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■□ 2017年度神撫会東京支部総会・懇親会のご案内 ■□

神戸三中/長田高校OB・OGの皆様


春もたけなわで行楽の好季節となりましたが、皆様におかれましてはますますご健勝の事と存じます。
さて、毎年開催しております「神撫会東京支部総会・懇親会」につきまして、
本年は63()に執り行いますので、ご案内と出欠の登録をお願い申し上げます。

▼出欠登録はこちらから▼

http://my.formman.com/t/gQdD/

 

今年度の総会・懇親会は高42回生が担当いたします。

学生時代の良さを思い起こしつつ、これからのさらなる総会発展へと繋がることを願って企画の準備に取り組んでおります。

ご多忙中のこととは存じますが、是非ともご参加の程よろしくお願いいたします。

20174

神撫会東京支部長  南山宏之(高25回生)
2017年度担当幹事代表  南谷育子(高42回生)

     〜

2017年度神撫会東京支部総会・懇親会のご案内』
 


1.開催日/場所/会費


日時:
201763()
午後3時〜5時半(開場:午後2時)

バザー出品受付時間:午後2時〜245
注:例年よりも一週間早い6月第1土曜日開催になります。

 

場所:
渋谷東武(とうぶ)ホテル 地下2階 「鳳凰の間」
150-0042 東京都渋谷区宇田川町3−1
電話: 03-3476-0111
https://www.tobuhotel.co.jp/shibuya/

会費:

男性:7,000  女性:5,000  ご家族:3,000
学生:23歳まで一律1,000円(要 学生証・高校卒業5年以内)
喜寿(77)以上の方:3,000

米寿(88)以上の方:無料
 


2.今年度企画テーマ

企画に集う度に、長田の強い絆を感じています。
そんな私たちの今年のテーマは

『「智・徳・体」でつながる絆』

です。
長田の理念「智・徳・体」は世代を超えて繋がる鍵。皆さんにも同様に感じてもらえるよういろいろな「しかけ」を作って、みなさんを繋げる準備をしています。

「一人一人がつながりを作り、絆を深める」

皆様のご参加をお待ちしています!

 

さらに、舞台参加企画も募集します。歌、演奏、マジックなど、会場を盛り上げていただける企画がございましたら、直接南谷までお電話ください。(1組5分程度)
なお、ご提案いただいた企画が多数の場合、大変申し訳ありませんがお断りさせていただく可能性もあることをご了承ください。
また早めの決定のお知らせが出来ます様、企画の締め切りは52()とさせて頂きます。 ご理解ご協力の程よろしくお願いいたします。
 


3.お願い事項

(1)出欠登録のお願い(重要)
517日(水)までに以下Webページから出欠登録をお願いいたします。
▼出欠登録フォーム▼

http://my.formman.com/t/gQdD/

 

・皆様の個人情報は神撫会東京支部でデータ管理しております。神撫会および神撫会東京支部関連以外の目的では一切使用いたしません。
・事前に「ハガキによるご案内は不要」と確認が取れなかった方、または登録頂いているメールアドレスへメールが配信できなかった方には、別途同一内容でご案内ハガキが郵送されます。

▽経費節減のため可能な限りWebページからのご登録をお願いいたします。
http://my.formman.com/t/gQdD/


(2)チャリティバザーご参加のお願い
会場での「一人一品チャリティバザー」を今年度も実施いたします。
ひとり1品以上出品、1品以上買上げのご協力をお願いいたします。
・本バザーの売上金は震災遺児支援募金「桃・柿育英会」に寄付させていただきます。
▽詳細:

http://nagata-tokyo.jugem.jp/?cid=33
・商品は持ち帰り用の紙袋等を付けて当日会場にご持参ください。
・品物は新品が基本です。ただし、価値ある中古品も出品可能です。
 


4.問い合わせ先

▽メールでのお問い合わせはこちらから
ask-shinbu@nagata-tokyo.com
または
2017年度幹事 南谷育子(みなみたに いくこ)
(高42回生、090-9142-7154 まで

こんなときには(よくある質問)


Q1. 回答期日(517)を過ぎてしまったが、出席できる?
A1. 3日前(531日まで)であれば、登録フォームから出席登録が可能です。
それ以降前日までの出席連絡は上記問い合わせ先までお知らせいただき、当日参加希望の場合は直接会場へお越し下さい。


Q2. 出席回答した後、都合が悪くなった。どうすればいい?
A2. 3日前(531日まで)であれば登録フォームから再登録(欠席回答)が可能です。念のため、メッセージ欄に「出席回答を取り消します」という旨をご記入下さい。それ以降の欠席連絡は、上記問い合わせ先までお知らせ下さい。
ご連絡無く当日欠席された場合は、後日会費を頂戴する場合がございますのでご承知おき下さい。

Q3. 登録情報を変更したい場合は?
A3. 回答期日(517)までであれば、登録フォームからの再入力でお願いします。念のため、メッセージ欄に「住所更新あり」等のご記入をお願いします。517日以降の場合は、以下の専用ページからご入力下さい。
▽新規登録/登録内容変更ページ
http://my.formman.com/t/OFxr/

*最後までお読みいただきありがとうございました。

 

▼出欠登録フォーム▼

 

ホームページ・Facebook総会・懇親会情報を随時紹介しております。

 

▽ホームページアドレス
http://nagata-tokyo.com/

Facebookページ

 

今後とも神撫会東京支部をどうぞよろしくお願いいたします。

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「Face To Face」NO.60 懇親会担当、42回生ご紹介

 

懇親会担当回生42回生のみなさん

 後列左より時計周りで

 山下さん、阿部さん、南谷さん、川部さん、小川さん、宇和川さん

今年の懇親会担当幹事は42回生。着々と準備が進んでいます。

今回は、42回生の中から6名の人にお話を伺いました。

■■■ 

 まずは、個性溢れるメンバーのご紹介。

 

後列左端の山下さんは、とにかく「いい人」で仏のような人柄だそう。笑顔にも出てますね。「面倒なこともなんでも引き受けてくれるし、絶対に敵をつくらない。完璧な官僚で、ボロもだしません(笑)」との評。

後列2番目の阿部さんは、ただいま1歳半の女児のパパ。「同窓会の仕事をして家に帰ると、家のこともやってと妻に言われるのがつらいです」と、本当につらそうな表情をしてみんなの爆笑を買っていましたが、本人はいたって真剣!そんな彼は「同期のマスコット的存在」なのだとか。そして、言葉を選んで話す感性の人。

後列3番目、身長170センチの「高身長女子、南谷さん」が今年の幹事長。現役時代からリーダー的立場を担うことが多かったそう。 びしびしと皆に指令を出し、お酒を飲むと猛獣に変身するとかしないとか??でも普段は「麹菌」をかわいい!っと言いながら育てている夢見る乙女の側面も。

後列4番目の川部さんは、高校時代は「一匹狼」的存在だったそうですが、今は人当たりの良いイケメン。仕事が早くて頼りになるけど、びしっとダメ出しもするそうです。

ぐるっと回って前列右の小川さんは、大学時代からずっとテニスに打ち込むテニス女子。メンバーが好き勝手言っても、それをきっちり文章化してくれる才能の持ち主。

最後は、まあるいお目々がかわいい宇和川さん。なんと、彼女は声優さんです。42回生のアイドル的存在だけれど、企画のアイデアもどんどん出してくれるアイデアレディでもあります。

 

「去年の今頃までは、卒業以来まるっきり接点のなかった僕たちが、突然の濃密な付き合いで、それが楽しくてたまんない」

「みんなとても個性的で癖があるけど、それが集まってほんとに居心地がいい!」

「学生時代は話したことがなかった人でも『長田』というだけで、すぐに楽しく話せるのが不思議!」と、誰もが笑顔・笑顔。

 

インタビューの間も、本音でばしばし突っ込みが入り「長田エネルギー」が満載でした。

 

ここには出席できなかった42回生も、大勢が懇親会の準備に参加してくれています。63日が子どもの学校の運動会と重なって、当日出席できない女子たちも、「自分たちにできることは」と展示物の用意など、見えないところで大活躍。その心意気が「長田」です。

 

42回生からのメッセージです。

―長田の理念「智・徳・体」は世代を超えて繋がる鍵。皆さんにも同様に感じてもらえるよう、イベントを一所懸命準備しています。当日のご参加を心よりお待ちしておりますー

 

いろいろな「しかけ」を作って、みなさんを繋げる準備をしている42回生です。ぜひ参加して、その「しかけ」に乗ってみてくださいね。

20174月 取材・写真・文 田中直美)

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「Face To Face」NO.59 「うまくいかないからこそ面白い」

 高61回生 中野 瞳

 

 飛松中学卒

 陸上競技部

 筑波大学体育専門学群

 筑波大学人間総合科学研究科

 

 

大ジャンプー

 20076月、県インターハイの走り幅跳びで6m44cmの大ジャンプを跳び、日本ジュニア記録(20歳までの日本記録) 、日本高校新記録を出したのは、中野瞳さんが長田高校2年生の時だった。

 

 「直前の練習で踏切のコツを掴んでいました。でも実はあの一本は、助走の出だしでつまづいてしまい、自分の中では失敗だったのです。それで走り抜けようと思っていたのですが、まあいいやと踏み切ってみたら、思いがけない大ジャンプになったのです。私は助走時に考え過ぎる癖があるのですが、無心になって、体にしみ込んだ技術を自然に出し切れたのが良かったのでしょう」

 

 新記録達成の当日はもちろん嬉しかった。だが、翌日からは、挑戦者だった自分から、守りに入っている自分を感じたと言う。

 

―潰瘍性大腸炎―

 大記録を出した翌年、高校2年の冬から、実は体調の変化はあった。だが、だれにも心配をかけたくないと一人でがんばっていた中野さんは、高校3年の6月に入院してしまう。潰瘍性大腸炎だった。すでに4月からインターハイの予選が始まっており、だましだまし練習を続けていたが限界に達してしまったのだ。

 

入院は3週間に及び、体重は15kgも減ってしまった。退院しても、跳ぶどころか歩くことさえままならない。少女の頃には野球をしていた中野さん。ついついがんばりすぎて足をぱんぱんに腫らしてしまっていた。そんな中野さんの足を、いつもマッサージしてくれていたのがお母さんだった。陸上を始めてからも足のマッサージを続けてくれていた母。15キロも痩せて、みるみる筋肉が落ちていく足もマッサージしてくれた母。ベッドの上で横たわっていた中野さんは気づいていなかったが、母の目は涙で一杯だった。ずいぶん後になってから知った。

 

「でも、あの時、病気になって良かったと思います」と中野さんは控えめな笑顔で語る。

「ご飯が食べられること、スポーツができること。今まで当たり前だと思っていたことが、どんなに幸せなことかと気づけたのですから」

 

スポーツでの推薦は厳しくなったため、筑波大学のAO入試にチャレンジすることにした。

 

「ベッドの上でも、パソコンを持ち込んで、テスト科目である小論文の作成に力をいれることができました。入院中は自分と向き合える時間がたっぷりとあります。そういう時間が持てたことに感謝しています」

 

筑波大学に進学した中野さんだが、潰瘍性大腸炎は難病指定も受けている病気で完治することは難しい。うまくコントロールしていかなくてはいけない。

 

34月に再発することが多く、冬の間にトレーニングで鍛えた体力が落ちてしまいます。落ち込みそうになっていた時に、私と同じ病を抱えた水泳選手の上田春佳さんが、ロンドンオリンピックに出場したことを知りました。同じ病気でもやればできるんだ!と勇気づけられました」

 

筑波大学の大学院に進学した中野さんは、競技選手、特に女子選手の体重コントロールなどを中心にコーチングの研究に励む。卒業後は「原点に帰ろう」と決心して、地元神戸に戻り、兵庫県教育委員会の嘱託職員として働き始めた。

 

―転機―

自分でも原因は分からない。でも、なんだか心がモヤモヤする。神戸に帰った中野さんは、そんな自分に困惑していた。そんな時にお母さんが「モヤモヤしたまま競技を続けているのを見ているのは辛い。自分でやりたいことをやりなさい」と声をかけてくれた。

 

中野さんは、その時に自分の心が見えた。本当は世界に向けて、環境の整った筑波でがんばりたい。でも、自分で決めて神戸に戻ったばかり。職場の人に迷惑をかけるわけにもいけない。無意識のうちに、自分の心に蓋をしていたのだった。

 

「おそるおそる職場の上司に話をしたところ、『挑戦しなさい』と後押しして下さったのです。本当にありがたかったです」

 

―支えてくれる人―

今、筑波に戻った中野さんの目標は東京オリンピック出場だ。

 

「幸いにして私を支えてくださるスポンサーさんたちが、いろいろな形でサポートしてくださっています。食品メーカーからは栄養補助食品の提供や栄養士さん、フィットネスクラブからはパーソナルトレーナー。入浴剤、オーダーメイドのインソールの提供。デザイナーの方がグッズをデザインしてくださったりもしています」

 

入り込むとオーバートレーニングになりがちだった中野さん。疲労を溜めないように自分の体の声を聴くようになった。高校時代・大学時代は心配をかけたくなくて、母にはなかなか相談できなかった。それが反対に心配をかけてしまっていたことに気付いた中野さん。今は一番の相談相手は母だ。

 

東京オリンピックのピットに立ち最高の跳躍をする姿を、お世話になった方々に見ていただきたい!その夢を叶えるために筑波でトレーニングの日々を送っている。

 

「私は長田高校に育ててもらったと思っています。その恩返しもしたい。長田高校での仲間も素敵な人ばかり。誰もが個性的で、そして、互いにその個性を認め合っている。様々な分野で、皆が目標を持ってがんばっている。本当に良い影響をもらいました」

 

少しでも恩返しをしたいからと、長田高校創立100周年記念の運営スタッフにも手をあげた中野さんだ。

 

「競技や研究、人生において、うまくいくと信じて取り組んでも、うまくいかないことが多いと感じています。しかし、だからこそ面白く、そこに魅力があると感じています。失敗を生かすかも殺すも自分次第。失敗を失敗に終わらせず、そこから学ぶことで成長し、その後の大きな成果につながると信じています」

 

2016年2月 初めて一人で海外遠征に行く

  

2016年9月の全日本実業団(@長居陸上競技場)で優勝

 

 

 

編集後記

どんな時も感謝の気持ちを忘れず、置かれた状況の中で「良かった」と思えることを自然に探している中野さん。記者には眩しいような姿でした。「いつも心に太陽を」。中野さんを見ていると、なぜか自然とこの言葉が心に浮かんできた私です。

 

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「Face to Face」(OB御紹介)記事一覧
長田OBの魅力と卒業後の人生の軌跡をお伝えします
メールはこちらから!
No.59 高61回生 中野瞳
「うまくいかないからこそ面白い」
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NO.58 高17回生 中野正好
「美しいものが好き」
ーーーーーーーーーーーーー
NO.57 高30回生 伊達寛
「保続」
ーーーーーーーーーーーー
NO56 38回生 金盛正樹
 「NEXT ONE」
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NO55.34回生佐藤絵里
「叩けよさらば開かれん」
ーーーーーーーーー
No.54 29回生水草修治
「生きる道を探して」
ーーーーーー
No.53 41回生 藤井浩
「ふまれてもふまれても立ち上がれ」
ーーーーーー
 No.52
 31回生 青木稔
「教師として生きるー亡き息子の志を継いでー」
ーーーーーーーー

 No.51 番外編
 41回生奮闘記
 
No,50 高18回生 藤本隆

「我が道を行く」

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N0.49 高43回生 山田洋平

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No.48 高35回生 山田恭嗣

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No.47  高19回生 石田幸司

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NO.42 高28回生 岩崎倫夫
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「思考し、変化し、成長し続ける男」
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NO.38 高60回生 谷山雅美
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「Face To Face」NO.58「美しいものが好き」

 高17回生 中野正好 

 歌敷山中学卒

 美術部、生物部

 

 武蔵野美術短期大学

 牛山美容文化学園

 カネボウ化粧品美容研究所

―キャッツー

 おそらく、ほとんどの人が知っている劇団四季のミュージカル「キャッツ」。役者たちが身も心も猫に変身するあの独特のメイク。それをファンデーションの開発から全て関わり、役者さんたちが自分でメイクできるところまで指導したのが中野さんだ。

 

―変貌ー

 神戸にいた頃の中野さんは、通知表に「おとなしすぎる。恥ずかしがり屋である」と先生にいつも記入されるような少年だった。「勉強は得意でなかったけれど、音楽と絵は本当に好きで得意だった。だからこのどちらかで身を立てようと思っていました」

 

 長田で理数系のCコースに進んだ中野さんだが、選択科目で美術を選んでいる生徒はなんと3人しかいなかった。その美術の授業での川端先生の「絵は、画家になるだけが道ではない。意外とつぶしがきくんだよ」とのアドバイスがきっかけで、音楽ではなく美術の道に進もうと決心する。

 

 東京の武蔵野美術短期大学に進学した中野さんが最初にしたこと。それは日本橋の高島屋に行って、真っ赤なセーターを買うことだった。

 

 「真っ赤なセーターを着る。指輪をジャラジャラはめる。大きなイヤリングも付ける。神戸での自分とは全く違う人間になりました」

 

当時の新宿はアングラ文化全盛の時代。まだ『丸山明弘』だった頃の美輪明宏が演じた『毛皮のマリー』を観た中野さんは演劇にも魅了され劇場に通った。

 

だが、そんな中野さんが美術学校で何よりも魅了されたのは、デッサンで描き続けた人間のヌード。「一番美しいのは人間だ。その人間を美しくするメイクを学びたい」。中野さんは牛山美容文化学園に入学することを親にも相談せずに決めた。

 

「東京では真っ赤なセーター、指輪ジャラジャラだった僕も、神戸に帰省するときは、全て外しておとなしい僕になっていましたから、親もさぞかしびっくりしたことでしょう」

 

―中野さんの仕事WAY

美容学校一年、インターン一年の期間を経て、理事長・校長の推薦を得てカネボウに就職した。試験時期の関係で、卒業から就職まで半年ほどのモラトリアム期間があったが、その時に、たまたま友人に誘われて土方巽の劇団でアルバイトをする。

 

「観ることが大好きだった演劇を、演ずる側の視点から見せてもらった。この時の経験が後々の僕につながっていきます」

 

カネボウでは入社直後から、毎朝自分の顔にメイクしてから出社した。

「何事も自分でやってみなくては分かりません。どれぐらいで化粧崩れするのか、テクスチュアーはどうなのか、メイクの理論ももちろん勉強しましたが、『実感』を大切にしました」

 

周囲の人たちは「男のくせに」とびっくりしたが、上司は評価してくれた。

 

81年、82年の2年をかけて、世界の美容業界で最も高い権威をもつCIDESCOで、新しいメイク理論が認定され、「国際シデスコ大賞」を受賞。「おそらく、今でも日本からは僕一人のはずです」

 

カネボウのメイク研究所所長とカネボウメイクスクールの校長を兼任。カネボウメイクスクールには、大手他社メーカーからも多数勉強に来ていた。「門戸を開いて、ついでに優秀な人材はヘッドハンティングしていました(笑)」

 

「そしてありがたいことには、カネボウのトップは僕が個人として外の仕事・・主に劇団ですが・・をすることを奨励してくれた。『外で通用しなくてはだめですよ』とまで言ってくれました」

 

60才で定年を迎えた時、どうしても残留してほしいと請われた中野さんは、夕方から夜にかけてだけ働き、他の時間は自由でいられるカネボウ美容研究所の顧問という立場であればと条件を出したが、「なんと給料が跳ね上がりました」とのこと。

 

メイクの神髄はなんですか?と質問してみた。

「欠点をカバーするためのメイクではなく、美点を強調するメイクが基本です。でも強調するというのと化粧を濃くするというのはまた違う。つくるところは徹底的につくりこむが、手を入れなくても美しいところにはあまり手をいれない。極言すれば、きわめつけの美人はノーメイクが一番美しい」だそうだ。

 

 中野さんのメイク作品の一つ

 ライトを当てると発色する特殊な化粧品で

 男女二人のボディメイクをしている。
 

 

―自由に美にのめり込む今ー

 現在70歳の中野さんだが、一日が24時間ではとても足りないほど忙しい。今も日本全国の美容学校に講師として招かれ、舞台やオペラでのメイクも指導する。熱心な生徒は中野さんの自宅にまで勉強にくるがその面倒もみる。「昔から『えこひいきの中野』と呼ばれていましたが(笑)、熱心な生徒は徹底的に面倒をみます。夜遅くまで自宅に生徒が押しかけてきます。でも妻はカネボウ時代の部下だったので、僕の仕事を理解し好きにやらせてくれました。感謝ですね」

 

 更に最近は若かりし頃好きだった陶芸や絵にも回帰し、日展にも入選した。さらにさらに時間のない中野さんだ。仕事を終え帰宅して絵を描き始めるのが夜中の1時、はっと気づくと既に朝の7時になっている。

 

 個展に出品した陶器の照明作品

 雲海に取り囲まれる富士山頂をイメージした絵画
 

 神戸での学生時代、歌敷山中学の窓から見える瀬戸内海と淡路島の美しい姿に心奪われ、長田に通う山陽電車の窓から見える海にいつも感動していた。

 

「美しいものが好き。これが僕の原点です」

 

長田時代に得た親友二人とは、今も一年に1.2回は必ず会う。中野さんが東京の大学に進学した後、「お前、ずいぶん変わったな」と驚かれたが、ずっとずっと親友のこの二人は人生の宝だ。(20172月 取材・写真・文 田中直美)

 

 ■■■

編集後記

 

 長田OBとしては珍しい職業の中野先輩。でも、お話を伺っていると、一つの物に打ち込む真摯さ、やり抜く根性はやはり長田OBと感じました。私もメイクしていただいて、別の人格になってみたいと思ったことです。インタビューの後も、大きな荷物を持ってすぐに富山へと旅立たれた中野先輩。まだまだ教えを乞う後輩たちが、日本全国で待ち受けています。

 

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「Face To Face」NO.57「保続」

 高30回生 伊達寛(ゆたか)

 垂水東中学卒

 生物部・生徒会執行部(文化部長)、

 応援団・弁論部

 信州大学農学部畜産学科

 信州大学大学院農学研究科林学専攻

 グンゼグリーン(株)

 

―いなかの匂いが好きだったー 

幼少時、岡山の高梁(たかはし)がいなかだった。毎年、春と夏にはお墓参りを兼ねて遊びに行く。成羽川の清流にはあゆが上ってくる。あゆ漁の鑑札を持っていた叔父の背中を追い、川に網をかける様を観察していた。その頃の伊達さんは、まだ幼くて魚釣りは出来なかったが、川の浅瀬の石にくっついている貝のカワニナなら採ることができた。泥を吐かせてから出汁を取りお味噌汁にしてもらった。

 

なんとも言えない「いなか」の匂い。それは離れに飼っていた牛や、田んぼの草の匂いが混然となったものだったのだろう。伊達さんは、そんな「いなか」の匂いが大好きな少年だった。

 

 「昔はいなごも食べたし、用水路の水も飲めたんやけどねえ」と母が語るのを聞いたのが、「環境」というものに関心を持った最初のきっかけだったかもしれない。「農薬を使うようになって、いなごはいなくなったし、用水路の水も飲めなくなった」という母の言葉が心に残った。

 

―生物部、文化部長、応援団、そして弁論部ー

 長田時代は生物部だった。生物部には立体顕微鏡とプランクトンネットが在ったので、プランクトンを採取して観察し、水質との関連を調べるため水質調査をしたいと考えていたが、化学部の顧問の先生の管理下にあった試薬は使わせてもらえないものが多くて、それはあきらめざるを得なかった。

 

生物部以外にも、生徒会執行部の文化部長を務めていた。サッカー部が全国大会出場をかけた決勝戦に出ることになり、応援のための「授業の集団エスケープ」を生徒たちが計画。それをエスケープにならないよう、休校にしてほしいと学校側と交渉したのが当時の生徒会長。これがきっかけで、部員がいなくて休部になっていた応援団を伊達さんたちが再結成。生徒指導の広田先生がすでに社会人になっていた先輩にお願いしてくださり、応援団の振り付けを習った。サッカー部の全国大会出場時には間に合わなかったが、野球部の夏の甲子園予選では応援部デビューを果たすことができた。

 

「部活を引退した後も、放課後にどこか集まれる場所が欲しいよね」と友人たちと相談したのは2年生も終わりに近づいた頃だろう。それぞれが、生徒会執行部、バトミントン、テニスに打ち込んでいが、引退が近い。「こうなったら、部室があるのに休部になっている部を復活させよう」と仲間4人で再興させたのが弁論部。日々放課後に部室に集まって、いろいろ意見交換してメンバー同士の絆を深めた。現在、関西と首都圏での同級生の集いに、その弁論部の仲間の絆が活かされている。

 

―安曇野サイクリングー

 大学受験での第一志望は北海道大学だった。「獣医の資格をとって牧場経営をするというのが、その頃の僕の夢でした。でも、残念ながら不合格。自然に囲まれた環境で大学生活をと、二期で受験した信州大学に合格したのです」もしあの時、第一志望だった北大に合格していたら、その後の人生は大きく変わっていただろうなと、振り返って今、そう思う。

 

 大学時代はユースホステル部に所属して、登山、バックパッキング、サイクリング、スキー、キャンプ、などで信濃路のアウトドアを満喫した。その中でもとりわけ記憶に残るのが、大学に入って最初に行った安曇野へのサイクリングだ。

 

 あまりに気持ちの良い5月の天気に、「安曇野へサイクリングに行こう!」と急きょ、皆で決定。授業をさぼって出かけることになった。伊達さんはまだ自転車を持っていなかったが、その日の授業はどうしてもさぼれないという仲間がサイクリング車を貸してくれた。

 

 大糸線沿線を、豊科、穂高、大町と快適にサイクリング車を飛ばす。ところが帰り道のある場所から、突然、どうにも疲れが出たのか、こいでもこいでも自転車が前に進まない。リーダーだけが伊達さんに付き添い、他のメンバーには先に行ってもらうことになった。

 

 しばらくは必死でがんばっていたが、そのうちリーダーが「お前、ちょっと自転車を降りてみろ」と言う。自転車を降りてリーダーが車輪を回してみたら・・なんと!ブレーキが壊れて後輪がずっとブレーキがかかったままの状態になっていたことが発覚。ブレーキのかかった後輪のまま、一生懸命、走っていたのだった。「そこまで走ってきただけでもすごかった(笑)」第一回目のサイクリングでは、高校時代に鍛えられたど根性が役立った。

 

―「林学」に目覚めるー

 伊達さんが最初に入学したのは「農学部畜産学科」だ。だが、当時の信州大学農学部はゼミの門戸が広く、他学科のゼミも選択できた。伊達さんは林学に惹かれ「森林環境研究室」に入る。

「もともと僕は環境問題に関心があったのですが、開発か自然保護かと、当時論争になっていたものが林道問題でした。そんな時に出会ったのが森林環境研究室の菅原先生で、『自然を守るためには、ある程度人が手を入れることが必要。そのためにも林道は必要なものである』というお話を聴いたときに、自然か経済かという二律背反の対立軸ではないのだと、とても腑に落ちたのです」

 

 その後、院にまで進みながら「北アルプスの自然を守る会」、首都圏の学生・市民団体「グリーンドラフト」に所属しながら自然パトロールや森林作業ボランティアを続けた。作業は午前中のみで、午後はフリータイムで山村を楽しむのが会の運営方針。「森林作業はレジャーだ!」が合言葉だった。

 

―環境に関わり続けてー

 菅原先生の推薦を受けて「グンゼグリーン」に就職。都市計画における緑化に関わり続けてきた。自らの性格を「愚直」という言葉で表現する伊達さん。伊達さんのFacebookには、日々、季節に応じて小さな変化をみせてくれる多種多様な花・葉・実・樹木の写真がアップされている。それらは全て、伊達さんが通勤途上に目にしたものだ。「花の名前は知っていても、葉や実には無関心な方がほとんどです。でもどの樹木にも名前がちゃんとある。すこしでも、みなさんに関心を持ってもらえたらと思い、日々、写真をアップしています」

 

 樹木医の資格も取得した伊達さん。林学用語の「保続」―森林環境(自然)の恵みを永続的に享受するためには、樹木の長い成長期間をみこした視点を持ち続けることが基本であるーの概念をモットーとしてきた伊達さんの、地道で堅実な活動はこれからも続く。(20171月 取材・写真・文 田中直美)

 

編集後記

 Facebookで日々紹介されている木・実・花が通勤途上のものであるとは驚きでした。それほど多種多様だったからです。自分の住んでいるマンションの植栽の木の名前さえ、全ては知らない私。つつじや椿が花を咲かせていれば目にとめるけど、それ以外は空気のように存在していることさえ意識していない。みなさんも伊達さんのページにアクセスしてみてください。きっと新しい発見がありますよ。

https://www.facebook.com/yutaka.date?fref=ts

伊達さんの着ていたあったかそうなセーターが、そのまま伊達さんのお人柄のように感じられたインタビューでした。

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「Face To Face」NO.56「NEXT ONE」

 高38回生 金盛正樹(かなもりまさき)

 塩屋中学卒

 サッカー部

 

 千葉大学工学部画像工学科

 

 鉄道写真家

 

 コアな鉄ちゃんなら「金盛正樹」さんの名前を知っている人も多いだろう。「鉄道写真家」として、鉄道専門誌やカメラ誌、一般誌の鉄道企画などに写真を発表している金盛さんにお話を伺いました。

 

―サッカーと鉄道ー

 幼い頃は、厳しい母に叱られると「しゅんとしてしまう」、そんな内気で引っ込み思案な少年だった。そんな自分が負けん気の強い少年に変化したのは、小学校時代にサッカーを始めてからだと金盛さんは思う。

 

 「俺って、ひょっとしたら運動得意なんかも。やれるやん!って自信がついてきたんですね」

 

 サッカーを始めた頃には、すでに汽車・電車も大好きだった。いったい何にそんなに惹かれたのか、今でもよくわからない。中学では鉄道模型好きだった友人と意気投合。彼が写真も趣味にしていたことから、金盛さんもお父さんのカメラを借りて写真を撮りだした。

 

 こうして、サッカーと鉄道の青春時代が始まった。

 

―ライバルー

 「負けず嫌いだと強く感じたのは長田時代ですね」。体調がすぐれない日の周回走。今日は少しゆっくりのペースで走ろうと思っていても、誰かに抜かれるとカチンとスイッチが入って一番になりたくてがんばってしまう。

 

 サッカー部ではキャプテンを務めたが、チームメイトの中に一人、「こいつには絶対かなわない」と密かに思うI君がいた。

 

 「とにかく、上手さは頭抜けていました。当時から『世界のサッカー』を視野に入れていました。まだまだ『根性練習』が主流の時代に、理論的な練習を取り入れようとしていた。海外サッカーの試合を録画し、何度も何度も見ては分析する。あまりに頭抜けていて、周りも彼のレベルを理解できない。キャプテンをしていた自分としては『チームをまとめきれていない』と感じており、現役時代は彼と心から打ち解けることはできませんでした」

 

―写真の道へー

 サッカーではトップにはなれないと考えた金盛さんは、大学進学では次のステップとして「写真」を選ぶことにした。アラーキーを輩出した千葉大学の工学部画像工学科で化学・物理の側面から写真の基礎知識を勉強しなおした。卒業後は撮影プロダクションに就職。主に広告写真の仕事をチーム単位で請負うシステムの会社で、プロのカメラマンを目指す生活がスタートする。まだまだフィルム写真の時代だった。

 

 「別のチームに、僕に目をかけ可愛がってくれた先輩がいました。その先輩が、今まで撮りためた写真を営業ツールとしてプレゼン用にまとめてみたら、とアドバイスしてくれたのです。これが人生の大きな転機となりました」

 

 得意だった鉄道写真。仕事の合間に個人的にこつこつ撮影していたものをまとめ、キヤノンギャラリーに応募した。キヤノンギャラリーの個展は公募制で審査がある。審査にパスしてここで個展を開催できることは、カメラマンにとってのステイタスであった。

 

 平成7年。初めての個展「風を求めて」を銀座と札幌のキヤノンギャラリーで開催。

 

 「実は銀座での個展開催第一日目は、あの、地下鉄サリン事件が勃発した日だったのです。銀座は騒然としていました。ヘリ、消防車、救急車がひっきりなしに通る。キヤノンギャラリーには、出勤途上の報道カメラマンがカメラを借りに飛び込んできました」

 

 そんなハプニングもあったが、個展は成功を納めた。鉄道模型の写真をはじめとして、鉄道写真のオファーが徐々に入るようになり、翌年、フリーランスとして独立した。

 

「風を求めて」 

暁の彗星(寝台特急「彗星」)

 

―ライバルから親友へー

 カメラマンとして、コツコツと実績を積み上げていった金盛さん。長田時代、ライバルとして最後まで分かりあえなかったI君とは、いつの間にか親友になっていた。

 

 「人間は才能で生きて行くべき、との持論を持っていた彼でしたが、少しずつステップアップしながら写真をやり続ける努力型の僕を認めてくれるようになったのです」

 

 天性の臭覚を駆使し、数々の企業オーナーとして活躍するI君。今では、お互いの社会的立場は抜きにして、いつでも本音で語り合える得難い親友だ。

 

―鉄道写真ー

 平成13年には、キヤノンギャラリーと並ぶ公募ギャラリーの雄、銀座の富士フォトサロンで、個展「雪路線の詩(ゆきみちのうた)」を開催。長野と新潟を結ぶ豪雪路線・飯山線に魅せられた金盛さん。6年間通って撮りためた、日本の原風景を連想させる山里と鉄道の写真だ。

 

 

 

 

「雪路線の詩(ゆきみちのうた)」   

家路×鉄路 

 

 そして今年の八月、再びキヤノンギャラリーでNゲージ鉄道模型を被写体にした本邦初の写真展「1/150の鉄道世界」を開催した。

 

 広告写真に比べて鉄道写真のギャラは安い。それでも、オファーの日程が重なれば、必ず鉄道写真の仕事を優先してきた金盛さんだ。

 

 

 
 

 1/150の鉄道世界」

  東海道本線の機関区(蒸気機関車全盛期)

 

 「うまい」と言われるより、「金盛さんらしいね」「記憶に残るね」「なんか気になるね」と言われるような写真家になりたい。「一番気に入っている作品は?」と問われたら「NEXT ONE 次の作品」と答えられるようになりたい。そう考えている金盛さんだ。

201612月取材・写真・文 田中直美 )

 

編集後記 

 記者も個展「1/150の鉄道世界」に伺いました。多くの鉄道ファンの方が訪れていましたが、どの人にも目配りして丁寧ににこやかに質問に答える姿が印象的でした。

 家族は大学時代の同級生だった奥様とお子さんが三人。三人目に授かった初めての女の子にはついつい甘く、𠮟方が「お兄ちゃんたちとは全然違う。ダブルスタンダードじゃない?」と奥様に注意されるとのこと(笑)でした。

 

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「Face To Face」NO.55「叩けよさらば開かれん」

 高34回生 佐藤絵里

 白川台中学卒

 

 家庭科部

 ユースホステル部

 行政書士

 日本カレーパン協会会長

 

CAから行政書士へー

 CA になる。佐藤さんは、長田時代から友人たちにそう宣言していた。CAの華やかさに憧れていたのではない。「おとなしくて、どちらかというと目立たない生徒だったと思います」。親から独立して経済的に自立することが第一の目的だった。

 

 当時のCAは女性の花型職業。卒業した短期大学からは100名以上が同じ航空会社を受験したが、合格したのは数名という超難関だった。時はバブル絶頂期。仕事はハードだが、世界中を見て歩けた。滞在地では、なるべく現地の人の生の生活が見えるような場所を、一人でどんどんウロウロ。ドアのないバスにも乗ったし、ソ連のペレストロイカ時代のモスクワで見た、庶民の生活の急変も忘れられない。

 

 だが、佐藤さんは10年間で、あっさりとCAの職を辞めてしまう。「CAは体力的にとてもハードな職業です。一生の仕事とは最初から考えてはいませんでした。飛行時間1万時間を目指していましたが、7500時間で辞めました。CAをしているだけでは見えないもっと広い世間というものを見たくなったのです」

 

 しばらくの間は、好奇心のおもむくままにいろんな仕事にチャレンジした。面白かったのはエキストラ。映画「スーパーの女」では、実は買い物客の役で出演している。派遣会社に登録して引っ越し屋さんで働いたときは、重い家具や冷蔵庫も男性社員と共に運んだし、TOEICの試験監督も務めた。

 

 やがて、司法書士の事務所で働きだした佐藤さんは「自分には、机の前でひたすら書類を作る仕事より、外回りの多い行政書士の仕事が向いているのではないか?」と考えて資格を取得。2年前に行政書士として独立した。現在はNPOライフサポート東京にも所属し、主に認知症の人の成年後見の仕事を請け負っている。

 

 CA時代に培った「誰とでもうまくコミュニケーションをとれるスキル」が今の仕事にも役立っていると思う。仕事はいそがしく、お昼を食べる暇もなく飛び回っている。基本、一日2食。朝食は、この10年間、毎朝、カレーパン。実は、これが佐藤さんの第二の顔なのだ。

 

―日本カレーパン協会会長―

 

 日本カレーパン協会なるものがある。今年4月に、民放の人気番組「マツコの知らない世界」に登場した「日本カレーパン協会会長」が、なんと佐藤さんだ。

 

 「10年ほど前にブログを始めました。食べ物のネタであれば書きやすいし、検索したら「カレーパン」だけのブログはなかった。だれも書いていない。これだ!って思いました」

 

 佐藤さんはもともと甘いものが苦手。小腹がすいたときに食べるカレーパンが大好きだった。CA時代も、日本からこっそり持ち込んだカレーパンを海外のホテルで食べたりしていたほど。

 

 週末は、パン屋さん巡りをして一週間分のカレーパンを買ってくる。帰宅したら、まず、いつものお気に入りのお皿に載せてブログ用に写真撮影。その後、一つ一つラップに包んで冷凍。そして、それを毎朝一つずついただく。10年間で4000個以上。同じものは食べていない。

 

 「毎朝、その時間がとっても幸せ。揚げてあるものは、まず少しレンジで解凍してからオーブントースターで焼きます。焼いてあるものはレンジだけで美味しい物も。どうやったら、冷凍したカレーパンが一番おいしく復活するか、それを考えるのも楽しいですね」

 

 先日は、二子玉川でカレーパンのイベントを主催した。東急沿線のパン屋さんから100種類以上、5000個のカレーパンを用意した。お店側には一切の負担をかけないように、集荷も販売もカレーパン協会のメンバーが執り行う。一人5個までと制限していたが、1000人のお客様が列をなし、わずか30分で売り切れてしまった。

 

 イベントは、まだ東京と名古屋でしか開催していない。それを全国に広げ、将来的には海外にも広めたい。「カレーパンは、世界中どこを探しても日本にしかないんです。ぜひ、カレーパンの魅力を世界中に広めたい」

 

 佐藤さんの座右の銘は「叩けよさらば開かれん」。「私はキリスト教徒ではありませんが、積極的に努力すれば必ず目的を達成することができる、という意味で、昔から好きな言葉です」。

 

 行政書士として飛び回って仕事をし、週末にはカレーパンを求めてパン屋さん巡り。憂鬱だった長田の体育で鍛えたパワーが役立っています、と笑う佐藤さんでした。

 

 

編集後記

 日本カレーパン協会のHPを見てください。そのユーモアのセンスとカレーパンラブの力にびっくりすること受け合い。http://www.currypan.jp/

 私も取材ではカレーパンをいただきました。

 

佐藤さんのブログ:「カレーパン大好き」http://tougarashi7.seesaa.net/

 

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Real Face to Face

 

 

 

10月8日(土)、「 Face to Face」連載50回突破記念イベント

「Real Face to Face」を開催しました。

 


 

これまでご登場頂いた方々に実際にお顔合わせいただき

「Face to Face」を一つのきっかけに、これからの同窓会活動を考えよう

という試みで、中22回生の高榎尭さんから高62回生の谷山さんまで

20名の方々と9名のスタッフが新橋に集まりました。

 


 

中22高榎さんのご発声による乾杯の後、

4つのテーブルに分かれて食事をしながらの歓談タイム。

暫くの楽しいおしゃべりに続き

参加者による自己紹介。

 

 

 

名前や出身中学に加え

年長の先輩からは

「珍しく電話が掛かってきたと思えば

お墓のセールス、しかも自動音声だった」

などの近況もユーモアたっぷりに披露されました。

 

 

 

 

その後、再び各テーブルで

「同窓会の在り方、長田高校の未来のために

何ができるか」についてディスカッションが行われました。


 

 

 

そして、最後はお決まり!全員で校歌を熱唱してお開きとなりました。

年齢も活躍分野も違う、普通なら出会うこともなかったかもしれない方々と、

同窓生という絆で結ばれ、またその縁を広げていく。

同窓会の素晴らしさを深く味わったひと時でした。

 

 

「Face to Face」担当記者 28回生田中直美さんに一言インタビュー

 

 

・出身中学は?

 歌敷山中学校

・取材対象者はどうやって選ばれるの?

 神撫会東京支部総会でお目にかかった方や、推薦をいただいた人の中から、学年や男女がなるべく偏らないようにお話を伺っています。

・取材を続けている中で嬉しかったことは?

 インタビューの後に、その後の近況などをお知らせいただけると嬉しいですね。また、記事がきっかけで思わぬ出会いが生まれたりのご報告をいただくと、やって良かったなあと思います。

・これからの「Face to Face」について

 いわゆる「成功した」人ではなく、豊かな人柄、ユニークな活動、楽しいエピソードなどから長田らしさをご紹介できたらいいなと考えています。 

 

(32回生 大寺佳子 記)

 

 

 

 

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「Face To Face」NO.54「人生の目的をさがして」

 高29回生 水草修治

 飛松中学卒

 

 筑波大学 文学部卒

 東京基督神学校卒

 

 苫小牧福音教会牧師 

 

―モリアオガエルと国文学ー

 須磨の禅昌寺の池に、モリアオガエルというカエルがいた。水草さんは中学2年生の春、モリアオガエルのオレンジ色の瞳に魅せられてしまう。高校三年の夏までずっと「ぼくの青春はモリアオガエルだ」と思い過ごしていた。

 

産卵期の6月、深夜の池に行くとモリアオガエルのコオロギのような鳴き声がする。木の枝の上には、白い泡のような卵塊が産み付けられていた。二十日ほどすると卵塊の底に一つの穴が開き、そこから一匹ずつ池におたまじゃくしが落ちてくる。

 

 中学時代の友人と一緒に、モリアオガエルを観察し、大干ばつで池が干上がった年には、おたまじゃくしが小さなカエルになるまで育てて山に返したりしていた。

 

 水草さんがもう一つ打ち込んだのが国文学だ。将来はそれで食べていこうと決めていた。古典の授業を熱心に受け、おもな作品は高校時代に通読した。「父が平家物語を諳んじていたとか、小学生時代に過ごしたのが須磨寺町だったとかいうことが、私が国文学に興味を持った背景かもしれません。高校では、人生を考える科目が国語しかなかった、ということも理由の一つですね」

 

 気になる女の子もいたが、恋と受験とモリアオガエルの全てをかなえるのは無理と考え、「周回走でひーひーいいながら」、勉強とモリアオガエルに打ち込む高校生活だった。

 

―塩狩峠ー

 高校三年の夏休みは、受験勉強のために大倉山図書館に通っていた。ある日、図書館の隣の文化ホールで、二人の友人といっしょに映画「塩狩峠」を見た。

 

印象に残った二つの場面があった。一つは、キリスト教の伝道者が、旭川の雪が降りしきる街の中、十字架上のイエスの祈りを紹介していた場面だ。「イエスは自分を十字架にかけた人々のために『父よ。彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから』と祈ったのです」

 

もう一つは、主人公である鉄道員の永野信夫が、峠を逆走し始めた客車を止めるために線路に自分の身を投げた場面だ。「自分はあんなことができるだろうか。ほんとうの愛とはああいうことなのだろうか」。石畳の坂道をくだりながら、映画を一緒に見た二人の友人と語り合った。

 

―灰色の世界―

 その年の秋のある日のことだ。夕刻に図書館から帰宅した水草さんは、祖母の亡骸の発見者になってしまった。自殺だった。少しわがままなところがあったとはいえ、幼い頃からいっしょに暮らしてきた祖母だった。半年前の冬に風邪をこじらせ寝込んだことがきっかけで、老人性の鬱になってしまっていた祖母。そんな祖母を、水草さんのお母さんが一生懸命に世話をしていた。しかし、祖母は、自分で自分の命を断ってしまったのだった。

 

「玄関の階段で祖母が縊死していました。その亡骸に向かって、『なんで、こんな死に方をするんだ。あとの者の迷惑ではないか』という言葉を、祖母に心の中で投げつけてしまっていたのです。警察に電話をして、許可を得て祖母を抱き降ろしました。まだ温かい体は私の腕にあまりに軽く、そのとき初めて『おばあちゃん、かわいそうなことをした』という思いになりました。葬儀では事情を知る親戚が『17歳といっても男だねえ』と、冷静に対処した私をほめてくれていましたが、私自身は、『自分は義務感や意志は強いかもしれないが、人間として最も大事なものが欠けている』と感じていたのです。それは愛でした」

 

祖母の死後は、周りの世界がすべて、灰色の砂漠のように感じられた。「人はなんのために生きているのだろう?単なる利己的満足のためなのだろうか。だとしたら、なんと虚しいことだろう」

 

そのような時、思い出されたのが、あの「塩狩峠」の中で、伝道者が紹介していたイエスの言葉だった。「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか、わからないのですから」

 

翌年浪人した水草さんは、ある日、クリスチャンだった長田の元同級生と、模試で一緒になった。試験から帰る道すがら、彼女にキリスト教に関する疑問をぶつけた水草さん。「私では質問にうまく答えられへんから、一度、私が通っている教会の牧師さんに質問を直接したらええわ」と言われたのが、初めて牧師と話すきっかけとなった。

 

10個ほどの質問を準備していった水草さん。「教会の魔女狩りの罪についてはどう考えていらっしゃいますか?」という水草さんの質問に、「神を信じていると言いながら大きな罪を犯してしまった私たちは、神にざんげするほかありません。」と牧師が答えたことと、「私の人生の目的は神の栄光をあらわすことです」と語ったことが印象に残っていると言う。

 

―感動の日々ー

 一浪して筑波大学で国文学を学び始めた水草さんは、筑波でも教会に通い、将来は牧師になると決めた。そして将来の神学の学びの備えとして哲学の学びに転じた。大学を卒業後、国立にあった神学校に進学・卒業。牧師となった。

 

 練馬の教会に九年、長野県小海町での開拓伝道(教会のないところに教会をスタートさせる)を二十二年。そしてこの春、北海道の苫小牧福音教会に転任した。

 

 牧師になってからの日々も、決して一本道ではない。何度も悩み、分かったと感動し、そしてまた悩み、いつも何か新しい命題を考えている。でも、そんな日々は感動の連続だ。新しい発見の喜びがあり、信者さんたちからも、想像もしていなかったような驚きや感動を与えられ続けている。

 

町から苫小牧に転居して半年。苫小牧での初めての冬の雪が、もうすぐやってくる。2016年10月 取材・写真・文 田中直美

 

編集後記 苫小牧にこの春単身赴任した長田OB28回生のNさんが、苫小牧の温泉で、偶然湯船で水草さんと話したのが今回のインタビューのきっかけでした。日本全国、世界各地、OBの方々が一生懸命に生きている姿と出会えるのは、私自身も感動です。http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20160504/p2  Nさんと水草さんの、出会いの日の水草牧師のブログです。

 

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