にふと目が吸い寄せられた。「青年海外協力隊」隊員の募集だった。

 

「『Iをください(あなたの情熱を世界は待っている)』のキャッチフレーズと共に、いろんな人の写真があるのですが、その中に、柔道着を着た女性の姿もあったのです」

 

 柔道も役に立てるのだろうか?と気になった高野さんが調べてみると、どうやら、柔道枠での募集もあるようだ。(この時、世界から30以上の要請があり、10数名が受験して採用されたのは結果として二人。募集には「モンゴルで世界大会レベルでの指導者」など、細かい要求があり、講道館で行われる実技試験で、求められている技量と、本人の技量のマッチングを講道館が見極める)

 

柔道のない真っ白な国に歴史の1ページを刻みたいとの思いでパラオを受験し、高野さんが採用されたのは、希望通り「柔道を全く知らないパラオの警察官に、護身術としての柔道を指導する」枠だった。

 

勤めて6年になる会社を退職するか、休職するかは会社の判断に任せた。高野さんは「合格した限りにはパラオに行く!」と心に決めていた。

 

「バブルがはじけて、会社として人員整理がほぼ終わった直後。そのような時期に、こんな個人的な希望をかなえようとしている社員を休職扱いにして良いかどうか。社内でもすぐには結論が出なかったようですが、幸いにも休職扱いにしていただけました」

 

―パラオー

 2015年、現在の上皇夫妻がパラオを訪問されたが、パラオは戦前の日本の統治国だった。

 

「行ってみて驚いたのですが、パラオの人々は大変な親日家でした。スペイン・ドイツの植民地時代、戦後のアメリカの統治時代に比べ、日本がパラオの人々を『日本人』として差別なく教育の機会を用意したこと・重要なインフラを整備していたことを、とりわけお年寄りたちが感謝してくれていました。苗字に日本人の「マツタロウやサガジロウ」などの名前をつけている人も大勢いました。生徒の一人は『ジェニファー・タカタロウ』という名前でした」

 

 「パラオの警察学校で柔道を教えるプログラムだったのですが、もちろん柔道着はないので短パン・Tシャツ。柔道どころか、子ども時代に体育の授業がないので、まずは前回り、後ろ回りを教えることからのスタートでした」

 

 高野さんが最初の授業から大切にしたのが「礼」。

 

 相手をリスペクトし全ての人々の感謝。礼に始まり礼に終わる。生徒たちは「礼」を気に入り、街で出会った時にも使っていたという。

 

―パラオ柔道連盟ー

 パラオでの仕事が始まってしばらくした頃、NHKのラジオ放送に出る機会があった。パラオでは柔道着がなく短パンTシャツでの生徒を指導していると話したところ、柔道着を送りたいというオファーがNHKにあった。

 

「本当にありがたい申し出でした。この時に気付いたのが、今の状態では柔道着の送り先が、私個人になるということ。しかし、私の任期は2年です。私が去ったあともパラオに柔道が根付いて欲しい。そのためにはパラオ柔道連盟を作ればいいと閃いたのです」

 

 規約を作り、組織を作り、裁判所の審査を経てNPO法人としてパラオ柔道連盟を創立した。高野さんは創設者メンバーの一人であり、初代副会長となった。

 

 ところが、創設の時期が国際柔道連盟の会長選挙の微妙な時期と重なっていたため、会長選挙での貴重な一票を獲得するためのペーパー組織ではないのかという、あらぬ疑いをかけられた。

 

 疑惑を払拭するために、次のオセアニア大会で選手二人を連れて国際大会に初出場。ここで、またもや「ペーパー組織ではないのか?」と攻撃的な取材を受けた時に「パラオ柔道連盟はまだ生まれたばかりの赤ん坊です。でも、ペーパーではなく生きています」と高野さんは宣言。以降、この騒動が再燃することはなかった。

 

―夢ー

 2年の任期を終え、高野さんが帰国したあとも、パラオには立派に柔道が根付いている。

2012年のロンドンオリンピックではワイルドカード枠(夏の甲子園で長田が出場した20世紀枠のようなもの)で出場を果たした。

ロンドンオリンピック選手村にて。指導した出場選手、ジェニファーと。

 

 柔道のグランドスラムの東京大会では、毎回、高野さんが選手のアテンド及び現地監督を務める。子ども向けの新品の柔道着を送る運動の運営にも携わっている。

 

 そして、今年の夏、令和元年度外務大臣表彰のパラオでの授賞式に「創立者&設立時副会長」として列席してほしいと正式にオファーされ、パラオを訪問。立派に独り立ちしているパラオ柔道連盟を見届けた。東京オリンピックで再会できることが、今の高野さんの夢だ。

 

「自分の道を見つけ、大きな耳、小さな口、優しい目で全力でぶつかれば、自分一人の力は小さくても、きっと大きな力になると思います」。高野さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2019年12月 取材・文 田中直美)

 

令和元年度外務大臣表彰のパラオでの授賞式にて。上段左端が高野さん

 

編集後記

 ちょっと遅めの結婚だった高野さんは、現在、5歳と2歳の二児のパパ。奥様はチーズとワインのスペシャリスト。高野さんの柔道の世界と、奥様のチーズとワインの世界。結婚によってお互いの世界を知ることで、互いに興味の幅が広がって更に楽しめるようになったと高野さん。「互いの世界が広がったということは、二人がともに話し上手、聞き上手なんだな」と密かに想像した私です。もう一つのエピソード。たまたま仕事帰りに乗ったタクシーの運転手さんが、高野さんがタクシー運転手としての最後のお客で秋田に帰るとのこと。タクシーが止まったあとも、運転手さんの身の上話に、更に5分ほど耳を傾けたという高野さん。きっと、運転手さんにとっても東京での最後の乗車客だった高野さんのことを忘れないだろうと、私は想像しました。

 

 

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「Face To Face」NO.91「物事が起こってから、考え、動く」

 高29回生

 福嶋聡(ふくしまあきら)

 垂水中学

 演劇部、文芸部、弁論部

 京都大学文学部卒 

 ジュンク堂書店

 

  福嶋さんの名前が出た時に、「高校の時、尊敬していました」と語る声を別の場所で二人の方から聞いた。一時は演劇の道も考えたが、気が付いたら書店に勤め、様々なユニークな企画で注目を集める書店長となっていた福嶋さん。「書店人のしごと」を皮切りに単著も7冊に及ぶ。そんな福嶋さんにお話を伺ってきました。

 

―長田時代ー

 長田時代、演劇部だった福嶋さんは「第四の男」というオリジナル脚本を自作主演。市と県の最優秀賞をとった。

 

「『第四の男』というのは、麻雀をやるための四人目の仲間を呼んでくる学生たちの物語。なんで麻雀かというと、当時、休み時間に流行っていた紙麻雀を、本物のパイでやりたかったから。『演劇に使う』という理由で学校に持ち込むため(笑)」

 

 一つのテーマは、普段、自分たちが使っているそのままの言葉で芝居をするということ。脚本を読んだ部員たちからは最初「俺ら、こんな言葉使ってへん」とクレームがついたが、普段の会話をこっそりテープレコーダーに録音して聞かせたら、「ほんまや!」と納得(笑)

 第二のテーマは自殺だった。一年上の長田の先輩が自殺で亡くなった。「受験苦」という紋切り型で一面的な新聞記事を読んで、「ぼくらの生活は、それだけやない!」と、なにかもやもやとした感情が湧くが、それをうまくは表現できない。それを芝居にしたかった。

 

 前半はコメディ仕立て。そして後半で第二のテーマを扱った。

 

「尊敬している」と話してくれた男性は、この時、文化祭で観た演劇に感動した自分を鮮明に覚えているそうだ。

 

 文化祭実行委員長をした時の、お祭り広場のラストで、集まってきた皆が誰に指示されることなく自然と歌声を合わせていった時の高揚感。国鉄ストの時に、垂水から長田まで自転車で通学しようと走っていた福嶋さんの横を、須磨あたりで、走って追い抜いて、しかも最後まで自転車で追い越せない長田生がいたこと。なまいきな学生だった福嶋さんを『お前は一流にはなれない』と看破した担任の先生に、実際そうだなと納得して「超二流をめざします!」と答えたこと。

 

 そんなあれこれが長田時代の思い出だ。

 

―京都大学時代ー

 京都大学文学部哲学科に進学した福嶋さん。

 

「世の中にはすごいやつがおる!と思いましたね。毎日毎日120円のカレーを食べながら、ずっとギリシャ語の原文をスラスラ訳していくやつとかね。学者になるのはこういう人に任せよう。すごいやつがおると分かっただけでもめっけもん。そう思いました」

 

 馬に乗れたら、映画に出られるかも。そう考えて馬術部に入部した福嶋さんは、思惑通り?黒沢監督の「影武者」に、騎馬武者のエキストラとして参加する。

 

 「この時、『危険手あて』」など待遇の問題で、エキストラの集団が雇用者サイドと交渉することになりましてね。そうするとエキストラ集団を束ねるリーダーが自然と生まれます。最初は役者志望の人。次がとてもソフトな東大の院生。でも、この二人は途中でキレて降りてしまった。そして最後がガソリンスタンドに勤めていた大人。彼が最後までリーダーを務めあげました」

 

 「『みんなのために一生懸命頑張っているのに、どうしてみんなはついてこないんだ?』と、最初に辞めた二人はキレたのです。僕はそこで学びました。『リーダーとは、リーダーの立場にいることに満足・感謝して、みんなが自分の思い通りについてくることを期待してはいけない。みんなの世話をするが、それに対する見返りを求めてはいけない』とね。この時のこの実体験は、後年、とても役立ちました」

 

―書店員になるー

 もう少し学生でいたいと大学院の試験を受けたものの失敗。聴講生として大学生活を継続しながら、高2の頃から関わり始めた「劇団神戸」で、演劇活動を続けていた。そんな時、劇団の常連客で、ジュンク堂書店の社長に紹介して下さる人がいて、思いもよらぬ就職。

 

「飽きっぽい自分にとって、書店ほど面白い職場はないのではないか?嫌だったらいつでも辞めればいい。そんな軽い気持ちで働きだしました」

 

 「働きだして、何より良かったのは『劇団神戸』の公演チケットを買っていただける知り合いがうんと増えたことでしたね(笑)」

 

 京都支店に転勤になったのをきっかけに退団した。本屋の仕事の方が楽しくなったのだ。書店に来るお客様を観察していることが興味深く、その行動を見ながら、いろんなことを考えた。いろいろな本の著者にお会いできることも楽しかった。32歳の時に、最初の自著「書店人のしごと」を上梓。97年には仙台へ。99年には池袋の副店長に。2007年に関西(大阪本店店長)に戻り、2009年に新規オープンした難波店の店長に就任して今日に至る。その間、数々の工夫をこらしたフェアやイベントで本好きを惹きつけ、その活動は新聞でも紹介された。

 

 アマゾンで本を購入することと書店で購入することの違いは?と質問してみた。

 

「人間は、実は自分の欲望の一割しか言語化できていないと言われています。これはつまり、キーワードの検索では、決して自分の世界は広がっていかないということなのです。ネット社会は無限の広がりを持っているようなイメージがありますが、実は自分の興味のある世界にとどまっている。ある意味ビオトープ化するのです」

 

2018年 新聞研究に寄稿された福嶋さんの記事より抜粋。

「意見を持つためには事実や他者の意見を知らなければいけない。対話を成立させるためにも訓練が必要だ。その双方に資するのが、本である。―中略― そうした本たちが、さまざまな事実を携え、多様な意見を表明しながら集まる書店という場を、民主主義そのものの発現の場という意味で、ぼくは「言論の闘技場(アリーナ)」と呼ぶのである」

 

「本屋に行かないのは損だと思いますよ。本が並んでいるところに出向いて、ぜひ自分の世界を広げてほしい」福嶋さんから現役長田生へのメッセージだ。(2019年11月 取材・文・写真 田中直美)

 

編集後記

三宮センタービルの老舗のジャズ喫茶でインタビューさせていただきました。お店は、「今は、もう神戸のことはよく分からなくて」と、福嶋さんが、神戸が分かる福嶋さんの友人に頼んで選んでいただいたのですが、福嶋さんをインタビューするのにぴったりのイメージのお店でした!

「どんな本を読むか」。これは人生の大きなテーマの一つだと、改めて再認識したインタビューでした。

 

 

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第一回長田サロンが開催されました:高54回生 鈴木美央さん 「小さなアクションが街を変える〜マーケット(市)から地域生活・地域経済を考える〜」

2019/10/15

帝国劇場地下にある神戸大学六甲倶楽部。秘密結社アジトのような重いドアの向こうは34名の参加者の熱気で溢れていました。

可愛らしい鈴木さんの口から出てくる言葉は実に明快。

マーケットの力でどんどん人が、街が、生き生きしてくる魔法が、埼玉・柳瀬川マーケットの実例をもって語られました。

映し出されたスライド画面が変わる度に、スマホで写真を撮る人達も。

力強い説明に参加者達は何度も大きく頷いていました。

細身の鈴木さんがどんどん大きく見えてくるから不思議です。

「一つ一つの説明がど〜んと頭に響いてきた!」そんな感想も聞かれました。

講演も最後、楽しげに過ごす人達で一杯になった公園の写真を見たら、今すぐにでもマーケットへ行きたくなりました!

あっという間の50分は大きな拍手で締めくくられました。

 

その後の懇親会では参加者達が仕事や世代の壁を越えて軽食を食べながら交流しました。

自己紹介タイムでは、皆さん個性たっぷりで一人40秒ではなかなか足りず。

終了を知らせる冷酷な鈴の音が、絶妙なタイミングで何度も鳴り響きました(笑)

 

最後は“高校生の時は皆キングとクイーン”という想いを込めてABBAのダンシング・クイーンを歌って(踊って?)会は盛況のうちに終了しました。

次回は来年初旬の開催を予定しております。

是非ご期待ください!

(文責 41回生 井川千穂)

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「Face To Face」NO.90「我以外皆我師」

 高52回生 西内啓(にしうちひろむ)

 桃山台中学卒

 東京大学大学院

 データビークル取締役

 

 

 

 昨今、話題に上ることが多い「ビックデータ」「AI」。だれもが簡単にデータを分析したりAIを造ったりできるような、そんな仕組みを作るために起業した西内さん。入り口は「統計学」と出会ったことだった。2014年度ビジネス書大賞を受賞した「統計学が最強の学問である」は、シリーズ累計50万部を超える。

 

―統計学に出会うー

 東大に行くことになったのは、ある意味ちょっとした偶然だった。父親が外科医だった影響で最初は医学部を目指していたが、センター試験が終わった段階で地元国立大の医学部入試判定はギリギリのC。「試しに、このセンター試験の得点で、B判定を貰えるところと探したら東大の理兇世辰拭これなら、なんとか親も納得してもらえるかもと(笑)」

 

 大学一年で「統計学」に出会った。

「私は、もともと人間に興味があります。そこで、遺伝子や脳に関する授業を受けてみたがなんか違うと感じ、心理学や認知科学の授業を取り始めた。この分野では、色んな仮説を統計学を使って実証していきます。人間とは、もともと多様で個性にあふれたもの。でも、データを集めることによってある傾向が読めてくる。それを面白いと感じました」

 

 博士課程の進学時に、新設された医療コミュニケーション学科の第一期生となる。その後、論文のテーマに選んだのは「20代、30代の女性に禁煙を薦める、効果的な動機付けはなにか?」

 

「『煙草が健康に悪い』ということは、もう出尽くしたメッセージ。何かもっと別のアプローチがあるのではないか?データを分析した結果出たのは『公共の場が完全に禁煙になったら自分も禁煙するだろう』という意識が、20代30代の女性の禁煙には最も強力な動機付けになりそうだ、ということでした」

 

 博士途中から、東京大学大学院医学系研究科医療コミュニケーション学分野助教を任じられた西内さんは、大学病院医療情報ネットワーク研究センター副センタ―長を兼務。その後、大学の職を辞してハーバード大学がん研究センター客員研究員として留学する。

 

―研究から仕事へー

 かねて、「研究」が自分の本当にやりたいことではないのではないかと感じていた西内さんは、留学後、「やはり、研究ではなく『世の中を良くする仕事をしたい』」と考えている自分を再認識。帰国後はビックデータやデーターサイエンスを扱う仕事を頼まれては手伝っていたが、これは仕事になりそうだと見通しがついてきた段階で起業。

 

 「統計学が最強の学問である」を出版したのはこの頃。

 

「初版は数千部でした。統計学の本など、そんなに売れないだろうと」

ところが、売り出したら、出版社も驚くほど、首都圏だけではなく地方でも売れた。1万部、2万部と増刷していたが、あまりに伸びるので「切りのいいところで10万部にしておきました」と出版社。それが、あれよあれよというまに25万部。最終的にはシリーズ累計で50万部売れた。

 

「コミュニケーション科学の分野で、人は、大別して『いつ、どこで、誰がどうした』といった具体的な情報が得意な人と、『要するに何』といった抽象的な情報を扱うことが得意な人がいるという考え方があります。そして日本人は、比較的前者が多い。今までの統計学の本が後者を対象とした表現になっていたのを、私は前者の人たちを読者対象として、具体的、かつ共感しやすい表現にしました。そこが売れた理由かもしれませんね。また、データの分析というものを、『そろそろ勉強しなくては』と考えだした人が多くなってきていた、という社会の流れもあったでしょう」

 

「統計学が最強の学問である」は、大学入試のテキスト文章にも、何度か使われたそうだ。

 

―データビークルー

 代表取締役を務める株式会社データビークルを2022年から2023年にかけて上場させることが、直近の目標だ。

 

 データビークルでは、だれもがクリックするだけで、簡単にデータ分析できるようなソフトの開発を目指している。

 

 「たとえば、企業がBIツール(ビジネスインテリジェンスツール)を利用しようとしたとき、単なる『見える化』で終わりになってしまうことが多い。データを自動で分析したあと、『見るべきポイントはここだよ』『これが関係しているから見た方がいいよ』ということを全て『日本語』でおしえてくれる。専門家でなくても、みんなが使いこなせるソフトであることが重要です」

 

 「日本企業では『IT系』と言いながらもやってることはただの技術者の派遣だったりしますし、ゲームを除けばほとんど世界中で使われるようなソフトウェアを生み出すことができていません。我社が日本から最初に生まれるそうした会社の1つになれればと。作りたい製品のアイデアは山ほどあります」

 

「私は製品開発の最高責任者です。技術には強いと自負しています。その代わりマネジメントは不得意。なので、マネジメントや営業が得意な人と組んでいます」

 

 「大学進学時、最低限東京に、できればアメリカの大都市に進出してほしい。世界にはこんな仕事についている人もいるのかと、めちゃくちゃ視野が広がります。キャリアの選択肢が増えますよ!」西内さんから現役長田生へのアドバイスだ。(2019年10月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 「プライベートの楽しみは?」と質問してみたら「今は『統計学が最強の学問である』の漫画化を進行中なのですが、その脚本を考えているのがめちゃくちゃ楽しいですね」とのこと。ハリウッド映画の脚本の書き方をまず勉強したそうだ。そしてピックアップしたのが「バディもの」といわれるパターン。「世の中、数字じゃない!」と息巻く熱血営業マンと優秀だけど大学を中退したダメ人間がバディを組みながら、統計学で仕事をパワフルに変えていくというストーリーだそう。乞うご期待です!

 

データビークル https://www.dtvcl.com/

 

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